終章 女のはなむけ

文字数 3,338文字

終章 女のはなむけ

麗子は、両親と手紙をやり取りし、また懍や水穂とも話しあって、正式に松田高校へ転校することを決めた。見学に行く前は、まだ馬鹿にしろと言われていたところに通うのは嫌だなという気持ちもあったが、一度行ってしまえば、そんな迷いはどこかへ消し飛んでしまった。

彼女の両親は、麗子が行きたいと思う高校へ行くのが一番だし、それに、良い先生がいるところだし、かまわないと言ってくれた。そして、本格的に音楽学校へ進学する準備をするため、音大の先生にあいに行こうとも言ってくれた。指の蜂窩織炎は薬を飲んだおかげですっかり良くなっていた。

そうなると、水穂のピアノを拝借したままではいけないということになり、彼女は製鉄所ではなく、自宅から高校に通うことになった。と、いう事は、製鉄所から、出て行くということになる。カレンは、お別れだとも寂しいとも何も言わず、松田とマズターが音韻的に近いので、面白いなとかそういう事を言っていた。

そして、いよいよ明日製鉄所を後にする、という日がやってきた。もう、必要な荷物は宅急便で自宅に送ってしまったため、自分の居室が、べらぼうに広くなってしまった、なんて麗子が考えていると、

「麗子さん、ちょっと入っていいかしら。」

カレンが何かもって入ってきて、麗子の隣に座った。

「あら、どうしたの。」

「今さっき、骨董屋千鳥さんに連れて行ってもらったの。あるかどうか心配だったんだけど、店主のおじいさんに聞いたら、用意してくれた。はい、これ。私からのおはなむけ」

と言い、小さな箱を麗子に渡した。

おはなむけという言葉が何なのか麗子は一瞬わからなかったが、箱はしっかりと紅白のひもで厳重に結ばれていた。

「ほんとうは、しっかりとお餞別とかおはなむけとかそういう言葉を書くべきでしょうけど、いくら書いてもかけないので、これで申し訳ないわね。」

箱の上には、記号のようなものが記されていて、直接の意味は理解できなかったが、多分それを示しているペルシャ語であると思われるので、麗子は何も言わなかった。

「おはなむけに、火を使うものや赤いものは、火事を連想させるからやってはいけないんですってね。でも、私にとっては一番大切なものだから、どうしても差し上げたかったのよ。店のおじいさんたちも、変な人だという目で見てはいなかったし、今はなんでもありだから、いいんじゃないの、なんて言ってくれたから、まあ、いいかと思って。大きなものや持ちにくい物もだめというから、一番小さいサイズにしてもらった。これなら、机の上においても礼拝できるんじゃないかな。」

「いったい何を買ってきたの?」

麗子が驚いてそういうと、

「七輪。私にとっては、一番大事な礼拝のための道具。」

確かに、この箱のサイズであれば、イワシが焼けるくらいの大きさの七輪であれば十分入る。

例えば、キリスト教徒であれば十字架のネックレスを送る、仏教徒であればお香や和装仕立ての御朱印長を送るなど、様々な贈り物があるが、偶像崇拝というものがなく、炎がそれにあたると確信している彼女にとっては、七輪は贈物として一番ふさわしい物なのかもしれなかった。

「一番感動した贈り物だったから、送るときにはこれで送ってあげようと思ってた。やっぱり、一期一会のお別れだもの。そう簡単には忘れてほしくないし、時々思い出してほしいから、ありきたりの物では嫌だったという理由もあるけれど。」

「そうか、あたし、そんなにすごい人だったかしら。」

「ええ、一番仲良しのお友達だったわ。ここまで仲良くさせてもらったのは、生まれて初めてよ。だって、ペルシャの学校では、はじめからいじめを受けに行っているようなもの。それは、公立であろうが私立であろうがみな同じ。勿論、税金払うので精いっぱいだから、授業料が払えないという理由も確かにあるけれど、私は、友達が一人もなくて寂しかったというのも、学校に行かなくなった理由の一つだったから。」

ああそうか、イスラム世界では、ジズヤと呼ばれる税金があったんだ。それを支払うときは平気で体罰があったことも聞かされている。それにアウトローのように体に刻印されることも珍しくなかったんだっけ。現在は撤回されたらしいけど、イスラム原理主義のテロ組織が支配している地域ではまだ平気で行われていると聞く。そんなわけだから、あらゆるところで差別があるし、学校でいじめを受けることも頻繁にあるだろう。たぶんきっと、いじめられた子が泣いて訴えても、親は我慢しろというしかできないだろうし、学校に文句を言いに行っても、解決はできないだろうなと思われる。そういう事が待っているのであれば、確かに学校に行ってもなんの意味もないよ、なんていう人がいても不思議はない気がする。

そうやって、当たり前のようにやっていることが、相当苦労しないとできないという人もいるということを、麗子は彼女と知り合って初めて知った。

「わかったわ。あたしも、当たり前のことができることをうんと肝に銘じて生きていくことにする。もし、だらけそうになったら、それを思い出して自分を鍛えなおすことにする。」

「そうじゃなくて、感謝するのよ。鍛えなおすとか、自分を責めるようなことは、かえって毒になるわ。」

「そうね、そうしたほうがはるかに楽かもね。」

「頭の中でやってたら、だんだん薄れていく物だから、具体的に行動しなきゃだめなの。はるかに楽なんてことはないわ。それが祈るということだから。」

もしかしたら、その行為のおかげで、カレンたちは争わなくて済んだのかなと麗子は思った。勿論、蝗害の対策としては、なんの役にも立たないことなのであるが。

「麗子さん、体を大事にしてね。もし、行き詰ったり、悩んだりしたことがあったら、七輪で火を焚いて、少し頭を休めてね。私も、何かあるとそうすることにしているの。ずっと眺めているとね、だんだんに心が落ち着いてきて、まあ、何とかなるかなって気がしてくるから。結局のところ、人間それ以外に解決策を発明することはできないと思うのよ。」

そうだよね、人間がやってくれることなんて、本当にちょっとしたことでしかないのだからね。今思えば麗子はそう考えるようになっている。そのほうが、気楽に世の中を生きて行けるような気がする。

「ペルシャでは、文字が読めなくても頭が切れる人はいっぱいいるのね。」

「まあ、お世辞言って。」

二人はそういって顔を見合わせた。

でも、本当に一期一会ってすごい言葉だと思う。そして、人って、こんなに大事なことを教えてくれるすごい人もいる。彼女は文明的に言ったらはるかに遅れている国家の出身者だが、自分以上に自国について愛着もあり、民族的なアイディンティティもあり、自分たちの立ち位置もちゃんと心得ている。それに比べて、あたしは、技術的に豊であっても、そういうところは何もない。もっと、自国について説明できるようになりたい。そういうところを、しっかりと学べる学校へ行こう。これが麗子に課せられた第一目標だった。

「明日、いよいよ、出発なんですってね。青柳先生の前で泣いたりしたら私、恥ずかしいもの。あなたが出て行くときは、中庭で礼拝しながら見送るわ。だから、今ここでお別れしておく。短い間だったけど、本当にありがとう!」

カレンは、顔中を涙で濡らして、両腕を麗子の肩に回した。麗子も我慢できなくなって、わっと泣き出してしまった。



翌日、麗子は、残っていた最終的な荷物をスポーツバッグに詰めた。最後にカレンにもらった七輪を、丁寧に風呂敷で包んで手提げかばんに入れた。過剰包装に見えたけど、なぜかこうしておきたかった。

そうこうしているうちに、玄関の戸がガラガラと開いて、お世話になりました、と、聞き覚えのある声が聞こえてきた。新しい人生の幕開けだ!と思って、麗子は荷物をもって、玄関へ向かって行った。

父が運転する車の中でも麗子はいただいた七輪をしっかり抱えていた。時折、カレンさん、中庭で礼拝しているのかな、と考えていた。
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