18

文字数 5,326文字

〝何度だって、春が来る〟


 <18>

『やろうよ』
『ピアノ好きなら』
『大好きなら』
『それなら、逃げるなよ』
 あの日のあの声を思い出してわたしはまたにやにやしてしまい、誰にも見られていないのに少し恥ずかしくなりました。
 突然頭の中で響いた凛とした少女の声。その正体に気づいてからは、わたしの毎日に今までよりもずっと明るい光が差しているような気がしています。だって、とてもびっくりして、とっても嬉しかったのです。どこか聞き覚えのあるけれど誰とも同じでないあの声、されどどこか、お母さんや妹と似ている声。それはもう、自分の声だとしか思えてなりません。
 みんなのように大声で笑ったり、泣いたりすることはできない。わたしは声を出すことが絶対にできない。
 それでも、それでもわたしの中にはちゃんと声が住んでいて、だからわたしはこわれてなんかいないんだって、胸を張って音楽をすることができるのです。
「あ、夏俐! いってらっしゃい」
「……………………」
 いってきます。
 卒業式の今日は特別に、6年生とそれ以外の学年の登校時間が違います。ふわりと素敵な香りのする空のもと、わたしは前に進みました。
 ああ、いろいろなことがあったなあ。
 幼稚園や保育園にろくに通わなかったわたしにとって、きっと怖くてたまらなかったであろう初めての学校生活。最初の頃のことはもうぼんやりとしか思い出せないけれど、よく毎日頑張ってくれたね、と小さいわたしをいっぱい褒めてあげたいような気持ちです。
 だって、君がめげないでくれたおかげで、いろんな素敵なものに出会うことができた。素敵な人に、出会うことができた。
 音楽の先生は今でも怖いけれど、彼女がいなければピアノを始めることなんてなかったし、そう、もっと言えば、わたしがみんなと同じように声で話す子だったなら、もしかしたら一生無縁だったのかもしれません。そう考えるとちょっとぞっとしてしまいますね。
 嫌なことも悲しいこともあるけれど、それでも前に進むための大切なものをわたしはもう知っています。この地球がときに理不尽に思えても、星に祈るしかないほど追い詰められても、それでも羽ばたきをやめない蝶のように凛々しく粘り強く。
 毎日毎日見続けた坂道。ここは、あの雪の日の出来事があった辺りです。わたしは少しだけ歩みを緩めて通り過ぎました。
 昨日の雨で洗われたような街並みと空が広がっています。今日は暖かい。甘い空気を胸いっぱいに吸い込むと、普段とは違うグレーのスカートと真っ白のリボンが、風に揺れて踊りました。
 ちょうど、『未来の歌』の景色のようです。
 さあ、今日はやっと本番だ!
 春のきれいな風が、さっとわたしをなでて行きます。乾きかけのアスファルトを進みながら、人生初の伴奏に希望を持って優しい空を見上げました。
 

「お、夏俐じゃーん! おっはよー!!」
 大声にびっくりしてとび上がってしまいましたが、誰なのかは確認せずともわかっています。
 6年生の後半、勝手に距離を置いてしまっていた親友の姫花。そうだ、まずはあのことを話しておかなければなりません。
 あれは夕灯さんとのあの雪の日の、その後。
 遅すぎる帰宅を果たしたわたしを出迎えたのは、心配した母でも通知表を馬鹿にしたくてたまらない妹でも、ましてや遅刻したサンタクロースでもありませんでした。
「…………!!」
 うちの玄関の前でまごまごしている、不審者、にしては可愛らしい格好の女の子。
「な、つ、り〜〜〜〜〜〜!!!」
 このとき骨折していたら伴奏できなくなっていたでしょうけれど今回はセーフでした。
 頭から突っ込まれてきつくきつく抱きしめられたわたしはあまりの苦しさに身をよじって逃げ出そうとしましたが、次の瞬間、それどころではなくなってしまいます。
「なんでなの? あたし何かしたぁ……? 謝るから……仲良くしてよっ!」
 柄にもなくぼろぼろと涙を流す姫花の姿に、わたしは、殴られたように自分の過ちに気がつきました。
 姫花はわたしが邪魔だなんてちっとも思ってなかった。
 姫花はグループが違うとか不釣り合いだとかそんな言葉は視界の隅にもなく、そんなこと考えたこともなかったんだ。姫花にはたくさんの友だちがいる。でもわたしのことも、ずっと、ずっとただひとりの親友だと思ってくれてたのに。
 そしてわたしだってそうでした。姫花のことが大好きで一緒にいたいと思っていたくせに。本当にわたしは馬鹿で仕方ありませんね。でもこんな馬鹿でもできることがひとつだけあって、それが、一生親友を大切にすることです。
 桜みたいなピンクのシャツの上に、軽やかな黒いブレザーを羽織った姫花は今日も可愛い。シャツと同じ色をしたリボンが桜の花と一緒に揺れて、これじゃあみんなの注目の的になってしまうのでは?
 あ! おしゃれ好きの姫花は卒業式という一大イベントでは特別な髪型してくるかなぁ、と思ってたけど。
 にこにこ笑顔のまま口パクをすると、彼女はすぐに反応しました。
「ポニーテールなんだ、って? そりゃそうだよー! ポニーテールと言えばあたしあたしと言えばポニーテールでしょ!!」
 見慣れたポニーテールを彼女はさらっとなびかせます。たしかに、いちばん似合っていちばん姫花らしい。そして卒業式でポニーテールを選んだのも、逆に姫花らしいなと納得しました。
「よお、お邪魔?」
「邪魔だよ」
「お前に聞いてねぇよ」
 姫花の後ろからひょっこりと顔を出した怜歩さん。きっとお隣さんの彼も一緒に登校してきたのでしょう。わたしからするとなんだか久しぶりです。あと姫花、嘘でも邪魔だなんて言っちゃだめだよ。
「聞いてよ夏俐こいつさー、ブラウンの服なの。ばかじゃない? まじでチョコレイト貫く気だよ」
「ははっ。ここまで来たら貫いてやろうと思って。っつーのは嘘で普通にお下がりだけど」
 そうだチョコレイトさん。もう懐かしいな。
 ふたりのやり取りに笑って笑って、「夏俐テンション高いねぇそりゃそうかぁ」と言われて、ふふふと笑いました。
「おはようっ」
 後ろから聞こえる弾んだ声に3人で振り返ります。
 あっ。
「おー、おはよ!」
「おっはー夕灯、へへっかっけーじゃーん」
 やって来たのは夕灯さん。紺色の服をきっちり着た彼は怜歩さんの感想にはにかんで笑いました。
 あんたもこーゆーの着ればいいのにだから兄ちゃんのだからしゃーねーだろ、なんて幼なじみコンビがやり合う様子を微笑ましく見ていると、夕灯さんが手招きをしてこちらに顔を寄せます。
「伴奏、頑張ろうね」
 ほんのり赤い顔をした彼もきっと、どきどきでいっぱいなのでしょう。
 「もちろん」と「ありがとう」と、「頑張ろうね」も込めて、わたしっは最大級の笑顔で大きくうなずき返しました。
 

 ついに卒業式本番。わたしはピアノ椅子に座って待機中、「ぼくはこの曲やりません」と夕灯さんが宣言したあの日を思い出していました。
 初めての卒業式練習での突然の宣言。次は合唱の練習というところでいきなり伴奏者がボイコットして、何も知らないみんなはさぞびっくりしたことでしょう。かくいうわたしも、「どうにかできるから全部ぼくに任せて」と自信満々の彼からとうとう何をするつもりか聞き出せておらず、きっとこの300人ほどの空間でいちばん驚いていたことに違いありません。ほんともう腰を抜かすかと思いました。
 音楽の先生は目を丸くしてしばらく黙り込み、「この曲はやらないし、練習してないので弾けません」ときっぱり続ける夕灯さんを、「どうしてしなかったの? じゃあ誰がすればいいの?」と責めたてます。その声は困惑が多すぎて、いつものあの鋭さや冷たさを感じられませんでした。面白いことが起きている雰囲気を察して、待たされてる5、6年生たちが興味しんしんに彼らを見つめます。
「あのね夕灯さん、もう本番まで2ヶ月しか……。大体、冬休み前に楽譜は渡したでしょう?」
「でも、ぼ、ぼくは弾きません」
 直前で伴奏を拒否された『未来の歌』。これを弾くのは、そう――。
「ぼくより夏俐さんのほうがっ、上手く弾けるので!」
 いや絶対、絶対夕灯さんのほうが上手いけどね!
 わたしを手のひらですっと指した彼は晴れやかな、まるで人生の念願が叶ったような笑顔をしていました。
 思わず立ち上がってしまいめちゃくちゃ注目されてそれはもう恥ずかしかったけれど、でも、こんなに大勢の前ではっきり宣言してくれた友だちの姿にわたしは今でも憧れています。
 さあ、彼のおかげで迎えられた本番が始まる。
 緊張感と春の空気でいっぱいになった体育館。今からはわたしたちの音楽でいっぱいに満たしてみせます。

 『未来の歌』。
 どこまでも高く高く続く青空。春の南風が、空を飛ぶ真っ白の鳥と共に吹き抜けていきます。どこまでも、果てしなくどこまでも。
 夢に向かって一心に翼を広げる鳥。目指す先は大空なのか、煌めく瞳はその先に何を見ているのか。透明な風を受け、まっすぐまっすぐ空を裂いていく鳥の姿は、夢を追いかけて未来へと進むわたしたちのようです。
 澄みきった風。力強い純白の翼と、突き抜ける青空。
 さあ、明るく未来へいこうじゃないか!

 弾き上げて、まず後ろで待機する夕灯さんを返り見ました。
 どう?
 すっと背筋を伸ばして立っている彼は、にっこりと素直で素敵な笑顔を見せます。
「すごい、最高だよ」
 小さな声でささやかれて、湧いてきたこの気持ちはもう、何とも比べられません。わたしはこの6年間でいちばんいちばんいちばん嬉しい気持ちになりました。
 とうとう、卒業です。


 輝かしい『未来の歌』に続き、5年生による今年も同じの『羽ばたきの歌』で力強く背中を押されてどこまでも進めるような気でいたみんなも、次に夕灯さんの弾いた『思い出の歌』に心を揺さぶられたのでしょうか。そのときから泣きだした子が多く、前の2曲により明るい希望でいっぱいだった体育館に優しく大切な影が落ち、卒業をみんなの心に確かなものとして据えたことでしょう。
 卒業式というこの場にこの3曲はあまりに最高の組み合わせです。最後までわかりあえることはなかったけれど、やっぱり、これを選んだあの音楽の先生はすごい方なのでしょうね。
 それと、わたしはその瞬間を逃しませんでした。縛るものがあると風の吹かない夕灯さんのピアノに一瞬だけよぎった、宝物のような素敵な匂いの風。その風はみんなの心に染み渡ったのか歌声が良い意味で揺れて、その揺れは聞く人の心も揺らして、さらさらと美しい波が広がっていったのをわたしははっきり感じていました。夕灯さんの力に、ちょっぴり恐ろしくなったくらいです。
 そんな卒業式ももう終わり。
 目を涙に濡らしながらも笑い合う卒業生の中で、わたしはまた風に吹かれています。
 でも、まだ楽しみが残っているのです。
 わたしの小さな手から伸びる細い紐。日に当たり輝くそれを辿って見上げると、先についた真っ白の風船は空を透かしてほんのり水色に染まっていました。
「夏俐ー!」
 振り返ると、ふわっと紐の先で風船が揺れ動きます。
「ほら、見て見てー!」
 今ちょうど貰ったのか、駆け寄ってきた姫花も風船を握っていました。桜みたいな可愛いピンク色。さすが姫花、今日は周りが全部彼女らしい桜色です。
 ふたりで短い坂を下りて運動場へ進みます。集まった卒業生たちはみんな、配られたふわふわ浮かぶ風船を楽しそうに眺めていました。一面がとってもカラフルで、すごく綺麗です。
 幼なじみ怜歩さんはさすがにチョコレイトを極めてなかったみたい。こげ茶の風船とかそりゃああんまりないでしょう。
「そこは貫いてほしかったなぁ」
 姫花が彼の真っ赤な風船を見上げてぼやきます。
 そこで、青色の風船を貰った夕灯さんも来ました。今日の青空よりもちょっとだけ濃いブルー。
 ふと気づくと流れで4人集まっていました。姫花と怜歩さんはクラスの友だちのところに行かなくていいのかな? と思っていたら、夕灯さんも同じ考えだったのかわたしより先にそれを訊いてくれました。
「ああ、あたし夏俐と一緒がいいから」
「おれらのクラス絶対叫ぶしうるせえからさ」
 なるほど、姫花はわたしと一緒がよくて怜歩さんは姫花と一緒がいい、と。
 わたしと夕灯さんは顔を見合わせ、ふふふっと笑い合います。本当に、良い友だちです。これからも大切にしなければ。
 4つの風船は隣と触れたり離れたり、羽ばたく瞬間を待ち望むように楽しげに揺らめいています。
 卒業式のお楽しみ。これから卒業生がみんなで一斉に、この風船を大空へと飛ばすのです。
 南風にふわふわただよう百いくつの風船たち。今、運動場の前の方で合図が出されました。
 みんながはしゃぎながら紐から手を離します。
 解き放たれた風船たちは、すっとまっすぐ天に向かって飛んでいきます。姫花のも、怜歩さんのも、夕灯さんのも。
 その光景に見とれていて少し遅れたわたしも、ふわっと手を開きます。
 綺麗な真っ白の風船は、未来に向かって。
 空高く飛んでいく様子を、わたしはずっとずっとずっと見上げていました。


 END
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