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文字数 4,392文字

〝6年、ふたたびの春〟


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 桜の花はまだ咲き誇っていない、今日の良き日。
 わたしたち5年生は、ぎゅうぎゅうに並べられたパイプ椅子の列の中で、はなむけの歌を歌っています。
 なんだかんだあってようやく迎えられた卒業式。風こそ吹かないけれど、ピアノに向かう夕灯さんは前よりも凛々しく、また、わたしにとって親近感溢れる存在になっていました。
 『羽ばたきの歌』も校歌も呼びかけも、ずっとわたしは突っ立っているだけです。まあ、やんちゃばかりで掲示物を破ったり下級生をいじめたりする今年の6年生に特に感謝はないので、いつもよりそんなに罪悪感はありません。
 わたしの意識は、もっと別のほうに飛んでいます。
 4月になれば、わたしたちが6年生。最上級生であり、経験するすべてが小学校最後になる。
 その中のひとつが、クラス替えです。小学校ラストのメンバーを決定するクラス替えが、行われます。

 行われ……ました。
 ……まあ、概ね予想通りかな。
「夏俐いいいぃぃ、嫌だあああ!!」
 そう言いながらわたしにすがり付く姫花を、彼女と同じクラスになった子が「ほらヒメ早く行くよ」と引っ張って行きます。
 わたしはその子に苦笑いを返しながら、ランドセルと引き出しの箱を抱え直しました。
 発表された、6年生のクラス。
 今までの傾向を鑑みると、だいたい予想通りの結果となりました。
 引っ張られてしぶしぶ去っていった姫花は4組。ちなみに幼なじみの怜歩さんも。赤い糸だねぇと伝えたら、「だとしたらその糸カビ生えてるわっ!」ってすごい剣幕で言われました。腐れ縁ならわかるけどカビ縁ってなんか嫌です。
 ふたりは一緒だったけれど、夕灯さんはそこからいちばん遠い1組。
 そして、わたしは2組。
 やっぱり、みんなバラバラになってしまいました。百何十人を4クラスに分けるのです。そう簡単に、仲の良い人と同じにはなれません。逆に5年生のときが奇跡すぎます。いや、もしかしたらこれも天の仕業かもしれません。あのメンバーが揃ったクラスであの担任なら、プラマイゼロで平等になりますから。
 でもわたしはそんなに悲しんでいません。もちろん一緒だったら飛び上がるほど嬉しかったけれど、同じクラスになれなくたって別にいいのです。姫花は5年生になるまでクラスが違いましたが仲良くできたし、怜歩さんはそんな姫花とよく一緒にいるし。
 それに。
「じゃ、じゃあ、また」
 不思議なことに最後の席まで隣だった夕灯さんに、また後での意味を込めて小さく手を振り返します。彼はにこっと笑って、教室を出ていきました。
 クラスが離れたって、別にいいのです。
 あのクリスマスの出来事を越えた3学期。わたしと夕灯さんは、違うクラスになっても会えるほどに仲良くなったのですから。
 

 3学期から6年生の始めにかけて、夕灯さんについての知識がぐんと増えました。
 住んでいる地区に誕生日、好きな漫画、嫌いな食べ物など、他愛のないことがたくさん。猫より犬派だとか、抹茶は飲めないけどコーヒーはいけるとか、くだらないことをいっぱい知ったのです。
 そしてそれはひとえに、夕灯さん自身が今までの比じゃないくらいたくさん話してくれるようになったおかげです。
 当たり前に話せるようにならないといけないって思い込んで、逃げる選択肢を視野に入れてこなかった夕灯さん。それでいて、伴奏をすることで歌から逃げていると罪悪感も感じていた。
 優しい彼はわたしなんかの洪水みたいな思いをちゃんと読んでくれました。普通に喋れないんじゃない。上手に喋れないだけだ。耐えるのも立ち向かうのも当たり前じゃない。あなたが強いからだ。わたしは、そんなあなたみたいに、なりたい。
 あなたが伴奏でみんなの太陽になるように、わたしも。
 夕灯さんはこんなことも言ってくれました。夏俐さんのおかげで声が喉から出るのがとっても楽になった、って。
 名前があれば逃げていいのか、名前がないから立ち向かわなくちゃいけないのか、その答えは小学生のわたしたちにはまだ出せそうにもありません。
 でも、きっとこれでいいのです。彼が少しでも楽になったのなら。
 そんなわたしたちの話題に上がるもので圧倒的に多いのが、ピアノと音楽に関することです。半分筆談半分声の、外からみたらへんちくりんであろう会話。それが今日も校舎のすみっこで行われています。
 相談室がある並びの廊下の隅に放置された机があって、クラスが離れたわたしたちふたりは昼休みになるとよくここに集まるのです。
 透明な笑顔で喋るようになった夕灯さんですが、音楽のこととなると自分が話すよりわたしの話(文だけど)を聞きたがります。どうしてかはよくわからないですが、彼はわたしの見方が好きみたいです。
 今日は『星空の歌』、5年生の音楽発表会で歌った合唱曲について話していました。わたしが話していたのはその伴奏、というか夕灯さんの弾いたあの風が吹くピアノ限定ですが。
 すっかり夕灯さんと話すとき専用になった小さめのノートに文字を紡いでいきます。あの風の匂いや広がる景色。深い紺の空を埋め尽くす無数の星粒。やわらかで丸いレモン色の火花。
 速さ重視の汚い文字を真剣な目で追っていた夕灯さんが、またあの顔でわたしを見ます。
 あの顔とは、わたしが本から知った言葉では表せない、例えるなら羽毛の落下音よりも静かに雷が落ちたのを見たような顔です。それか、打ち上がった花火が空を染め上げたとたん世界が昼になったような。
 そして、いつもと同じことを言います。
「なつりさんは、す、すごいよ!」
 頬を桜桃色に染めて、屈託のない笑顔でいつもそう言うのです。
「すごい、か、かんじゅ、感受性?っていうのかな、わ、わかんないけど、とにかく、すごいんだよ」
〝そんなことはないよ わたしピアノへたくそだし〟
「ううん」
 彼が首を振ると、こげ茶の前髪がさらさらと揺れます。
「き、君の世界は」
 名前を言うより短くて楽なのか、最近よく「君」と言うようになりました。言い換えても逃げてるわけじゃないと思えるようになったからでしょう。とても良いこと。
 それでも、「君」という言葉はなんだか大人びていて、いつも少しだけどきっとします。
「君の世界は、だ、誰も知らない、匂いの風が吹いてる」
 夕灯さんの目は、ガラス細工みたいな純真さでわたしを映します。
 その瞳は、彼が風の吹くピアノを弾くときのあの強い光をプリズムに通したようでした。
 その輝きをずっと見ていられなくて、わたしは謙遜に走りました。
〝でも風がふくのは、ゆうひさんのピアノがすごいからだよ〟
「だ、誰もいないときの、でしょ?」
 はっと思い出します。夏の伴奏オーディションのあと、わたしが音楽室に忍び込んだときのことです。
 ――〝なんでさっきと音が全ぜんちがうの?〟
 ペンを渡すと、彼はこう書いた。
 ――〝もう、だれもいないと思ってたから〟
「あ、あのね」
 夕灯さんは、少し自嘲するような笑顔で真相を教えてくれました。
「なにかにし、縛るものがないときは、う、上手く弾けるんだ」
 縛るもの。真っ先にわたしの脳内に浮かんだのは、指揮台に君臨する音楽の先生です。
「ほ、ほら、指揮とか、メト、る、ロノームとか。あと、し、失敗してもいいとき。緊張してないとき、って、って言っても、いいかも」
 伴奏者としてピアノの前に座れば、なにかに縛られるのは避けられません。指揮者の指示、一定のテンポ、人々の視線。
 そういうことか、と霧が跡形もなく晴れて消えたように納得しました。
 彼のピアノはどれだけ上手くても、合唱中は風が吹かない。でも、あの秋わたしを逃がしてくれたときは先生の指揮がなかったし、突然弾きはじめたからみんなの注目も逸れていた。だからわたしには星空が見えたんだ。
 それにそうか、あの冬の『羽ばたきの歌』。わたしも姫花も怜歩さんも間近で聞いていて、「だれもいない」状態じゃなかったのに熱い海風を感じたのは、わたしたちを「縛るもの」だと認識していなかったから。
「だ、だからすごくないよ。すごいのは、そのけ、景色が見えて、ことだ、言葉にできるの。ぼ、ぼくは、緊張したら、へ、下手になる。すごくはない」
〝なわけない! いちばんすごいのはゆうひさん〟
「い、いやでもだって、ぼくは風とかわかんない。す、すごいのは」
〝わたしだってあなたのピアノいがいで風を感じたことない やっぱりピアノがすごい〟
「で、で、でもさ――」
 日々繰り広げられる、この「すごい」の無限ループ。
 ちょっとこそばゆくても、楽しくてずっと続けてしまうわたしがいました。


 「私たちはみんな楽器ですからね」
 最近ちょっとだけ楽に感じるようになった音楽の授業。特に興味のない先生の話を、右から左に聞き流します。
 先生は今でもわたしのことを無視しています。でも前と少し違っていて、5年生のころは鬱陶しいけど触りたくもない埃だったとすれば、今は見えてすらいない空気のよう。去年までは春になると呼び出されて謎の長話を聞かされていたけれど、今年はそんなこともありません。
「みなさん身体を大切にするんですよ。喉以外もね。私たちは繊細な楽器なのだから」
 これはこの学校の児童なら誰でも知っている音楽の先生の口ぐせです。人は楽器で声がその音だということ。
 じゃあ、わたしの音は?
 もちろん、ありません。わたしは声を持たないのだから。音の鳴らない無能な楽器は、この音楽室では空気同然なのです。
 しかし、わたしの中にあるちょっぴりの反抗精神が呟きます。
 わたしの声、ピアノの音だってことにしたらいけないでしょうか。
 声を持たないわたしだけど、その代わりがピアノ。みんなの喉が、わたしの指先。おこがましい話だとは重々承知です。上手くもないただの子供が、ピアノだなんて素晴らしいものを自分の声だと言い張るなんてありえません。
 それでも、夕灯さんに出会ってピアノの楽しさに目覚めて、わたしは知ってしまったのです。その大きな体躯と小さな指先が一体化する感覚、紡がれていく音の心地よさ、それを、わたしはあるものと結びつけました。
 テレビで熱唱する歌手も、指揮台でお手本を示す先生も、歌う人はみな気持ちよさそうにしています。その快感は、もしかして、ピアノの鍵盤を叩き重なる音を聴くこの感動と同じなのでは?
 それなら、わたしの声は――。
 考えて、周りに見えないくらいの薄い笑みを浮かべます。昔のわたしなら信じられないことです。
 ほら、こんなふうに、音楽の授業が苦しくない。すべてはピアノと、あの風に出会わせてくれた夕灯さんのお陰です。
 声の代わりにピアノ。そうだとしたら、わたしという楽器には身に余る音を頂いています。
 だからわたしがするべきなのは、その音を磨いていくことしかありません。
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