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文字数 9,924文字

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 そんな2日目も日が沈めば勝手に終わり、そして、今日。
 地獄が始まって3日目の今日。
 ひとつ前の席は空っぽでした。朝の健康観察の際、普通は欠席や遅刻の理由をちゃんと言われるのに、彼女は「休みです」しか言われませんでした。だから、登校拒否だと、これからも来ないんじゃないかと騒がれていました。
 今は3時間目が終わった休み時間。業間休みのときに姫花が倒れて、わたしも一緒に1時間は保健室で休みました。とりあえずわたしだけ戻ったけれど、もちろんレナさんはいません。
 わたしのせいです。
 わたしが、彼女の、居場所を。
「な、な、つりさん」
 隣を見ます。不安や後悔やいろんな感情を含んだ表情の夕灯さんが、それでもなお澄んだ目でわたしを見つめていました。
 彼がひとつ息をゆっくり吸います。
「…………大丈夫」
 小さいけれど、安心感をたくさん飲み込んだその言葉。
 優しいような、それでいて確かな芯と固さのある声が、わたしの嵐のような心を上からそっと抑えてくれました。きっとこの瞬間は、わたしが声を持っていてもなにも言えなかったでしょう。
 泣きそうになるのをぐっとこらえます。無理やりにでも笑顔をつくって『ありがとう』を伝えると、彼は深刻そうな顔をして、でもすぐに無理矢理のような明るい顔になって言いました。
「ね、ねぇ、今日の、ひ、昼休み、おん、音楽室、行くっ?」
 音楽室に行こう。そしてピアノを弾いて遊ぼう。そういえば次の授業は音楽なので、そのときに先生にお願いできるのでしょう。ていうか音楽なら早く移動しなきゃ。
 ……嫌だなぁ。音楽。
 夕灯さんのお誘いは、残念だけど断ることにしました。姫花が心配でなにもできそうにないし、それに夕灯さんはともかく、こんなわたしが教室外の安全地帯に逃げることは、なんだか許されないような気がしたのです。
「そ、そっ、か」
 首を横に振ったわたしを見て、夕灯さんは残念そうに、また不安そうに言いました。
 この前、4人音楽室に集まってピアノを弾いた日が、なんだかとても遠い昔のようでした。それくらい、今の状況がぶっ飛んでいて、かけ離れていて、非常に異常でした。
 あの音楽の先生が関わる授業で遅刻してしまうと大変です。どれだけ嫌でも、わたしはすぐに音楽室へ向かい始めました。
 今日はひとりで移動します。姫花の姿はどこにもありません、おそらく早退したのでしょう。この状況の中、あの姫花が自分から帰るとは思えないので、きっと保健室の先生に強制させられています。
 でもそれでいい。なんなら明日も休んだほうがいい。
 彼女が倒れてからクラスの雰囲気が今までより増して肌に刺さったのは、姫花の不在が原因かもしれません。バラバラなくせに「一緒」にこだわる小学5年生の女子。毎日問題ばかりの彼女らを器用に束ねて、支えて、桜のように笑顔を広げていく。それでいてわたしのような地味な人をも、同じ色の瞳で見てくれる。女子にとってこのクラス最大の求心力となっていた彼女が、今はいないのですから。
 いつもどおりのチャイムが鳴って黙想し、まぶたを上げるとそこにはいつもどおりあの先生がいます。今日は2学期最後の音楽の授業らしいです。
 今日の授業で何をするかは、誰にだってわかりきっています。
「それじゃあまずは発声練習をしましょう。全員立って」
 合唱練習。『羽ばたきの歌』。
 しかしひとさじほど安心なのは、今や先生がわたしを完全に無視している点です。無視は好都合。だって、誰にも迷惑をかけずに済むから。
 発声練習が終わると指示があり、ピンク色のファイルに綴じた楽譜を開きます。『羽ばたきの歌』は、今までにないくらい難易度の高い曲です。歌えないわたしでも楽譜を見ればわかります。難しいから上手くいかなくて、今こんなことになっているのです。
 授業でも練習は難航していました。
「はあ……………………」
 先生がため息をついて、ピアノの前に座る夕灯さんを見ます。
 そして、ゆっくりとみんなのほうに視線を戻しました。
「あのねぇ、みなさん」
 かつかつと靴の音を立ててピアノへ歩み寄り、天板のふちにそっと触れる。その薄く赤い唇を動かし、言いました。
「伴奏の夕灯さんがいつから、どのくらい練習してきているかわかっていますか?」
 広い音楽室に不穏な空気が充満します。
「1日何時間も、毎日毎日。あなたたちの合唱のためにですよ。それに比べて、なんですかその歌は。前も酷ければ、今も何も進化していない」
 夕灯さんの顔は見えません。うつむいて、影になっています。
 いつもだったら適当に聞き流す先生の話。しかし、今の5年3組は違います。心が乾燥して、逆立って、簡単に痛みを感じてしまいます。
 そのはけ口がどこに向かうのかも、小学生ならきっとわかるでしょう。
 音楽室からの帰り際。派手な男子たちが、「夕灯ちゃんはいいよな」と彼に向かって言い捨てていきました。
 夕灯さんは言い返しません。
 彼の背中に声をかけられないわたしは、伸ばしかけた手をさっと引っ込めました。後ろでまた別の男子が笑っているのに気がついたからです。
「◯◯◯でお似合いじゃん」
「…………………………」
 彼らがわたしたちに向けた、とても文字として書き留めたくはない言葉。それが突き刺さって痛いけれど、夕灯さんの痛みを想像すると我慢できました。
 男子たちが去って、夕灯さんが少し遠くからこちらを振り見ます。
 その沈んだ瞳と目が合って、反射的に唇が開いたけれど、音が溢れるわけもありません。
 彼は暗い顔で、そっと言いました。
「………………ご、ご、ごめん」
 ……違う。
 何も、何も悪くないんだって!
 それも、何もかも言えないまま。
 夕灯さんは前を向くと、早足でわたしを置いていってしまいました。
 このときから彼は、クラスの大部分から強く当たられるようになってしまいます。
 

 どこに投げていいのかわからない感情を抱えたまま、学校が終わりました。
 帰宅すると無心ですぐ自室に駆け上がり、子どもケータイで姫花にメールを送ります。もし体調が悪くて寝ていたりしたら無視してくれるでしょう。その辺は気を遣わない関係なので、迷惑かもなんて考えにはならずに素直に心配の文を打ち込みました。
 わたしは家で、リビングのピアノを弾くとき以外はほとんど自分の部屋にこもっています。いつもより多く手が止まりながら宿題をしていると、どこか1階が騒がしいような気がしましたが、悪いほうの騒がしさじゃなかったので特に気を留めずに続けていました。。
 ケータイが軽やかなメロディを奏でたのはちょうどプリントが終わった頃。姫花からの返信はそこそこ元気そうで、安心しました。
 簡単な返信をしてメールボックスを閉じます。ケータイのホーム画面をじっと見て、あることに気がつきました。
 今日は12月24日。クリスマスイブだったのです。
 そのことから、ここ数日の一連の出来事は、後に『地獄のクリスマス』と語られるようになります。


 ついこの間わたしが弾いた下手くそなメリークリスマス。あの切なくほろ苦くどこまでも美しい曲を、夕灯さんが弾いている夢を見ました。もちろんわたしなんかとは別次元の完璧さで。
 そこはすべてが焼け果てた荒野で、一面に広がる凪の海上で、体育館で音楽室。ぽつんと置かれたグランドピアノ、その前に、ただの風景と見紛うほど自然に佇んでいる彼。ひとりぼっちで、ピアノの黒い身体から粛々と、風や景色を生み出していく。
 視界がくるくる変わります。荒野、海、夜、寒空。冷たくもどこか柔らかい匂い。見慣れた光景になるとはっとする。音楽室。そこにはみんながいて、夕灯さんは笑っている。
 ピピピピ。ピピピピ。ピピピピ。
 目覚まし時計を止めて、むくりと起き上がります。
 とても寒い。12月の6時はまだ暗い。それでも文句を言っている場合でもなく、そもそもわたしは言えず、すぐに寝床から出て支度を始めました。
 このところは、朝に1階へ続く階段を下りているときに思い出します。檻のように仄暗く息苦しい教室。まともじゃない合唱練習。みんなの泣き声やいらつく声。空っぽな前の席。姫花。
 夢の中で吹いていた風の残り香が、灰色の現実に塗りつぶされていきます。
 学校の居心地が良くないのは、わたしにとっては今に始まったことではありません。
 だから、少しは慣れているとはいっても、今の状況は最高に最悪で異常です。打開策を探せるほどの希望もない。いつも元気な姫花が倒れるほどの、ぐちゃぐちゃでめちゃくちゃな状況。
 もし、この状況が変わるなら。歌が上手くなれば変わるのか? いや、もうそういう次元じゃなくなってしまっている。
 どうしてこうなってしまったんだ。わたしたちが言うことを聞かなかったから? 誰のせい? 一体誰のせい?
 それにどうして、いちばん悪くない夕灯さんがあんなこと言われなきゃいけないの?
 そんな問いが永遠に繰り返される、吸うほど身体に溜まっていくような重暗い空気の中。できるのはただひとつ、息をひそめて頭を下げてじっと耐えることです。流れに逆らえば溺れてしまう。
 淡々と髪の毛を梳かして、いつものひとつ三つ編みを作ります。鏡に映るお下げ髪の女の子は、暗い瞳で見返してきました。
 曇天。登校班に次々と集まる、クリスマスでテンションの高い小学生たち。
 5年3組の人々は、さながら小学生の戦場と言える状況のあのクラスに、今日も自ら足を運ばなければいけません。


 朝からどんな感じだったかなんて、もういちいち伝える必要もないでしょう。
 いちばん良かったことであり悪かったのは、姫花が学校に来ていたことです。
 彼女は明らかに元気ではありません。ちゃんと眠れた? と書いて訊こうとしてやめました。顔を見れば訊くまでもなかったので。そして、彼女に付き添っていた怜歩さんからは、謎のアイコンタクトをもらいました。どういう意味か知りたかったけど、あいにく口パクも手話も通じないし、彼はすぐ去ってしまいました。
 わたしよりも後に登校してきた隣の夕灯さんは、一見いつも通りでした。わたしは昨日の出来事がみんなに忘れ去られていますようにと祈ります。
 さあ、この地獄も、今日さえ終われば一時休戦です。なぜなら明日から冬休みに突入するから。
 それがなによりの救いでした。
 しかし、このタイミングで長期休暇が来たらレナさんは完全にずっと学校に来なくなってしまうんじゃないか、という不安の塊は、わたしの胸に残ってごろごろと痛みました。
 目の前の空席に苦しさを感じながら、引き出しから教科書やノートを引っ張り出します。終業日とはいえ、午前の3時間は普通に授業なのです。給食前の4時間目と午後で終業式などをします。
 わたしは真面目に授業前の準備をしていますが、まともな授業が行われるとはまったく期待していません。だって、今日の3時間目は再びの学年音楽。それに向けてまた地獄のような練習をさせられるなんて誰にでもわかりきっています。
 の、ですが、事態は一転。1時間目の国語は、普通の授業が行われました。いえ、最近の状況にしたら普通ってだけで、全然いつも通りではなかったけれど。
 とにかく、ちょっとだけ機嫌の悪い先生の嫌々感丸出しな授業は、一応は国語の授業の形をなしていたのです。もしかしたら、さすがに授業が停滞しすぎるとまずいから仕方なくやっているのかもしれません。
 国語の授業は音読から始まります。右端または左端から当てられていって、それぞれの物語または説明文が終わるまで、段落や文ごとに次の人へ進みながら続きます。
 この前が異常なだけで、いつもはわたしが当てられることなんてありません。でも今の状況だとわからない。もしこの前の反省処刑みたいに、音読でわたしの番が飛ばされなかったら。そう考えると、命を凍らせ奪う冷水が流れる川のふちギリギリに立っているような、ぞっとする恐怖を感じます。
 それはきっと隣の夕灯さんも同じ、いや、わたしよりも強い恐怖を感じるでしょう。だって彼は、いつも当てられたり当てられなかったりがバラバラで、どうなるか予測できないのです。
 夕灯さんのことも必ず当てないでくれたらいいのに。とわたしはいつも思います。担任の先生に限らず、わざわざ彼に発表させる先生はよくいるのです。たたでさえ『隣の人とペアで考えてどちらかが発表しましょう』のとき、夕灯さんに頼まざるを得なくて申し訳ない。そうなるのもなぜか彼といつも隣同士の席になるせいですが。不思議なことは多いです。
 面倒くさそうな声の指示で音読は淡々と進みます。空席を乗り越えてわたしの番になりましたが、先生はひとつ後ろの人を名指しで当てました。飛ばしてもらえたのです。わたしはほっとして、小さく息をつきました。
「次」
 この調子なら夕灯さんも飛ばしてくれるかもしれないと、希望が出てきました。
 そして、あっという間に夕灯さんのひとつ前まで音読が終わります。
「次」
 緊張したようすの夕日さんが、ごくりと唾を飲み込みます。
「……さん」
 隣の彼の肩の力がふっと抜けたのを感じました。
 良かった、飛ばさ
「先生」
「……!」
 そのとき、離れた席の男子が手を上げて立ち上がりました。心なしか、にやついているようにも見えます。
「夕灯くんを飛ばしていますよ」
「…………っあー、そうだね」
 ……まずい!
「じゃあ次、夕灯さん」
 先生が欠伸をしながら言うと、男子は満足したように座ります。
 まずい。
 焦って隣を見ます。顔をこわばらせた夕灯さんは、震える手で教科書を握ると、覚悟したように立ち上がりました。
 4月のあの姿と重なります。音読で当てられた夕灯さんが、どもり、みんなに盛大に笑われたあの日の姿。
 どうしよう。
 わたしは無能な頭をぐるぐると回して考えました。どうしよう。どうしたらいい。何ができる。何をすれば――。
 わたしがこんなに焦るのには訳があります。
 彼が音読しなければいけない次の段落。これは、彼には、無理です。
『有名なものは、生むぎ生米生たまご、となりの客はよくかき食う客だ、などあります。そして、英語の早口言葉は――」
 わたしには早口言葉の難しさがわかりません。でも、上手く話せる人でも難しい言葉が、話すのが苦手な夕灯さんにとって最悪なものだとは予想することができます。
 これは、これは、逃げるしかありません。通ってはいけない茨の道です。
 隣に立つ夕灯さんが青ざめていました。流れる冷や汗を雑に拭って、揺れる目で活字を見つめています。
「……っゆ、ゆ、有名な、ものは」
 まさか、読むつもりなのでしょうか。
 だ、だめ!
 読んでしまったら、あなたは。
「……んな、な、なな、な、なな、なっ、ま」
 瞬間、クラス中からどっと沸き起こる気持ち悪い笑い声。
 反応するように背中がさっと冷えて、頭と目が熱くなりました。
 ああ。
 どうにかして、逃げないと!
 夕灯さんにはひっきりなしに銃弾が浴びせられます。その戦場からどうすれば彼を引きずり下ろせるのか、わたしには何ができるのか、笑い声とその騒音に便乗して関係のない話をする声に吐き気すら感じながら、考えても考えても。
 わたしに何ができる。何ならできる?
 わたしには、声を上げて立ち向かうことができない。
 そう、例えばレナさんのように――。
「……………………」
 レナさん、は。
 ――『全部夏俐さんの問題なのに、あんたが勝手に声を上げてなんやらかんやら言っているのはなんで?』
 ……恐怖が、心臓を縛り付けるようにわたしを抑え込みました。
 動けない。
 助けたいのに!
 いつも、いつも助けてもらってる。
 彼のために、何か……!
「どうする? 夕灯さん」
 みんなが勝手に喋りだした中でも、必死に読み続けていた彼。そんな彼の言葉を遮って、先生が眠そうに言いました。
「もうやめる?」
 はっとして、わたしは瞬間的に、とりあえず助かったと思いました。
 先生が気まぐれに、逃走路を指し示してくれたのです。
 ここで夕灯さんが首を縦に振れば彼はもう解放される。視線や笑い声の矢から。トゲだらけで茨の道のようなあの文章から。
 よかった。……助かった。
 確認するように、ちらりと彼のほうを見ます。
「……!」
 歪められた眉。ぎゅっと結ばれた唇。
 強い光を宿した瞳が、教科書からバッと上げられて先生へ向けられます。
「やります」
 即答でした。誰も予想しなかった展開に、クラスが静まり返ります。
 彼の表情を呆けながら見ました。怒りのようだけど負の要素をはらまない、眩しく強い感情。
 夕灯さんに秘められた強さ。
 その強さが、檻の中みたいな教室に、ぱっと一点の小さな太陽のように光りました。
 その光はこの空気を焼いて綺麗にしました。すうっと息を吸うと、身体が熱くなります。
「……あ、そう。じゃあ頑張れば」
 もう、笑う人はいませんでした。


 ずっと考えていました。
 ……情けなくてたまりませんでした。
 夕灯さんに、どうにかして逃げてほしいと願ったこと。わたしなんかと違って、彼は逃げるつもりなんて毛頭なかったのに。
 数日ぶりの学年合唱練習。年末の冷え切った体育館に、百何十人が整列しています。
 合唱練習の場では、夕灯さんのピアノに風は吹きません。それでも、あの凛々しさや芯のひかりはわかって、歌えないわたしは練習中ずっとピアノだけに耳を傾けていました。
 自分を情けなく思うのと同時に、彼のことがとっても眩しく見えていました。
 春、夕灯さんのことをもっと知りたいと思ったのを思い出します。
 たくさん知りました。わたしと同じで「話す」ことに難しさを抱えていること。それでも放送委員の仕事から逃げない強さがあること。
 彼が弾く自由なピアノは、景色や風を生み出すほどに素晴らしいこと。
 逃げ出したわたしなんかを追いかけてくれるような、優しさと勇気に溢れる人だということ。
 そして、どんな苦しい状態でも、立ち向かっていくこと。
 今弾いていること伴奏だってそうです。彼は話すだけでなく歌も、声に関わる全般が苦手だと言っていました。それでもわたしみたいに邪魔者になることはせず、伴奏というかたちで立ち向かう。
 わたしとは全然違う、強くてかっこよくて眩しい彼。
 彼は最後まで読み切った。その後、先生が少し明るくなってもうあの地獄は消え失せた。なんてハッピーエンド。
 でも。
 わたしがずっと考えていたのは、自分の情けなさでも彼の眩しさでもありません。
 あの笑い声、人を殺す力を持った笑い声のことです。
 わたしは、こう思います。
 ……結果良いように終わったとしても、無遠慮に笑われて傷ついたことが帳消しにはならない。
 笑われることは痛い。それが回避できないことを原因とするなら尚更。弁明ができないならもっと。
 きっとそれは、数多の矢が突き刺さり弾丸で風穴が開くのと同じです。
 それなのに。
 どうして、彼は今こんなふうに、普通にピアノを弾いていられるんだろう?
 痛いはずだ。
 血が、止まらないはずだ。
 少しはましになったと評された歌声の渦の中に、邪魔者がひとり。でも今はそんなことも考えられません。夕灯さんのことしか考えられません。
 どうして?
 彼の強さは、いったいどこから来ているの?
 平和だとあっという間に練習が終わって、教室に戻ります。実は次の4時間目は終業式なので体育館に残ったほうが早いのですが、それでも一度教室に帰らせる先生たちってどういう思考をたどったのでしょうか。馬鹿なわたしにはわかりそうにもありません。
 終業式の長ったらしい話の間も、わたしはずっとずっと考えていました。
 そして、昼休み。
 いつもポケットに入れている小さなメモ帳を開いて、鉛筆で言葉を連ねていきます。これが、わたしの声。
 書き終えるとそのページを破り取ります。立ち上がって向いたのは、すぐ隣です。
「…………な、なに?」
 いきなりこちらを見たまま固まったわたしに、夕灯さんは不思議そうに首をかしげます。
 わたしはそっと、彼にそのメモを差し出します。
「……………………………………」
 書いたのは、ぐるぐると頭から離れない思いです。
 どうしてそう強くあれるのか。
 わたしも夕灯さんみたいになるには、どうしたらいいのか。
 あなたの眩しさが、目に焼き付いて離れない。
「……………………………………」
 メモを受け取ってから、夕灯さんは黙ったまま微動だにしません。影になり顔が見えなくて、わたしは急に不安になりました。
 嫌な質問だったんじゃないか。触れないでほしかったんじゃないか。
 心臓が速く打って頭がくらくらします。
 でも次の瞬間、わたしの心音はうるさいを超え、溶けて消えてしまったような気さえしました。
 メモにぼたぼたと落ちた、大粒のしずく。
「……………………!」
 一瞬の真っ白な時間を経て、わたしを猛烈な後悔が襲います。
 だめだった。訊いては、いけなかった……。
「…………な、……なつりさん」
 夕灯さんが顔を上げてこちらを見ます。わたしは、おそるおそる目を合わせます。
 彼の濡れた目が細められて、透明に悲しそうな笑顔になりました。
「……ありがとう。……や、優しいね」
 ……え?
「…………っ、強いって、い、ってくれるの」
「……ぼ、ぼくは、ふ、……普通、なんだよ」
 夕灯さんは溢れ出した涙を飲み込むように抑えます。涙を流す人を前に、身体が硬直したように動かなくて、わたしはどんな顔をしていいかわからないまま突っ立っていました。
 普通、って。
 普通?
「そ、しょ、障がいで、でもなくて、ぼう、病気でも、ない。苦手な、だ、だけなの」
「……そ、そう、言われてる、か、から」
 障がいでもなくて病気でもない。そう言われて育ってきた。だから、普通?
 この人は何を言っているのか、と、わたしは悪寒のようなものまで感じました。まるで知らない感情が溜まった湖の水に、手を触れてしまったようです。
「だ、だから、当たり前なんだ。が、がんばらないと、いけない」
 話の全体像がわたしにもわかってきました。
 彼の「話すことが苦手」に、苦手以上の名前はない。だから自分は普通。普通なら、ほかの普通の人みたいに頑張るのが当たり前。
 強いわけじゃない。普通。
 それなのに強いって言ってくれる夏俐さんは、優しいんだね。
 ……そんな。
「な、なつりさんは、いいんだよ。ぼ、ぼく、みたいに、な、ならないで」
 わたしの「話せない」には、医学的な名前があります。
 でも、でも、名前があるからって逃げていいことにはならない。って、わたしはそう思い込んできました。
 ……そうだ。考えたこともなかった。
 その、逆は?
 名前がなかったら。
 夕灯さんは、名前がないからって、必ず立ち向かわなきゃいけないの?
 それが、彼の強さの正体なの?
「が、頑張らなきゃ、いけない、いけないのに、逃げるときも、あ、あ、あるし」
「ほら、ば、伴奏。ぼ、ぼくなんて……。なつりさんはいつも、う、歌のほうに、い、いるのに」
 呆然としました。
 ずっとかっこいいと思っていた。何事にもめげずに負けずに立ち向かう、強くて眩しい夕灯さん。
 でも、彼はそんなの普通で、みんなと同じく当たり前に頑張らないといけないことだ、と。
 それどころか、彼の強さの象徴とまで思っていた伴奏すら、逃げだと思っていたんだ。
 ……違う。
 違うって、大声で叫びたくなりました。というか叫べるならばきっと声を学校中に響き渡らせていたでしょう。
 同時に、わたしは納得しました。
 笑われて痛いはずだ。血が止まらないはずだ。それなのに――。
 それなのに普通にしているように見えたのはきっと、これが彼の当たり前だったから。
 満身創痍だろうと構わない、血は垂れ流しにして見向きもせず、みんなの普通に合わせて立ち向かう。
「っだ、だから、な、なにを言われても、……いいんだよ」
 いいや。
 ごめん。もう、わたしが許せない。
 乱暴にいすを引いて座ります。嗚咽を抑えながらきょとんとする夕灯さんを横目に、引き出しから適当にノートを取り出しました。選ばれたのはピンク色の国語のノート。
 後ろ側から開いてまっさらなページを出すと、夕灯さんの机との境目に置きます。
 これでいい。わたしには、これしかない。
 鉛筆を握りしめます。思いをぶちまける準備は、できています。
 今度はわたしが、夕灯さんを救いたいのです。
 ……まずは何から伝えましょうか?


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