III. 黄昏の影

文字数 2,302文字

 極東の独裁者は、こころを許した側近にだけこう漏らしたそうです。
 私は愚かな人々を余計に愛す、なぜなら火を見ても驚かないからだ、と。



 私たちは昼頃に目を覚まします。つまり、午前中の講義はおわってしまったわけです。親指の腹で頬を撫でて、キスをすると、バナーチェも目をこすりながら起きます。彼女は真面目なので少し残念そうにしましたが、おわってしまったことは仕方がないので、私に身体を寄せて、まだもう少し寝ることにしたようです。彼女はいつも、家で寝るよりずっとよく眠れる、と言います。そしてそれは私もまったく一緒で、実家ではなかなか眠れないことがあるのです。私たちには、勝手を知った広い実家より大学の寮の小さな一室が心安い。この部屋はまるで離れ小島で、扉が閉まると、政治家の汚職や、悲しい事件や、戦争の足音は、ぜんぶ私たちから遠い。私たちはここでひたすら真面目と不真面目を繰り返して、原始の時代の優雅な暮らしです。ああ、なんて素晴らしい。彼女の胸が私の腕に触れています。すこし汗ばんで、ぴったりとくっついています。彼女の胸がゆっくりと上下して、ほんとうに無防備な寝顔です。子どものように寝ています。鼓動から彼女が安心していることがわかり、私は彼女が安心していることに安心します。彼女は私の横で安心して寝ているのです。私もきっと穏やかな顔でそれを眺めているのです。そう。そうだ。私は場違いではない。私は人間と一緒に生きてゆける。私はこの寝顔に値する。嗚呼、まったく私は馬鹿だ。大馬鹿だ。あるときから私は周りの人間に不安ばかりを与えているように感じて、それで勝手に自分を悪魔の手先かなにかだと思い込んでいたのです。私は周囲とまったく異なる存在だ、私が人間に不安を感じるように、人間もまた私に不安を感じているに違いない、と。嗚呼、はずかしい。そんなことはない。私はここにいていい。それにしても人間の温度はとても心地いい。ブラインドが風に揺れています。私もすこし眠ります。


 目を覚ますともう夕焼けです。ブラインドからオレンジ色の光が漏れています。今度は彼女の方が先に起きていたようです。私の上に裸の女があり、女の目に獣があります。どういうわけか私の身体はもう準備ができていて、女が私にくちづけをすると、血が巡ります。隠すところのないくちづけ。意図は明らかです。女は優勢を楽しんでいます。私は私の獣性との上手な付き合い方を知っているので、彼女にまずじゅうぶんに口づけをします。キスをしながら彼女の身体を触って血の巡りを良くします。私は悪魔のように奇妙に女に触れますが、女はこれになんの疑いも持ちません。荒い息に気が付くと女はもう噴火寸前です。私には何が起こっているのかがぜんぶわかっています。ここまでくればもう魔術はいりません。彼女の反応を見ながら正しい場所を正しく触ってやると、しばらくして彼女がふるえます。準備が済んだわけです。
 彼女は急にしおらしくなり、私に指揮棒を渡し、位置に着いて、楽器を構えます。彼女ははやく演奏をはじめたいのです。張り詰めた緊張。私は紳士ぶってお辞儀をするように、もう一度はじめてのようにキスをします。彼女はこの瞬間、正気を取り戻しますが、今度は私に狂気があります。私がおもむろに動きはじめると、堰き止められていた音がいっきに流れ出します。うねるように、爆ぜるように。このように、はじめ音は無秩序。それぞれ音には関連性がなく、行き当たりばったりで、まさに人間のようです。しかし、この無秩序こそ秩序の礎なのです。無秩序は力であり、秩序はその通り道だからです。私は音の曲線に合わせて身体を動かし、これをひとつの流れへと導きます。繰り返すような動きにも誠実を欠いてはなりません。女はこれを感じ取っています。私が彼女の髪へ触れるたび、唇へ触れるたび、肩へ触れるたび。女の精神は弦のようにふるえ、精神の音を生じます。それを聴き逃さず、さらにおおきな流れへ導くのです。私たちは少しずつ調整しながら繰り返し、そしてそれが近くなります。彼女の演奏が、急に、ためらうように鈍くなります。そこへ私が、この兆しに気づいていないような、さらにずっとおおきな、強い指揮をすると、それは訪れ、彼女の身体を通り高く火を噴きます。私は接した身体のあらゆるところで彼女のその小刻みのふるえを感じています。あたたかな息が私の胸にかかり、そして短い静寂。彼女の火は消えず、今度はより高く燃え上がり、再び音楽がはじまります。音はだんだんと洗練されてゆき、物語を帯び、感情を帯び、そして、私は私の音楽に噴火する火山を見ます。赤く光る溶岩の鮮やかさまでをはっきりと見ているのです。演奏者は、極めてよく反応しています。譜面の進むにつれてどんどんよくなってゆきます。盛り上がりどころでは、噴火する火山が華を添えます。演奏は狂ったような盛り上がりを見せています。音楽は続き、私たちのすべてが一致し最高潮に達したそのとき、急に音が消えます。
 夕暮れの色のなかをひとつの影が倒れます。驚き、困惑し、彼女の身に何が起こったのかもわかりません。しかし、私はまるで彼女がそうなるのを知っていたかのように、彼女をすみやかに横に寝かせ、息を吹き込みます。するとバナーチェもすぐに目を明きます。
「あら、私どうしていたのかしら」
 私はそれにこたえるより先に彼女を抱きしめます。優しい肌のにおい。彼女の鼓動。安らぎと、穏やかなこころを取り戻すと、ひとつの疑問が浮かび上がります。
 あの指揮者はほんとうに私だったろうか?という疑問が。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み