II. 月まで一分

文字数 1,459文字

 バナーチェの運転する車、光の鳥はとても静かです。それはやはり飛んでいるから。しばらくするとロックが終わって、いまはジャズがかかっています。街へ着くともう夜です。夜と言っても、まだ新鮮な夜でまだ夕の藍色を残しています。街はにぎやかで、飲み屋にはそこそこ人が入っているし、広場では誰かが歌っているので、私はうれしくなって、運転しているバナーチェの肩にキスをします。
「あら、あなたの生まれた国ではあまりキスをしないのではなかったかしら?」
「そうそう。いまだにね。でもうれしいときは別だよ」
「あら、そうだったの?」
「そうさ。それに私がはじめてきみにキスをしてからそれをせずに過ごす日があったかい?」
「あった気がするわ。それはね。でも、そういう日を思い出すのだって、まるで恋のようだわ」
「そうだ。きみの言う通りだ」
「そろそろよ」
 ホテルの駐車場、車を降りて、ドアを閉めると、気持ちのよい音が空に響きます。気温も湿度もただただ気持ちがいい。夜風。ホテルの外装は白い。ただその白は、儚げなようで、しかし、燃えるように紅く、それも間の抜けて黄色く、そして、小さな青です。つまり、それは夜なのに、夕暮れや朝の色をしているのです。きっと考えるべきことは多いはずです。ただ、バナーチェと歩いていると、そういうことはどうでもよくなってしまいます。色や時間はそれほど重要ではないように思えてしまう、実際には私はどこかでそれを気にしているけれど、彼女の表情や身体の動きの方を余計に気にして時間が過ぎてゆく。できるだけ正しい線で彼女を縁どりたいのです。
 フロントでチェックインを済ますと、ガラスのエレベーターで百階まで上昇します。街がだんだんと形を失い、光の群れになってゆきます。わたしはバナーチェにキスをします。景色が美しいからです。
 そして部屋へ入ると、バナーチェは母親らしく、長男の話をします。
「あの子は優しすぎるのよ。あなたに似たんだわ。なにをするにも遠慮をしているようだもの。やれば、なんでもできる子なのに。…そう。だからね。ソーニャみたいな娘と付き合ったのは、ほんとうによかったと思うわ。ソーニャは小さい頃からジョンを知っているもの。いい方向へ導いてくれるはずだわ」
「ああ、ソーニャはジョンをよく理解してくれているよ。いまのままでじゅうぶん魅力があるんだ。そうだろう?ぼくらの子だもの。ジョンは美しい花だよ。ただ美しい花というのは、誰かがその美しさに気づくまでは、冷たい風に吹かれているものなのさ」
「まあ!息子が冷たい風に吹かれて、それで気分のいい母親がどこにあって?あの子はほんとうにいい子過ぎて、悲しいわ。愛しくて」
 私はバナーチェが愛しくてキスをします。いまではこんなにキスをするから、キスをしなかった日をなかったことにできるくらいなのだと思います。バナーチェを抱きしめるといいにおいがします。とても落ち着くにおい。
 窓際にふたりで座って月を見ていると、ルームサービスで頼んだバニラアイスクリームがひとつ届きます。フォークとスプーンが付いてきたので、私はフォーク、彼女はスプーンでアイスクリームをつつきます。彼女がいたずらっぽい目でこちらを見るので、フォークですくったバニラを彼女にあげます。私ははぐらかすつもりだったのだけれど、バナーチェが私のフォークからバニラを舐めると、若かった頃のようにざわめきます。今度は私が彼女のスプーンからバニラを舐める番です。夜は深くなり、私たちの密儀を隠します。
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