VII. 影

文字数 1,755文字

「違う!素晴らしい文章だったのだ!頭のなかでは!」
「落ち着きたまえ。よくあることじゃないか」
「おまえも私。そしておまえも私だ。こういうのは全部彼の独り言か?」
 

 黒い犬は川から上がると、あっという間に乾いて、立派な様子で歩きはじめます。
 紺色の空と街灯のオレンジ色はずいぶんよい取り合わせのようです。ただ、そう感じていたのもはじめのあいだだけで、すぐに飽きてしまいました。歩けば歩くほど情緒のない街です。それになにやらずっと悪臭がしています。黒い犬はすぐにこの街を出てもよかったのだけれど、自分の立派な様子に満足していたので、人々の気配の多い通りへ出て、もうしばらく歩くことにしました。角を曲がって大きな通りへ出ると、ここでも優雅にゆっくりと、背筋を伸ばして歩きます。黒い犬の歩く様はほんとうに立派で、めかしこんだ人々の方がみすぼらしいくらいです。実際、彼は通行人のこころを読んで、彼らの下等さに呆れました。皆、彼を飼い犬だと思っているのです。とにかく立派だ、しつけが行き届いている、では、彼にはやはりまた立派な飼い主があるに違いない、と、こう考える。しかし誰が彼を飼いならせましょう?彼の主は彼自身です。それにそもそも何故飼われているから立派なのだと思うのでしょう?おそらく、彼らこそが飼い犬であるからでありましょう。街の特権階級に飼い主を得ることが上等な生活の第一歩であると刷り込まれているのです。温厚なのは結構だけれども、牙を抜かれて尻尾を振っているだけでは、それでは誇りある生命ではありません。彼らはやはり「魂までは飼いならされていない」とかいうのでしょうが、それを夜ひとりで自身に問いかけて正気な者がどれだけあるでしょう?
 黒い犬はしばらくすると人間をからかうのにも飽きてしまい、歩く影の群れから離れて、また人通りのない道へ来ました。やはり人間のいないところはいくらか素敵です。沈みかけの夕陽に向かいコンクリートの寂しい道を歩いていると、彼は道端に手帳が落ちているのを見つけました。ゆっくりと寄り、これを開いてすこし読むと、黒い犬はにやりと笑って、急に駆けだしました。


 ”いやな昼時だ。青天。快晴。しかしそのどれもが真実でない。
 身の程をわきまえぬ人たちの建てた巨大な建築群が、我々を照らすはずの日の光を遮っている。が、もちろん誰も何も言わない。言葉の価値はかつてないほど下がってしまった。例の如く言語も混乱し、正しい言葉を話すのは小さなこどもたちくらいで、あとの人々は親しいひとへかける言葉も知らぬようだ。表面的。何もかもが表面的だ。この私が表面的なんてつまらない言葉を使わなければいけないほどに。もはや魂をかえりみるひとはいない。肉体ばかりが街を歩いて、しゃべったり、金を払ったりしている。
 それに誰もこの街の腐敗臭に気が付かないのだろうか。いや、気が付かないはずがない。ひどいにおいだ。みんな気が付かないふりをしているのだろう。それは前を歩いている人がそうしているからなのか?しかし、崖へ向かっているのだとわかって、それでもそのまま歩き続けるしかないのか?いや、笛吹きがいるのだ、愉快な音楽でなにがなんだかわからなくしてしまう奴らが!そしてさらに!そしてさらに自分たちを笛吹きだと思っている奴ら、彼らを動かしているものはなにであろうか?悪習だ。我々が怠けて正してこなかった悪習がまるでひとりの人格になったようなもの、これがほんとうの笛吹き、我々を連れて破滅しようとしているものの正体なのだ。腐敗臭は日に日に強くなっている。一度足を止めて、もう一度我々がなにであったか思い出さなければならない。しかし、私ひとりが足を止めてももう手遅れだ。
 破壊だ。破壊が必要だ。破滅を回避するためのおおいなる破壊が”
 

 黒い犬の影は冬の夜空のように深く、また神話の化け物のように巨大でした。人通りのない道、夕陽の道で、彼の影は彼の本質をしっかりと表していました。これはまったく秘密の景色であったはずなのですが、実は物陰に彼が走り去ってゆくまでの一部始終を見ていた人物がありました。その人物は満足げにゆっくり歩いて手帳の落ちているところまで行き、それを拾い胸ポケットへ入れました。
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