IX. 船長が言ったのは大体こういうことだった

文字数 1,404文字

 その日はとても気持ちのいい日で、太陽と青い海で、風もよく、船長も機嫌がよく、あとは…まあ他にもいくつかいいことがあって、全部は思い出せないけれど、とにかくとてもいい日だった。
 船長の背中を見ていると、船長の見てきた海が見えるようだった。
 船長は海を見るばかり。そして急に大きな声でこう言う。
「ジョナサン!ジョナサン!魂に敗北はねえんだ」
 私はなんだか全然言葉でない返事をした。もちろん大声でだ。すると船長は満足して話を続ける。
「敗戦はある。それはそれはたくさんある。生きるってのは戦いっぱなしだし、負けっぱなしだ。たとえば徒競走で町一番になっても、町の外に出ればもっと足の速いやつらがいるし、運か実力かついに世界で一番足が速くなっても、つぎに世界で一番足の速くなるやつに負けていくんだ。そしてそいつも負ける。そいつを負かしたやつも負ける。誰も負けから逃げられねえんだ。しかしなんで俺は徒競走で話をはじめたんだ?喧嘩とかの方がよかったんじゃないか?…ほらな。俺を見ろ。いまだに迷いばかり波間に浮いて…おい、あのあたりなんか光る人間がウミガメと話してなかったか?…見間違いか…。そう…で、なんだっけ。そうそう。徒競走で一番でも、喧嘩が一番のやつと殴り合いをしたら勝てるわけがねえ。それにあいつの庭のほうが手入れが行き届いてる、とか、ちょっと俺より金持ち、とか、考えはじめたらきりがないほどだ。うん?なんか話がずれて…?そう、まあ要するにだ。勝つ、勝利ってのは、一瞬の思い違いだ」
 私はなんだか全然言葉でない返事をした。もちろん大声でだ。すると船長は満足して話を続ける。
「生きるってのは敗戦の連続だ。ただな。いいか?ジョナサン。それはただの敗戦だ。敗北じゃねえ。そもそも勝利ってなんだ?徒競走で世界で一番だと思ってたら、喧嘩でもガーデニングでも、金転がしでも一番だったってことか?ん?違う。違うぞ。ジョナサン。比べたりすることや、競争の種類は星の数ほどあるんだ。果たしてこれのすべてに勝ち続けることが勝利か?違う。それは断じて違う。それは勝利の奴隷になることだ。無限に勝ち続ける者の姿を想像してみろ。そいつはもう勝利者じゃねえ。憐れさそのものだ。それにずっと勝ち続けるなんてそもそも無理な話なんだ。だとすれば、だ。俺たちにほんとに必要なものがわかるか?なあ?ジョナサン。うん?…それは満足だ。納得だ。だから、敗戦はあっても、敗北はねえ。負けを受け入れて強くなる、それでもまた負ける、またまた負ける、もう一度立ち上がる。このくそみてえな繰り返しのその波間におまえは、俺たちは、俺たちを満たす何かを見つける。見つけようとする。この生命の強靭な光を曇らせないかぎり、俺たちに敗北はないのさ」
 私はなんだか全然言葉でない返事をした。もちろん大声でだ。すると船長は満足したように笑った。
 きっと船長は途中から自分で何を言っているのかわからなくなっていただろうし、曖昧なところが多くあったし、話の途中で遠くに噴火する島を見たり、なにかとてつもなく大きな影が空を飛んで行ったり、集中を乱すような瞬間が多くあり、結局のところ船長も私もこの話がどういう話なのか完全には理解できなかった。
 だけれど、船長が言葉と格闘しながら、間違いながら私に語ってくれた言葉は、それは頬を撫でる暖かな風のようなまぶしさだった。
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