記憶
文字数 2,096文字
美しい青を纏った少女が菜月の前に初めて現れたのは、九年前の二月のことだ。
その日、菜月は見慣れない校門のそばに立ち、時々あたりを窺いながら母の到着を待っていた。校区の中学校は小学校への通学路から少し離れた場所に位置する。入学説明会の案内を受け、菜月は初めてこの場所を訪れていた。
前夜までの雪で足元が悪く、長靴が濁った水に浸されていた。どろどろとした水面に灰色の空が映り込む。
冷たい冬の風が吹きつける。菜月はふと顔を上げた。目に入るのは校舎、道路、家並み――灰色の風景。その中に、特別に目を引く「青」があることに気がついた。
少女が一人。心許なげな表情で、厚い雲に覆われた空を見上げていた。「青」と長い髪が、少女の首元を流れる。菜月は少女の姿に見惚れ、しばらくぼうっと眺めていた。
その横顔が振り向いたとき、菜月の心は震えた。黒目がちの大きな瞳が菜月を捉え、震えたのを見た。言葉を忘れたかのように、二人は互いを見つめ合った。
沈黙を破ったのは菜月の方だった。少女が私服姿なのを認め、おそるおそる声を発する。
「もしかして、あなたも今度の新入生。」
少女の目が小さく見開いた。
「え、ええと……はい、そう、です……。」
「私も、そうなんです。」
よろしくね。様子を探りながら、かける言葉を選ぶ。少女は神妙にこくりと頷き、そして蕾がほぐれるように、柔らかな笑顔を浮かべた。
「よろしく……。」
掠れるほどの小さな声で返事があり、菜月がほおっ、となっていると、不意に少女の目元に涙が浮かんだ。
「どうしたの。大丈夫。」
「……ごめんなさい、大丈夫。ずっと一人で、不安だったから、安心しちゃって。」
「一人なの。保護者の人も来るんでしょう。」
「……今日は、父さん仕事で遅くなるから、後から来るんだって。」
菜月は、自身も母を待っていたことを思い返しながら、目の前の少女のうっすらと濡れた睫毛に心を奪われた。慣れない土地だろう。心細かったのだろう。菜月は、居ても立っても居られないような心地になる。
「ねえ。」
呼びかけると、少女は窺うような眼差しで菜月を見つめた。菜月は迷いながら、言葉を探す。
「私、母を待っているの。会の始まりには間に合うって言っていたから、よかったら、一緒に入ろうよ。」
「え。」
大きな瞳はくるくると、不安げに動く。やがて遠慮がちに、菜月の方を見た。信じてもいいのかと問うような瞳。菜月は駄目押しのように、どうかな、と呟く。少女は緊張した様子で、しばしの沈黙の後、思い切ったように首を縦に振った。その表情が嬉しそうなのを見て取って、菜月も嬉しい気持ちになる。
「やった。じゃあ、一緒に行こうね。」
「うん、……ありがとう。」
「ねえ、名前、聞いてもいいかな。私、小峰菜月っていいます。あなたは。」
「私は……千原 史 、です。」
ちはら、ふみ。愛らしい名前だと、菜月は密かに羨む。そのしっとりとした柔らかい響きを慈しむ気持ちで、少女の名をなぞった。
「よろしくね、……小峰さん。」
か細い声が、思い切ったように現れ、菜月の頬をくすぐる。あまりに丁寧だったから、菜月が思わず声を立てて笑うと、相手はちょっと動揺したように、肩を縮こませる。
「そんなに緊張しなくていいよ。これから同級生でしょう。もっと楽に、名前で呼んで。菜月でいいから。」
釈明のように付け加えると、少女は神妙な表情をして頷いた。
「そうだ、ね……なつき、ちゃん。よかったら、私のことも、名前で呼んで。」
今度は菜月が動揺する番だった。小さくどきどきと心臓が鳴る。
「わかったよ。……ふみちゃん。」
おそるおそる発して相手を窺うと、少女は菜月を見つめて、はにかむように笑んだ。菜月も、穏やかな喜びを伝えるように、笑みを返す。一瞬の間に、冷えた頬がほんのりと温かくなる。
菜月、背後から呼ぶ声がした。振り向くと、車を駐めた母親がすぐそばまで来ていた。菜月の隣にいる少女に目を留めると、知らない顔だと、尋ねるように娘を見た。
「お友達。」
「えっと、うん。これから一緒に入ろうって、話していたところ。」
「そうなの。こんにちは。」
菜月の隣で硬直していた少女は、こんにちは、とぎこちなく会釈をした。それじゃあ行きましょうか、母が灰色の校舎へと歩いていく。菜月と少女は、その後ろに付いて歩いた。沈黙している少女の横顔を窺い見ると、首元を包む「青」がまた、大きく揺らめいた。
「……青。」
菜月の呟きを聞き留め、少女は足を止めた。菜月も立ち止まる。雪を踏む母の足音が、遠ざかっていく。
「そのマフラー。……綺麗な色だね。」
「……ありがとう。父さんが買ってくれたの。」
少女は嬉しそうに応じた。端を掴んで持ち上げて見せると、長い髪が肩をゆるりと零れる。黒目がちの双眸。控えめに結んだ唇。そして深く深く、鮮やかな青。
どうしたの、二人とも。もう始まるから入りましょう。振り返った母に、菜月は曖昧に頷く。少女と目配せをして、早足で玄関へと向かった。
――あなたを映したみたいな、青。
ひとりでに浮かんだ言葉は、胸にしまう。菜月の灰色の景色の上に、「青」が刻み込まれていた。
その日、菜月は見慣れない校門のそばに立ち、時々あたりを窺いながら母の到着を待っていた。校区の中学校は小学校への通学路から少し離れた場所に位置する。入学説明会の案内を受け、菜月は初めてこの場所を訪れていた。
前夜までの雪で足元が悪く、長靴が濁った水に浸されていた。どろどろとした水面に灰色の空が映り込む。
冷たい冬の風が吹きつける。菜月はふと顔を上げた。目に入るのは校舎、道路、家並み――灰色の風景。その中に、特別に目を引く「青」があることに気がついた。
少女が一人。心許なげな表情で、厚い雲に覆われた空を見上げていた。「青」と長い髪が、少女の首元を流れる。菜月は少女の姿に見惚れ、しばらくぼうっと眺めていた。
その横顔が振り向いたとき、菜月の心は震えた。黒目がちの大きな瞳が菜月を捉え、震えたのを見た。言葉を忘れたかのように、二人は互いを見つめ合った。
沈黙を破ったのは菜月の方だった。少女が私服姿なのを認め、おそるおそる声を発する。
「もしかして、あなたも今度の新入生。」
少女の目が小さく見開いた。
「え、ええと……はい、そう、です……。」
「私も、そうなんです。」
よろしくね。様子を探りながら、かける言葉を選ぶ。少女は神妙にこくりと頷き、そして蕾がほぐれるように、柔らかな笑顔を浮かべた。
「よろしく……。」
掠れるほどの小さな声で返事があり、菜月がほおっ、となっていると、不意に少女の目元に涙が浮かんだ。
「どうしたの。大丈夫。」
「……ごめんなさい、大丈夫。ずっと一人で、不安だったから、安心しちゃって。」
「一人なの。保護者の人も来るんでしょう。」
「……今日は、父さん仕事で遅くなるから、後から来るんだって。」
菜月は、自身も母を待っていたことを思い返しながら、目の前の少女のうっすらと濡れた睫毛に心を奪われた。慣れない土地だろう。心細かったのだろう。菜月は、居ても立っても居られないような心地になる。
「ねえ。」
呼びかけると、少女は窺うような眼差しで菜月を見つめた。菜月は迷いながら、言葉を探す。
「私、母を待っているの。会の始まりには間に合うって言っていたから、よかったら、一緒に入ろうよ。」
「え。」
大きな瞳はくるくると、不安げに動く。やがて遠慮がちに、菜月の方を見た。信じてもいいのかと問うような瞳。菜月は駄目押しのように、どうかな、と呟く。少女は緊張した様子で、しばしの沈黙の後、思い切ったように首を縦に振った。その表情が嬉しそうなのを見て取って、菜月も嬉しい気持ちになる。
「やった。じゃあ、一緒に行こうね。」
「うん、……ありがとう。」
「ねえ、名前、聞いてもいいかな。私、小峰菜月っていいます。あなたは。」
「私は……
ちはら、ふみ。愛らしい名前だと、菜月は密かに羨む。そのしっとりとした柔らかい響きを慈しむ気持ちで、少女の名をなぞった。
「よろしくね、……小峰さん。」
か細い声が、思い切ったように現れ、菜月の頬をくすぐる。あまりに丁寧だったから、菜月が思わず声を立てて笑うと、相手はちょっと動揺したように、肩を縮こませる。
「そんなに緊張しなくていいよ。これから同級生でしょう。もっと楽に、名前で呼んで。菜月でいいから。」
釈明のように付け加えると、少女は神妙な表情をして頷いた。
「そうだ、ね……なつき、ちゃん。よかったら、私のことも、名前で呼んで。」
今度は菜月が動揺する番だった。小さくどきどきと心臓が鳴る。
「わかったよ。……ふみちゃん。」
おそるおそる発して相手を窺うと、少女は菜月を見つめて、はにかむように笑んだ。菜月も、穏やかな喜びを伝えるように、笑みを返す。一瞬の間に、冷えた頬がほんのりと温かくなる。
菜月、背後から呼ぶ声がした。振り向くと、車を駐めた母親がすぐそばまで来ていた。菜月の隣にいる少女に目を留めると、知らない顔だと、尋ねるように娘を見た。
「お友達。」
「えっと、うん。これから一緒に入ろうって、話していたところ。」
「そうなの。こんにちは。」
菜月の隣で硬直していた少女は、こんにちは、とぎこちなく会釈をした。それじゃあ行きましょうか、母が灰色の校舎へと歩いていく。菜月と少女は、その後ろに付いて歩いた。沈黙している少女の横顔を窺い見ると、首元を包む「青」がまた、大きく揺らめいた。
「……青。」
菜月の呟きを聞き留め、少女は足を止めた。菜月も立ち止まる。雪を踏む母の足音が、遠ざかっていく。
「そのマフラー。……綺麗な色だね。」
「……ありがとう。父さんが買ってくれたの。」
少女は嬉しそうに応じた。端を掴んで持ち上げて見せると、長い髪が肩をゆるりと零れる。黒目がちの双眸。控えめに結んだ唇。そして深く深く、鮮やかな青。
どうしたの、二人とも。もう始まるから入りましょう。振り返った母に、菜月は曖昧に頷く。少女と目配せをして、早足で玄関へと向かった。
――あなたを映したみたいな、青。
ひとりでに浮かんだ言葉は、胸にしまう。菜月の灰色の景色の上に、「青」が刻み込まれていた。