文字数 2,967文字

 入学式。外は柔らかい陽光が降り、ふくらむ蕾を包み込む。間もなく花開く、春の匂いが満ちている。少女との出会いから二月が経ったその午後に、再会のときは訪れた。
 市街地から遠く離れた小さな町の公立中学校。入学する生徒というのは、そのまま菜月の小学校の卒業生を意味していた。九年間、ほとんど同じ顔触れの中で過ごすことが半ば定められている。当然例外もあったが、この春の卒業式や入学式も単なる通過儀礼のようなもので、出会いや別れに直結するものではない。式典を終えた新入生たちの間には、既に慣れた空気が漂っている。
 菜月も、恵子と同じクラスであることを確認してからは、周りの生徒を取り立てて意識することもなかった。互いの身分や属性を改めて見定める必要はない。一通りの決まりごとを済ませ解放された生徒たちは、真新しい制服を翻し教室から散っていく。保護者と連れ立って帰路につく者、友人同士でたむろする者。どちらでもない菜月は、それらを眺めながら廊下を歩いていた。
 その中の一人の眼差しが、菜月と交差する。
 あ、と思わず足が止まる。菜月よりも短いボブ・ヘアと、揃いの紺のセーラー服。見慣れない格好で初めは気づかなかったが、黒目がちの大きな瞳は紛れもなくあの少女だ。長い黒髪に、綺麗な青のマフラーをしていた、……ふみちゃん。菜月に気づいた少女は嬉しげに微笑み、こちらに向かって手を振った。菜月も小さく右手を上げ、笑みを返す。離れた場所だが通じ合った感触があり、胸が密かに高鳴る。
 隣の教室の前にいた彼女は、クラスメイトらしい生徒たちに囲まれていた。新顔に興味を持って話しかけたのだろう、外向的で活発な面々を見てとる。その注意がこちらに向く前にと、菜月は目配せだけを残し、すぐにその場を離れた。
 あの少女が、本当にここに来たのだ。当然知っていたことなのに、不思議な昂揚感が湧き起こる。――また会えた。笑って、手を振ってくれた。髪形が違って驚いた。でも、とてもよく似合っている。これから同じ学校だ。また話せるだろうか。
 仲良くなりたい。ほとんど初対面の少女に、自然とそう思っている。どきどきと鳴る、不思議な気持ち。走りだしそうな足取りで玄関を出ると、恵子と出くわした。

「よう、菜月。浮かれてるの。」
「恵子。……そう見えるかな。」
「見えるよ、見えてる。ところで、よかったら車で送ろうかって、父さんが。」

 駐車場に恵子の両親の姿がある。癖毛で丸眼鏡をかけた恵子に、雰囲気がよく似たお母さんと、背の高いお父さん。学校行事に一緒に来ているのを、何度か見かけたことがあった。菜月に気づいた様子で、互いに小さく会釈を交わす。

「ありがとう。でも、今日は歩いて帰るよ。なんだか、じっとしていられなくて。」
「そう、浮かれてるねえ。気をつけて帰りなよ。また明日。」
「うん、また明日。」

 去っていく恵子を見送って、菜月も帰り道を歩きだした。
 また明日。あの子――ふみちゃんとも、また明日、会えるだろうか。
 暖かく柔らかな風が菜月の背を押す。青空を映す視界に一片の桜が舞っていく。眺めながら、これから始まる中学校生活を空想しながら、菜月は頬が緩むのを感じていた。



 時間はゆるやかに動き始め、新生活はやがて日常となっていく。授業、休み時間、部活動、放課後。恵子とともに文芸部に入った菜月は、校舎での居場所を図書室に定めた。文芸部の活動自体には明確な決まりもなく、実際は大半が幽霊部員らしかった。薄暗い、紙の匂いが充満した室内はいつでも静まりかえっている。元より本を読むことは好きだった。小学校よりも密に並んだ書架が菜月の好奇心を掻き立てる一方で、教室の喧騒を遠ざけ、心を穏やかにする。一月も経たないうちから、空いた時間に教室を抜け出して図書室に出向くのが習慣となりつつあった。
 廊下に出たところでは時折、隣の教室から来た史と顔を合わせる。その最初は入学式から一週間ほど経った日の放課後だった。それまで遠くから見かけていても、クラスも違い、話すきっかけがなかった。菜月と史は出くわしたところで目を丸くしたまま、数秒間立ち尽くした。そして意を決して、菜月から話しかけた。

「久しぶり、……ふみちゃん。」
「覚えていてくれたんだね。……なつきちゃん。」
「勿論。髪、短くしたんだね。驚いたよ。」

 長かった黒髪は、菜月の肩で跳ねる髪よりも短くなっていた。華奢な首元に、切り揃えられた髪先が艶々と揺れる。菜月が見つめていると、史は少し恥ずかしそうに俯いた。

「……ちょっと、切り過ぎちゃった。」
「そんなことないよ。……すごく、似合ってる。」
「そうかな、……でも、ありがとう。」

 部活動の時間が近づくと、史は体育館に行くと言って、じゃあ、またね、菜月に手を振りながら離れていった。菜月は図書室に向かう。そんなことを繰り返しながら、日々を平穏に過ごした。
 史はバドミントン部に入部したらしかった。入学してすぐ親しくなった鷹崎(たかさき)知穂(ちほ)という少女に誘われたのだという。鷹崎知穂、菜月にとっては意外な名前であった。学年でも目立つ部類の派手な生徒で、勝気で尊大不遜、常にクラスの中心にいるような少女だ。あるいは彼女を中心に世界が回っていると言うべきか。内気でおとなしい雰囲気の史が、その隣にいるということに驚いていた。
 けれどすぐに菜月も納得する。髪を短く切った史は、どこか洗練され大人びた印象を周囲に与えていた。口数の少ない、ミステリアスな新入生。その存在が、閉鎖的な世界で単調な時間を過ごしてきた生徒たちを惹きつけた。鷹崎知穂もその一人で、仲間に引き入れたのかもしれない。史も初対面ばかりの環境で友人ができたのなら、それはきっといいことだ、少し寂しくはあるけれど。菜月は自分に言い聞かせ、やがて四月も末を迎えた。
 休み時間の図書室から教室へと、菜月は一人廊下を歩いていた。隣の教室の前を過ぎようとしたとき、不意に扉が開き、教科書を抱えた史が現れる。すれ違いざまに振り向いた大きな瞳、視線が――ぶつかった。
 一瞬の逡巡。史が通り過ぎてしまうような気がした菜月は、言葉をかけることを躊躇する。

「なつきちゃん。」

 知ってか知らずか、呼んだのは史の方だった。菜月はその声に驚き、けれど、じわりと胸が温かくなる。

「……ふみちゃん。」

 はにかむような微笑を史に向けられ、菜月はくすぐったい気持ちになった。史は菜月の手元を見つめている。

「本、たくさん持っているのね。」
「さっきね、図書室で借りて来たの。もうすぐ連休でしょう、その間に読もうと思って。」
「へえ。本が好きなんだ。」
「うん。……改めて言うと、なんだか可笑しいけれどね。」

 史、そろそろ行くよ、呼びつける声が廊下にキンと響いた。鷹崎知穂だ、と菜月は小さく身構える。

「ああ、行かなくちゃ。次は理科室なの。……花の観察をするんだって。」
「へえ。面白そう。」
「うん。楽しみなんだ。じゃあ、またね。」
「うん。またね。」

 鷹崎知穂の方へ、去っていく後ろ姿が綺麗で、菜月はしばらくそのまま立っていた。体がぽかぽかとして、背後の教室から下卑た笑い声がしているのも、遠い世界のことのようだ。他の誰かになんと呼ばれようと、史が菜月を見つけてくれた、その小さな喜びが菜月の全部を包んでいた。
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