境界

文字数 3,750文字

 出会いから二度目の春が来たとき、再び菜月の心は弾んだ。クラス替えを経た新しい教室で、史の姿を認める。さらさら揺れる短い黒髪。馴染んだ紺のセーラー服から、すんなり伸びる華奢な手足。……一年の間に見慣れたけれど、どこか大人びたその姿はいつも、自然と菜月の目を引いた。
 史もこちらに気がついて、手を振り交わす。いつもの廊下と違う同じ教室の中で、一年前よりも少し近づいた距離。……なんだか、気恥ずかしい。
 そろそろと踏み入り自分の席を探すと、そのそばにちょうど恵子がいた。呼ぶと振り返って、よう親友、と笑う。気心の知れた友人が同じクラスにいるのは心強い。荷物を置きながら、よう親友、とおどけて返す。

「おはよう。菜月とまた近くでよかった。」
「おはよう。名前順だもの、席替えまでは毎年近くでしょう。でもよかった、今年もよろしくね。」

 恵子は了解した、という風に敬礼の仕草で応えた。剽軽にも見える格好の、本人は気取らないさっぱりとした性格だ。その気性が菜月と合うのか、小学校の高学年の頃からよくつるんでいる。

「二クラスきりじゃ、代わり映えしないものだな。」
「そうかな。」
「その方が楽でいいけれどね。……ああ、来たよ、女王様。」

 終いは独言のように、恵子が呟く。聞き返す間もなく背後で歓声が上がる。教室の中でも派手な一群が、俄かに活気づいたようだった。中心に現れたのは鷹崎知穂。彼女と親しいクラスメイトたちが一斉に周囲に集う。おはよう、同じクラスだね、その髪形可愛い、旅行どうだった、部活は……きゃあきゃあとはしゃぐ声たち。その一つ一つに、鷹崎知穂のよく通る声が返事をしていく。

「……やかましいクラスになるな。」

 渋い顔をする恵子に、菜月は、未だ淡い期待を手放せずに答えた。

「賑やかで楽しいよ、……きっと。」
「だったら、いいけど。」

 一群の輪の最も外のところで、史は控えめに佇んでいた。気づいた鷹崎知穂は迷いなくそのそばへ歩み寄り、隣に並ぶ。慣れた距離感に、菜月は二人の親密な関係を確かめる。……本当に仲良しなんだ。これまでの史の言葉を改めて意識する。
 史のそばに立つ、華やかで勝気な少女。自分にないものを持つ存在として、菜月は初めてのように鷹崎知穂を見つめた。どんな言葉を、視線を交わしてきたのだろう。これからこの教室で、自分は史とどれだけの言葉を交わすことができるだろうか。……さざ波のような気持ちが起こる。
 隣の恵子も何を思っているのか、言葉を発さずにいた。二人の沈黙が、ざわざわと騒がしい教室の喧騒に巻かれる。爛漫の花を散らす、嵐の訪れのようだった。



 淡く抱いた期待は叶わず、二年生になった菜月の日々はけして穏やかとはいかなかった。新しい教室は今までのどの場所よりも、逸脱と悪ふざけに満ちていた。飛び交う声たちは耳障りなだけでなく、無自覚な攻撃性を帯びている。菜月はそれらを掻い潜るようにして過ごした。
 休み時間が終わる頃、菜月に与えられた机や椅子は定位置を外れているのが常だった。時には遠くから「連れ戻す」必要すら生じる。何も感じず、何事もなかったように。元より菜月は、やり過ごすことに慣れていた。

「こちらがやり返さないから、図に乗っているんだ。同じことを自分がされたら文句を言うだろうに。」

 恵子は憤っていた。今まで同じになったどの教室でも、菜月同様の扱いを受けてきた。クラスの潮流に関わらない、軽んじても構わないと思われている者同士が、いつしか同じ位置に流れ着く。やり過ごす術を熟知していた恵子も、どんどん増長する教室の空気には、ついに嫌気が差してきたらしい。
 荒みゆく教室で唯一平和を保つ場所が、鷹崎知穂の周囲だった。台風の目のようだと菜月は思う。無邪気で傍若無人、華々しい不可侵の聖域が多くの羨望を集める一方で、暴力性は外へ牙を剥く。

「悪気はないんだろうけどね。誰にも。」
「悪気なく無意識で、他人の領域を侵犯できるというのもどうかと思う。」
「……確かに。」

 もっともだと苦笑しながら、怒る恵子を宥める。菜月はとうに諦めていた。教室のどんな身分でも、誰もがやり場のない抑圧を抱えているんだ、きっと。その一つの向きを動かしたところで何が変わろうか。
 季節は移ろい、秋も終わるという頃だった。人が疎らな昼休みの教室には、小春日和の陽光がよく染み透った。菜月と恵子は隅に身を潜め、賑やかな中心を眺めている。……自分たちの席があった場所。憮然とする恵子を横目に、菜月ははしゃぐ声たちに耳を傾けている。その澄んだ一つが史のものであることに、いつしか気がついていた。
 荒んだ景色の中でも、史は清廉な姿をしていた。華やかな輪の片隅にいて、さらさらと短い黒髪を揺らし、長い睫毛を瞬かせ、柔らかな笑みをこぼす。少女らに寄り添うように佇み、言葉少なながら大人びた存在感で、周囲からは鷹崎知穂と同様に一目置かれていた。
 「悪行」に加担することもなく、少女らの意識が離れている間、史はさりげなく教室を元通りに正そうとしていた。誰にも気づかれないくらい自然な仕草。密かに感心する。史は物静かで何かを強く主張したりもしないけれど、確かに優しく、清らかなもので溢れている。それらを惜しみなく他者に向ける史。この教室で最も美しい少女……。

「悪い、菜月。」
「え、何が。」
「菜月は来ないで、絶対、そこにいて。」

 突如として恵子が立ち上がり、教室の中央へと歩きだした。押し留められた菜月は窓辺に一人残される。

「私の席、どいてくれないかな。座りたいんだよね。」

 鋭い声。張り上げた様子ではなかったが、教室中の人が振り返った、ように感じる。周囲が一斉に静まり返った。

「……は。何、急に。」

 少女らの中心から、鷹崎知穂が応える。険のある態度で恵子を見据えた。対する恵子の表情はわからず、毅然と立つ後ろ姿だけが見えている。

「うちらは楽しく話してるところなんだけど。どこか別に行ってよ。」
「だから、ここは私の席。そっちこそ別でやったらどう。いつもいつも群れて威張って、他人の場所に居座ってないでさ。」

 鷹崎知穂はあからさまに不機嫌な顔をする。離れた菜月の場所からでも、二人が睨み合っているのがわかった。

「何その言い方。感じ悪い。」
「感じ悪くて結構。どいて。」

 空気が凍りついている。双方譲る気配がなく、緊迫した沈黙。皆、固唾を呑んで様子を窺っている。
 その中で、史が動いた。そっと鷹崎知穂の袖を引く。

「知穂ちゃん、違うところ行こう。」

 鷹崎知穂が振り向くと同時に、教室の注目が恵子から史へと移る。二人は無言のまま、相談のように視線を交わし合った。
 しばらくして、鷹崎知穂はもう一度だけ恵子を睨みつけてから、史の手を引いて恵子の席から離れた。取り巻く少女たちも二人に続く。遠ざかる人だかりに向かって、恵子は再び声を上げた。

「待って。」
「今度は何。」

 鷹崎知穂の苛立つ声が答える。

「机と椅子、戻して。」

 恵子が指したあたりは、机や椅子がぐちゃぐちゃに散らかされている。鷹崎知穂は嘲るような一瞥だけくれると、何事もなかったように教室を去った。
 菜月は息もできず立ち尽くしていた。遠く、出口の前で一度振り返った史が菜月を見つけ、何かを伝えるように口を開いたが、間もなく手を引かれて行ってしまった。
 荒れ果てた、酷い光景だった。
 がたん、と音がした。恵子が自分の席を直して座り、のろのろと文庫本を開いている。菜月は慌てて駆け寄り、並んで席に着いた。狭いページの間、埋められた横顔をおそるおそる窺うと、恵子は唇を噛み、充血した目を見開いていた。手元が小刻みに震えている。

「……恵子。」

 菜月の声も自ずと震える。大事になってしまったと、ようやく認識する。不安げな菜月に気づいたらしい、恵子は俯いた格好のまま呟いた。

「……ごめん、菜月。でもこれくらいしないと、あいつらは気づかない。」

 私は今、ずっと、酷く怒っているんだ。このまま黙って過ごすなんてできない。掠れる声は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。痛切に怒る恵子のために、菜月は何をすることもできなかった。
 教室はぎこちなく沈黙している。うんざりとした顔、哀れむような顔、誰もが苦々しい顔をしていた。そこに責めるような空気がないのを見て取り、とりあえず安堵する。しかしそれだけで済むとも思えなかった。聖域に踏み入り、女王たちを敵に回したのだから。
 菜月は、そこに存在する大きな垣根を初めて直視した。
 教室の中で、立ち入ることの許されない領域がある。これまでは当然のように身についていたそれが、心に重くのしかかった。あちら側の住人と菜月たちとは、けして相容れることはない。余計な衝突を招かないためには、交わらないことが肝心だった。
 史は菜月とは違う、あちら側の人間だ。気づいていないはずはないのに、史はささやかな仕草で境界を越えようとする。いとも簡単そうな微笑を湛えて。菜月にはその意味がまだわからなかった。史のつもりがどうであろうと、菜月は自分の身を守るのに必死だ。史と交わることで、深手を負うことを恐れている。
 境界線の向こうから差し出される手に、どう応えればいいの。菜月は動揺し、混乱していた。
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