文字数 1,412文字

「育さん。」

 雨の去った街へ紛れる、ほんの僅か手前の位置で、ブラウスの白い背が立ち止まった。右手に携えた、大きな濃青色の傘と一緒に、少女は振り返る。呼び止めた菜月を不思議そうに見つめる、澄んだ瞳。一切の悪意と縁がないようなその眼差しが、菜月を恐怖させる。

「どうされましたか。」

 いいえ、何も。そう言って、本当に何事もなかったように、この場から立ち去ってしまう――それでもよかった。この子もきっと、「あちら側」の人間だ。史や、鷹崎知穂がいる華やかな世界。菜月や恵子が侵すことを許されなかった境界線の向こう側。菜月が引き留めて、何になるというのか。

「菜月、さん。」

 意味なんてないのかもしれない。
 けれどあの日、あの「青」を纏った史との間に、境界線はあっただろうか。――違う。大きな垣根がそこにあったとしても、史は菜月に手を伸ばした。そのかけがえのない存在を、手放してしまったのは菜月自身だ。
 もう、永遠に取ることのできない手を、忘れたような振りをして生きている。「青」は、胸に深く刻まれた後悔だった。

「……育さん。あのね。」

 慎重に言葉を紡ぐと、育がすっと背を正し、真剣な表情をする。それは不意打ちのように、臆病な心を、指先を震わせる。……けれど。

「もしよかったら、また、お話ししませんか……こんな風に。」
「え。」
「……今日、とても楽しかった。」

 育の表情が変わる様を、菜月はおそるおそる見つめる。しばし呆然と菜月の目を覗き込んだ育は、大きく呼吸をしたかと思うと、ゆっくりと開く、花のような笑顔を見せる。

「心配しました。もう、会っていただけないのかと。」

 正直な吐露に、菜月はぎくりと息を呑む――つい先程までそのつもりだったので。

「憧れの先輩にお会いできて、私ばかり舞い上がって、引かれてしまったかと思いました。」

 冗談めかして言う育に、気の利いた返事ができず、苦笑する。力が少し抜け、体が幾分か軽くなる。

「次は、私から誘います。カフェなんてあまり知らなかったから、知人に聞いて、おすすめをたくさん教えてもらったの。それで、育さんといろいろ巡ってみたいと思って……一緒に。」
「ありがとうございます。ぜひ、ご一緒させてください。」
「よかった。育さんの希望も聞かせてね。……抹茶のお店もあったかしら。」
「それなら、本屋さんにも一緒に行きませんか。菜月さんとお話ししていたら、なんだか本を読みたくなりました。」

 きりりとした目を細めて、人懐こく笑う育。菜月も、強張った頬を少し緩め、笑ってみせる。笑顔が通じ合ったような感覚が、自然と胸を温かくする。

「じゃあ、……またね。」
「はい。」

 今度こそ、手を振り合って別れる。再会の約束に、胸が少し鳴っている。最後にもう一度だけ、育の携えた傘の青を見遣って、背を向けた。
 ……ああ、本当に。



 その青は、あなたの色だ。
 ほかの誰とも違う、あなただけの青だった。
 ……目の前の少女の色が、本当は、あなたと違うことも知っている。
 それでも、「青」に胸が疼いたのは、きっと。
 自分の望みを、なすべきことを、初めから理解していたからだ。
 本当にこれでよかったのかなど、今からわかるはずもない。ただ続く未来を知るために、今の自分の望む道を、進んだっていいだろう。それが「青」へ、菜月が出せる答えだ。
 雲の切れ間から星が覗く。空気は雨の余韻に潤んでいる。夜空の青に包まれた道を、二人はゆっくり、歩き始めた。
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