道標

文字数 1,480文字

 食後になって、二人の間には飲み物とデザートが運ばれてくる。ホットコーヒーと一緒に並ぶ抹茶のシフォンケーキに、育は瞳を輝かせた。

「とっても素敵。私、抹茶のお菓子が一番好きです。」

 深い抹茶色のシフォンに、雪のように白いクリームが添えられている。冬の足元で春が芽吹きだす瞬間のような、ときめくような色合い。
 菜月はカスタードプリンと温かい紅茶を頼んだ。小皿の上のプリンは愛らしい大きさで、スプーンを当てるとちょっと押して返すような弾力がある。なめらかな舌触り、まろやかなミルクの香りに、濃厚なカラメルの甘さと苦さが染みている。ストレートの紅茶で喉を潤すと、じんわり体が温まっていく。ゆるく漂う優雅な香りと、ほんのり舌に残る渋味。確かめるようになぞると、雨で冷えた指先から、緊張が少しずつ解けていく。

「菜月さんは四回生でしたよね。もしかして、今は就職活動の時期ですか。」
「いいえ、私は修士課程に行くから、あと二年は学生のつもり。」
「大学院ですか。なんだかかっこいい。」
「そうかしら。」
「すごく大人って感じがします。」

 不意に向けられる憧憬の視線が気恥ずかしく、思わず俯いてしまう。

「私は、卒業したらどうするとか、まだ何も考えていないんです。」
「入学したばかりでしょう。これからゆっくりでいいんじゃない。」
「そうかもしれない……でもなんだか、焦ってしまって。」

 育は寂しげに笑う。受験生の間は合格することだけ考えていればよかったけど、履修科目とか、進路とか、アルバイトだって探さないといけないし、……あれもこれも。何を目当てにしたらいいのだろう。せっかくここまで来られたのに、もう自信をなくしてしまったみたい。
 控えめに悩みを吐露する、明朗そうな面差しがほんの少し翳りを見せる。

「育さんは……。」

 堅実なものだ、菜月は内心独り言つ。菜月よりよっぽど真剣に生きているらしい。
 自分の将来とか、進路だとかを、菜月はなんとなく選び取ったにすぎない。惰性のみに頼り、育からどう言われようが、大きな労力を払ったつもりも別になかった。全力で走るのと同じくらいに歩みを止めるのが億劫で、ただ歩き続けるのに都合のいい道だけをぼんやり進んでいる。その時間は何になっただろうか。
 続けるべき言葉を探って、紅茶のもう一口を含みながら、しばし思いを馳せる。机を挟んだ向こうに、菜月とはまるで違うのだろう、育。

「……楽しんで。」

 菜月の零した言葉に、育が顔を上げる。

「何かを目指す以外にもできること、するべきこと、ここの生活にはたくさんあるから。今の育さんにはきっと、目の前の一つ一つが大切な時間になると思う。だから一つ一つ大切に味わって暮らせたら、十分ではないかな。……私が言えることではないけれど。」
「……いいえ。そうですね。」

 育は意表を突かれたように目を丸くして、それから苦笑いのような顔をした。菜月は似合わないことを言ってしまった気がして、ああ、嫌になる。
 しばし忘れていた雨音が、再び姿を現しては菜月の耳をくすぐった。それは二人を取り巻いて包み込み、外の世界から切り離している。

「ありがとうございます。私、そんな風に過ごせるようになりたい。」

 紅茶の水面が揺らめく。まだほんのりと熱を残して、鏡のように菜月の影を映した。

「菜月さんみたいになりたいです。」

 その瞬間、どこか遠くにあった記憶の欠片がしんと胸に落ちてきたのを、菜月は感じた。育がじっと見つめている。それを知りながら、雨音に耳を傾ける。柔らかいカーテンの向こうに踏み込んでいく。目を瞑ったまま、菜月は表情を変えなかった。
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