第3話

文字数 2,385文字

 頭がクラクラする。世界がぐるぐると歪んでいく。中心にあるのは、黒く、吸い込まれるような眼。
「あたりまえのことデス。好き好んで死にたいものなどこの世には居ない。アナタも然り」
「もしかして、自分は死を受け入れた、とか思っておられマシた?おや?驚いていマスか?自分の考えは他に人にわからなイ?そんなことはありませン。思考は所作から滲み出る。あなたの場合は隠してもいないのデスよ。わからないわけありませンよ」
 ぐらぐら、ぐらぐら。
「死にたくないのは当たり前デス。世の中には『死』に関するコンテンツが溢れてイル。小説でもゲームでも、登場するキャラクターは華々しく死んでいきマスし、殺人事件だって大量に発生していマス。その中の誰か一人でも死にたくて死んでいると思いマスか?そう考えるならばあなたは傲ってイル。創作上のコンテンツなら、それは読む側の自由デス。どう感じようが解釈しようが、作者はそれに関われない。想像するのも含めて売っているのデスからね。だが現実世界の出来事において『望んで死ぬ』なんてことは起こりませン。どんだけ望んでもそれはフィクションの中でしか起こらない。アナタがもしそう思うならそれは思い込みでしかありませンよ」
「だからこのボタンはアナタが喉から手が出るほど欲しいはずデス。作家の本などというちっぽけな願いごととは関係なくネ」
「そうでしょウ?」
 その言葉で歪みが元に戻った。パンっと音が鳴ったかのように世界はぴんと張られた。そんな力を持った言葉に僕の頭は縦に揺れた。
 にぃ。イズミの顔は歪んだ。
「そして、ワタクシはアナタにこのボタンをあげると言っているのデス」
 彼のいう心の奥底の望みが対価なしで叶うなんておかしい。そう思う心くらいは僕にも残っていた。
「嘘だろう」
「嘘じゃなイ」
「アナタは塾のチラシ配りや、NPOなどの支援にも対価がいると考える質デスか?」
 これはNPOと同じ種類のものとでもいうのか。
「そうデスね。大体それであっていマス」
「絶対違うだろ」
「違いまセンよ」
「ある団体が主催して研究が行われているのデス」
「人体への影響を?」
 実験体になるのは御免だった。
「それはもうとうの昔に終わっていマスよ。アナタはただ結果を享受するだけでいい」
 まったく持って信用できない言葉だ。
「でも確かめようもないのでしょウ?」
 それもいうとおりである。
「だからアナタはアナタの本能のままに、決めるしかなイ」
 イズミは、不気味なボタンの蓋を開けてこちらに差し出す。
「アナタは、生きたいのでしょウ?」
 窓も空いていないのに、カーテンが揺れた気がした。そんなことはないはずなのに。ボタンはこちらに近づいてくる。
「少なくともこのボタンを押して死ぬことはないのです。躊躇うことはなイ」
「ほら。このボタンは軽いデス、ヨ」
 頭痛がおさまらない。
 僕は、
 手を、
 伸ばして。
 パンッ
 手のひらを思い切り叩いたような、乾いた音がした。それは僕の耳にだけ届いたものだろうけど。
 はあっ。
 沈み込んでいた頭を振り上げる。指の先に目を向けた。指はボタンの上に乗っている。
 はあ、はあ、はあ。
 肩を激しく上下させた。
 顔を上げる。イズミはもう消えていた。そして、頭をある考えがよぎった。
 イズミが消えた理由。それがなぜであるか。
 パサ。目の前にひらひらと落ちてきたのは白い紙切れだった。はやる気持ちでそれを開け、黒い文字を目で追った。それにはこう書かれている。

 __________
 ヨコタ様。
 アナタはワタクシの命まで奪ってしまったと心配するかもしれませんが、それはあまり損害になっていませン。なぜなら俺は元々たかが一日ほどの命なのデスから。だから、アナタがボタンを押しても、アナタの命は一日しか伸びませンよ。

 ちなみに、その後消えたのはそう作られているかデス。他の人に使った場合、その人は不審死した被害者として、ちゃんと残りますからね。その点お気をつけて。
 では、幸せな余生をお祈りしていマスよ。
 イズミ
 __________

 読み終わって大きくため息をついた。自分の手にある大きなボタン。プラスチックの軽いはずのそれがやけに重く感じた。
 心臓がバクバクと鳴り響く。


 ガラガラ。
 その時病室の引き戸が開いた。奥から看護師が顔を出した。
「ヨコタさん、検温に」
 咄嗟にボタンを布団の下に隠す。そのまま反対側に足を下ろした。
「大丈夫ですか」
「え、あ、はい。大丈夫です」
 会話はそれだけだった。いつもと同じように静かに検温を終えて、看護師は病室を出ていった。

 日が傾き、オレンジ色に染まった病室は静まりかえった。ボタンの隠してある布団に潜り込みたくなかったので、パイプ椅子に座り直した。イズミが座っていた椅子だ。僕の右手がボタン一つで消してしまったイズミ。彼の黒いマフラーが頭から離れなかった。
 ミナトと会いたかった。彼がきてくれさえすれば。そう願った。でもミナトが来ないことは分かりきっていた。今日は水曜日だ。彼は塾に行っている。彼はもう高校3年生でもうすぐ受験だからしょうがない。それよりも今まで毎日のように通ってきていたことが不自然なくらいだ。
 彼に会って、今さっき起きたことを打ち明ければきっと気は楽になるだろう。でも、それはできなかった。僕は今自分が病室にいることを恨み、自らの境遇を憎んだ。今まではこんなこと一度もなかったのだ。症状が出て入院した時だって、病名を告げられた時だって、余命宣告されても表面上は繕ってきたのだ。全てを受け入れ、何もなかったかのように小説の主人公を装っていたのだ。
 イズミの言っていたことが頭に浮かぶ。確かに僕は騙っていた。自分の心うちを押し込めていた。
 でも今はその仮面が外れそうだった。今までずっと見ようとしなかった自分の仮面の下に鏡が突きつけられていた。
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