第6話

文字数 2,153文字

 いくら呼んでも返事は来ない。試しにベッドから降りて肩に手をあて、軽くゆすってみる。反応はない。
「み、なと?」
「ミナトっ」
 恐怖のあまり、大声で叫んでしまった。ミナトが動かない。何があったのか。
 声をあげてから気づく。ここは病院だ。叫び声に釣られて人がここにやってくる。なんでもないはずなのに、僕はどこか後ろめたかった。
 慌てて立ち上がり、倒れているミナトに背を向けた。そのままベッドの反対側まで回り込んだ。
 そこに転がっていた赤いボタンは蓋が開いてボタンが剥き出しになっていた。それが意味するものはなんなのか、僕には全く解らなかった。僕は咄嗟にそれを拾い上げた。

 だっだっだっ
 外で音がする。間も無くしてドアが乱雑に開けられた。
「っちょっと、ヨコタさん、なんですか。大声d——」
 ヒッ。と言いかけて、看護師は倒れているミナトに目を止め立ち尽くした。慌てて駆け寄り、様子を見る。
「し、死んでる!?ヨコタさん、あなた——」
 そして怯えたような視線をこちらに向けた。得体の知れない化け物を見るような、恐怖の視線。僕も死んでいると聞いて、動揺していた。まさか、僕はまだこのボタンを押してもいないはずなのに。
「ち、違うんです。これは——」
「ひっ、人殺しっ」
 そう叫んだ看護師の悲鳴に、僕は反射的にボタンを掴み上げ親指を乗せていた。特に抵抗もないまま押し込まれる。ボタンは軽かった。腰の高さから落としただけで当たりどころが悪ければ簡単に押されてしまうだろう。
 それにしても、なんで僕の指は動いた——いや、僕は指を動かしたのだろうか。
 理由を述べるなら、怖かったからだろう。思いがけぬ出来事があって、隣の知人の袖を思わず握ってしまうような。
 そんな細かいことはどうでもいい。
 事は一瞬にして、終わった。
 とりあえず、僕の心情に関係なく、ただ余韻だけが残った。看護師は仰向けに倒れ込んでいた。ミナトの上に重なり合うようにして。

 でもそこで止まらなかった。廊下からは幾人もの足音が聞こえてくる。
「どうかしましたか?」
 その声と共に病室の扉が開かれる直前、僕は再び親指に力をこめていた。
 いやだ。嫌だ、嫌だ。怖い。
 それだけしか頭になかった。廊下にいた職員も異変に気付いたようで、彼らの恐怖はあらゆる方向に伝播して、病院内は一瞬にして混乱に陥った。僕はといえば、渦巻くパニックにのせられるように気が高まっていた。
 僕の病室の戸が開かれた瞬間、反射的に親指に力が入った。嫌だという恐怖ももちろんあった。でもそんなこともわからないまま、行為は反射として叩き込まれていった。
 終いには足音を聞くだけで神経が反応するようにまでなっていた。
 かちかちかち。かち。

 長い、長い時だった。いくら経っただろうか。よくわからないままボタンを押し続けて混乱の中を僕はただ立っていた。そこには静寂があった。怒号に包まれた後の静寂。耳鳴りがした。僕は何もしなかった。隣のベッドに腰を下ろすことさえ、しなかった。
 いきなり静寂は破られた。僕の周りは全てが歪んでいた。

「ヨコタコウト。ヨコタコウト。聞こえているか。この病院は包囲されている。大人しく投降しなさい」
 バカ真面目な声が聞こえた。窓の外に目をやると黒い服に身を包んだ警察と、関係車両が止まっていた。随分と長い時間が経ったんだな。そんなことを考えていた。見える白と黒にはなんの感情も湧かなかった。
 意味もないのに。
 そう鼻で笑えた。今話している人だって、僕が数回ボタンを押せば死んでしまうのだろう。
「君が殺した人は数十人に上ると考えられる。投降しないと、射殺もあり得る」
 その言葉が僕に刺さった。一気に我に帰った。「射殺」ではない。数十人殺していること。死んだ人の中にどれだけの余命があったかはわからない。病院内だから後数日の人もいたのではないか。でも、そんなことは関係ない。少しだったとしても、合計するととてつもない量になるのだ。
 僕はそれだけ生きる、いや、生かされることになる。さっきまで心の奥底で望んでいた生に、今は憎しみを抱いていた。
 そして、死んでいった数十人は、どうなるのだろうか。思い至ったのはミナトだった。皆が皆、彼のように死にたかったわけではないのだろう。いや、ミナトさえもあれが本心だったかなんて定かではない。ただの冗談で死んだかもしれないのだ。
 僕が、奪った。
 自然の成り行きで死ぬ予定だった僕とは違う。汚れた手によって奪われた。
 もう、何もできなかった。
 体重が移動する。それに任せて、一歩、一歩、歩を進めた。長さが狂った廊下を通る。無限に続く階段を歩く。ところどころ転がっていた人は、入院着や白衣、看護服ばかりで、一層終わりを知らせなかった。
 いつの間にか一階についていた。
 一歩を踏み出す。太陽の光が僕に当たった。眩しさに目を細める。
「両手をあげて」
 すかさず声が聞こえた。歪んで光った世界の中、ただただ僕は黙々と声に従った。
「手に持っているものを床に置きなさい」
 腰を曲げ、ゆっくりと右手にあるボタンを下に下ろす。光でどちらがどちらだかわからない。
「こちらにゆっくり歩いてきて」
 声にただ従う。いつの間にか、僕の周りは黒くなっていて。僕は黒いものたちに拘束された。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み