第4話
文字数 2,020文字
しばらくして、顔を上げた。いつまでもこうしているわけにはいかない。時計の針はもう午後五時を指していた。両親が見舞いに来る時間だった。
椅子から立ち上がり、回り込んで布団をめくった。ボタンが消えているかもしれないという淡い期待は消え去った。僕はそれを、開きっぱなしになって跡がつきそうな文庫本とともに、ベッド脇の棚の奥にしまい込んだ。
「なんで、こんなことになるんだろうな」
つぶやきは誰にも届かない。聞こえても僕の心が静まるような回答が返ってくるとは思えなかったけれど。
そうしているうちに病室のドアが開いた。
「コウちゃん、大丈夫?」
「痛いところとかはないか」
開口一番、両親は僕を労ってくれた。だがそれに相応しい返事をすることはできなかった。
「う、うん」
「特には、な、何もないよ」
「あら、良かったわ。それより、遅れてごめんね。寂しかったでしょう」
怪しむ様子もなく、母は持ってきた鞄から荷物を出して、服などを替えていった。
「い、や。大丈夫だよ」
もう高校生なんだ。そう言いたかったけれど、いつものように軽快な声は出せなかった。
「本当か?ずっとこんなところにいたら息が詰まるだろう」
「本当。暇ではあるけどね」
皆、僕を心配してくれていた。
「辛かったらなんでもいってね。力になってあげるから」
いつもだったら定例文ににしか聞こえなかったものが、今日はなぜか随分と誇らしかった。先ほどまでの暗い出来事は忘れて、幸せに浸ることができた。
「ほら、はい。病院食だけじゃあつまらないでしょう。お医者さんの許可も取って、買ってきたの」
そういって母が取り出したのは、タッパーに入ったスイカだった。
「今が旬だから。冷たくはないが、甘くて美味しいぞ」
「あ、りがとう」
まさかそんな差し入れまであると思わなかったものだから、僕は心底驚いていた。そして、少し誇らしかった。僕を思ってこんなにまでしてくれる両親がいることが。僕の入院代もバカにならないし、ここの仕事も忙しいだろうに。
「ありがとう」
再び小さく呟いた。自然と口から出た言葉だった。
「そんな、他人行儀にならないでよ。息子の為ならこれくらい当然よ」
「そうだ。お前はまだ、子供なんだからな」
「うん」
目の前に、二人の笑顔があった。
「じゃあ、早いけど、これで」
「また明日も来るからね」
二人とも忙しいのだ。
「ありがとう」
込み上げる涙に流れるなと念じながら、僕は両親を送り出した。
「じゃあね」
短い時間だった。
病室の戸はしまった。ベッドの横にはタッパーに入ったスイカと、フォークが残された。忘れて帰ってしまったのだろうか。僕は忘れぬうちにとそれを口に運んだ。甘くシャキシャキとした食感が一気に口の中に広がる。
美味しかった。今までのどの差し入れよりも。でもそれとともに、これを食べれるのもあと一年だという思いが込み上げてきた。父も母も、あと半年しかない命のために時間を割いていくのだろう。
僕なんかより、やることはあるだろう。
それは定期的に見舞いに訪れる全員に向けて思ったことだった。でも、一人になるのは寂しかった。だから声に出すことはできないのだった。
それからどれくらい経っただろう。
その日、僕は久しぶりにそれを手に取った。枕の横に置いて横から眺めたり、手の中で転がしたり。押したくてたまらない心うちが滲み出ていたのだろうと思う。
もうその不気味なボタンをイズミからもらってから季節が二つも過ぎてしまった。僕は相変わらず病室にいたもので、特に違いは感じられなかったのだけれど、窓から見える景色の変化は時間の経過を如実に表し、僕に突きつけてきた。
その間、入院患者も増えたり減ったりした。おばあさんから男の子までよく覚えていないが一時期はベッドが三つ埋まっていた。
変化はいろいろあった。
ミナトが病院に来る頻度は減った。何があったのかは知らない。受験勉強で忙しくなったのかもしれないし、単に僕に愛想をつかしたのかもしれなかった。でも、彼なら残り少ない学校生活を謳歌していることだろう。楽しめるものは楽しむ。そんなやつだった。稀に来る病室での彼の声は弾んでいたし、やはり忙しかっただけなのだろう。僕の心配は杞憂に終わったようだった。
そんな中、僕は着実に死に近づいた。医師から宣告される余命は徐々にピンポイントになっていき、それにつれ実感も湧いた。
あの日から、ボタンのことは考えないようににしていた。病室を変えるためなど、やむを得ない場合を除いて触らないようにしていた。意識の外にイズミの黒いマフラーごと追い出そうとしていた。しかし、それは決して成功しなかった。
死が像をはっきり結ぶようになり、イズミが掘り起こした僕の恐怖はねずみ算ほどのスピードで増大していた。
ミナトも来ない。親には相談できない。
必然、僕の手は遠ざけていたボタンへ伸びていくことになる。
でもその時はタイミングが悪かった。
椅子から立ち上がり、回り込んで布団をめくった。ボタンが消えているかもしれないという淡い期待は消え去った。僕はそれを、開きっぱなしになって跡がつきそうな文庫本とともに、ベッド脇の棚の奥にしまい込んだ。
「なんで、こんなことになるんだろうな」
つぶやきは誰にも届かない。聞こえても僕の心が静まるような回答が返ってくるとは思えなかったけれど。
そうしているうちに病室のドアが開いた。
「コウちゃん、大丈夫?」
「痛いところとかはないか」
開口一番、両親は僕を労ってくれた。だがそれに相応しい返事をすることはできなかった。
「う、うん」
「特には、な、何もないよ」
「あら、良かったわ。それより、遅れてごめんね。寂しかったでしょう」
怪しむ様子もなく、母は持ってきた鞄から荷物を出して、服などを替えていった。
「い、や。大丈夫だよ」
もう高校生なんだ。そう言いたかったけれど、いつものように軽快な声は出せなかった。
「本当か?ずっとこんなところにいたら息が詰まるだろう」
「本当。暇ではあるけどね」
皆、僕を心配してくれていた。
「辛かったらなんでもいってね。力になってあげるから」
いつもだったら定例文ににしか聞こえなかったものが、今日はなぜか随分と誇らしかった。先ほどまでの暗い出来事は忘れて、幸せに浸ることができた。
「ほら、はい。病院食だけじゃあつまらないでしょう。お医者さんの許可も取って、買ってきたの」
そういって母が取り出したのは、タッパーに入ったスイカだった。
「今が旬だから。冷たくはないが、甘くて美味しいぞ」
「あ、りがとう」
まさかそんな差し入れまであると思わなかったものだから、僕は心底驚いていた。そして、少し誇らしかった。僕を思ってこんなにまでしてくれる両親がいることが。僕の入院代もバカにならないし、ここの仕事も忙しいだろうに。
「ありがとう」
再び小さく呟いた。自然と口から出た言葉だった。
「そんな、他人行儀にならないでよ。息子の為ならこれくらい当然よ」
「そうだ。お前はまだ、子供なんだからな」
「うん」
目の前に、二人の笑顔があった。
「じゃあ、早いけど、これで」
「また明日も来るからね」
二人とも忙しいのだ。
「ありがとう」
込み上げる涙に流れるなと念じながら、僕は両親を送り出した。
「じゃあね」
短い時間だった。
病室の戸はしまった。ベッドの横にはタッパーに入ったスイカと、フォークが残された。忘れて帰ってしまったのだろうか。僕は忘れぬうちにとそれを口に運んだ。甘くシャキシャキとした食感が一気に口の中に広がる。
美味しかった。今までのどの差し入れよりも。でもそれとともに、これを食べれるのもあと一年だという思いが込み上げてきた。父も母も、あと半年しかない命のために時間を割いていくのだろう。
僕なんかより、やることはあるだろう。
それは定期的に見舞いに訪れる全員に向けて思ったことだった。でも、一人になるのは寂しかった。だから声に出すことはできないのだった。
それからどれくらい経っただろう。
その日、僕は久しぶりにそれを手に取った。枕の横に置いて横から眺めたり、手の中で転がしたり。押したくてたまらない心うちが滲み出ていたのだろうと思う。
もうその不気味なボタンをイズミからもらってから季節が二つも過ぎてしまった。僕は相変わらず病室にいたもので、特に違いは感じられなかったのだけれど、窓から見える景色の変化は時間の経過を如実に表し、僕に突きつけてきた。
その間、入院患者も増えたり減ったりした。おばあさんから男の子までよく覚えていないが一時期はベッドが三つ埋まっていた。
変化はいろいろあった。
ミナトが病院に来る頻度は減った。何があったのかは知らない。受験勉強で忙しくなったのかもしれないし、単に僕に愛想をつかしたのかもしれなかった。でも、彼なら残り少ない学校生活を謳歌していることだろう。楽しめるものは楽しむ。そんなやつだった。稀に来る病室での彼の声は弾んでいたし、やはり忙しかっただけなのだろう。僕の心配は杞憂に終わったようだった。
そんな中、僕は着実に死に近づいた。医師から宣告される余命は徐々にピンポイントになっていき、それにつれ実感も湧いた。
あの日から、ボタンのことは考えないようににしていた。病室を変えるためなど、やむを得ない場合を除いて触らないようにしていた。意識の外にイズミの黒いマフラーごと追い出そうとしていた。しかし、それは決して成功しなかった。
死が像をはっきり結ぶようになり、イズミが掘り起こした僕の恐怖はねずみ算ほどのスピードで増大していた。
ミナトも来ない。親には相談できない。
必然、僕の手は遠ざけていたボタンへ伸びていくことになる。
でもその時はタイミングが悪かった。