第5話
文字数 2,916文字
僕がボタンをいじっていた時、ガラガラと聞き慣れた音がした。
病室の扉が開いて、そこに立っていたのはミナトだった。
「やあ」
軽く右手を挙げて戯けたように彼は挨拶をした。
僕といえばそれに返すよりも頭の中は手の上にあるボタンのことでいっぱいだった。
どう言い訳をしようかと、そればかりが頭の中を駆け巡っていた。
「こんにちは」
「あ、うん」
二度目にしてやっと返事ができた。彼もこちらの異変に気づいたのだろうか。わざとらしく目を半開きにして不満そうな表樹をして見せていた。
「冷たいなあ。なんかあった?」
「い、いや。なんでもない」
ボタンには触れられない。今隠すのはもっと不自然だと思ったからだ。
ミナトは怪訝そうな目を逸らさない。
「そのボタン、何?」
嫌なところをつかれた。言いたくはなかったのだけれど。
「これは——」
「それは?」
「以前もらった、よくわからないやつ」
絞り出した苦しい嘘だった。それはミナトもわかっているようで、
「いつ?」
と、すかさず聞いてくる。
「半年くらい、前かな」
それを聞いて、少し考え込むようにしてから、
「嘘でしょ」
とにやけていった。
「えっ」
「だから、よくわからないやつって嘘でしょ?よくわからないやつのもらった日なんて覚えてないだろうし、それなら不審すぎてほっとかないでしょう。今更になって愛おしそうに眺めるわけないし」
「い、愛おしそうに?」
「うん。そう見えたけど」
「そんなわけないよ。だってこれは——」
「これは?」
やられた。これでもうミナトの手のひらの上に乗ったような気分だった。きっと何を言っても諦めずに根掘り葉掘り聞いてくるのだろう。僕はあきらめて大きなため息をひとつついた。
ミナトは満足そうな顔をして、僕のベッドに腰を下ろす。
「これは、イズミっていう人からもらったボタンで——」
僕は諦めて彼に話した。ミナトもこれまでの僕の不審な理由を知りたがっていたようで興味津々だった。僕が話したのは、単にこれまで隠すのに疲れて言いたかっただけかも知れなかったのだけれど。
今考えると最低な決断だった。そのまま秘密を墓場まで持って行っていれば、何もおきなかっただろうに。
「へー。そういうこともあるんだな」
話を聞き終わった皆との反応は意外に冷めたものだった。もっと激しく嘘だと否定されるものかと思っていたものだから、拍子抜けした。
「だって、半年も前だろ。この話。そんなに前なんだから信じてるヨコタがいっぱい考えた後だ。僕が割り込んで否定しても無駄さ」
そう軽く言ってのけた。僕は自分の体験が肯定されたことに嬉しさを覚えると同時に、彼に揶揄われているような気がした。
「揶揄ってなんかないよ。至って本気さ」
「そう?」
「信じないのかい?」
そう言われると弱い。僕は慌てて首を横に振る。
「そうは言えないね。信じてくれた方がありがたい、のだろうから」
「そう、ありがと」
そうして沈黙は舞い降りた。窓の外はオレンジ色。部屋はLEDのおかげで明るい。もう何回と見続けた景色だった。特に今までのものと違いはないのだけれど、影が二つに増えているというだけでこれほどまでに安心感が違うのかと驚いた。
心地よい沈黙だった。暖かい。
僕の死亡予定日は一週間後だった。
「今、そのボタンを押してくれよ」
沈黙を破ったのは低い声だった。声の主を見上げるとこちらを睨めつけるようにしていた。合わない。どこかチグハグで、いきなりよそのよくわからない場面を繋いだようだった。
「君は余命が伸びる。僕の望み通りでもある。ウィンウィンじゃないか」
肝心の場所が抜けていた。
「そんなこと——」
——言うなよ。僕なんかより君が社会にできることの方が多いよ。それに、僕は、
「僕は君を殺したくない」
僕はいつの間にか生真面目に反論していた。それよりも言わなきゃいけないことなんていくらでもあるのに。
少し、口を開きかけてミナトは顔を背けた。僕はといえば、彼の顔を見るのが怖かったので、そのまま俯いていた。
「ちっ。そんな弱い理由?」
とても不満そうだった。今までに見たことがなかった。僕の知っているミナトといえば、おちゃらけていて、もっとこう、軽かったのではなかったか。
「それだけなの?」
真剣そうにそう聞くミナトに僕は気押されていた。
「うん」
口で言うならばそれだけだ。僕の行動をコントロールしているのはもっと他に色々あるんだろうけど。思いつかないのだ。
「僕、大学受験に落ちてさ、このままだと周りにめっちゃ迷惑かけることになるし、恥ずかしいんだ」
君こそそれだけじゃあないか。飄々とした彼の態度に苛立ちを覚える。
「そんなことないだろ。大学だけが道じゃない。世の中には大学に行っていない人がどれだけいると思ってるんだ」
「ずっと病室にいるのによくわかるね」
皮肉だ、とよくわかった。ミナトはこちらの方を向いていなかった。
「何にも知らないくせに」
「ミナトよりはミナトのことをわかっているかも知れない」
「嘘だろ」
「嘘じゃない」
僕はミナトよりは、今の自分は冷静に状況を見れているという自信があった。
「第三者視点の方が、わかりやすいものじゃないか」
「信じないね」
「さっきは信じてあげたのに」
「それとこれとは関係ないだろ」
そうかも知れないけれど。そんなことはどうでもいいのだ。
「とにかく、僕はボタンなんて押さない」
「そこをなんとか」
「そういう問題じゃないだろ」
「でも、嫌なんだ」
それだけじゃないか。嫌なだけで自発的に死のうとするなんて理解できない。
「君は僕の余命を使えるんだよ」
「それに、僕も君に使ってもらえるなら本望だ」
ミナトはこちらに身を乗り出すようにして話していた。
「そんなこと言うなっ」
「でも、生きたいんだろう」
「ミナトは、死にたいの」
少し考え込んで小さく呟いた。
「僕は、生きたくない」
受験に落ちた。たかがそれだけでここまで本気に死を考えるミナトに僕は心底腹が立った。何も知らないくせに。今すぐ怒鳴りつけてやりたかった。もちろん僕の知らない事情なんていっぱいあるのだろう。でも許せなかったのだ。
全然関係ないはずなのに、ミナトの姿がイズミの幻影と重なる。違うのは開かれた目だけ。黒い影がゆらゆらと揺れて、マフラーに見えた。その幻覚を首を勢いよく振ることによってかき消そうとする。
「僕も君の願いを叶えたい。頼むよ」
そう言ってミナトは僕の手を優しく掴んだ。
そのまま横にスライドさせていく。
彼の手の力が強まった。目の前には赤いボタン。
残り、三、二、一センチ。
パシン
そこで僕はミナトの手を払いのけた。ボタンのケースにも手が当たり、からんからんと安っぽい音が静かな病室に響き渡る。僕は無我夢中で叫ぶような気持ちだった。
「僕は、絶対嫌だからな。ミナトに、生きて——」
ドサッ
そこまでいった時、音が聞こえた。目の前にいたはずのミナトが消えていた。
「えっ」
「ミナト?」
何もない病室を見回した。
やはりいない。そう断定しようとした矢先、僕の目は床に伸びた人の足を見つけた。
覗き込む。
やはりと言うべきか、それはミナトだった。
「え、ミナト?」
「ミナト?」
病室の扉が開いて、そこに立っていたのはミナトだった。
「やあ」
軽く右手を挙げて戯けたように彼は挨拶をした。
僕といえばそれに返すよりも頭の中は手の上にあるボタンのことでいっぱいだった。
どう言い訳をしようかと、そればかりが頭の中を駆け巡っていた。
「こんにちは」
「あ、うん」
二度目にしてやっと返事ができた。彼もこちらの異変に気づいたのだろうか。わざとらしく目を半開きにして不満そうな表樹をして見せていた。
「冷たいなあ。なんかあった?」
「い、いや。なんでもない」
ボタンには触れられない。今隠すのはもっと不自然だと思ったからだ。
ミナトは怪訝そうな目を逸らさない。
「そのボタン、何?」
嫌なところをつかれた。言いたくはなかったのだけれど。
「これは——」
「それは?」
「以前もらった、よくわからないやつ」
絞り出した苦しい嘘だった。それはミナトもわかっているようで、
「いつ?」
と、すかさず聞いてくる。
「半年くらい、前かな」
それを聞いて、少し考え込むようにしてから、
「嘘でしょ」
とにやけていった。
「えっ」
「だから、よくわからないやつって嘘でしょ?よくわからないやつのもらった日なんて覚えてないだろうし、それなら不審すぎてほっとかないでしょう。今更になって愛おしそうに眺めるわけないし」
「い、愛おしそうに?」
「うん。そう見えたけど」
「そんなわけないよ。だってこれは——」
「これは?」
やられた。これでもうミナトの手のひらの上に乗ったような気分だった。きっと何を言っても諦めずに根掘り葉掘り聞いてくるのだろう。僕はあきらめて大きなため息をひとつついた。
ミナトは満足そうな顔をして、僕のベッドに腰を下ろす。
「これは、イズミっていう人からもらったボタンで——」
僕は諦めて彼に話した。ミナトもこれまでの僕の不審な理由を知りたがっていたようで興味津々だった。僕が話したのは、単にこれまで隠すのに疲れて言いたかっただけかも知れなかったのだけれど。
今考えると最低な決断だった。そのまま秘密を墓場まで持って行っていれば、何もおきなかっただろうに。
「へー。そういうこともあるんだな」
話を聞き終わった皆との反応は意外に冷めたものだった。もっと激しく嘘だと否定されるものかと思っていたものだから、拍子抜けした。
「だって、半年も前だろ。この話。そんなに前なんだから信じてるヨコタがいっぱい考えた後だ。僕が割り込んで否定しても無駄さ」
そう軽く言ってのけた。僕は自分の体験が肯定されたことに嬉しさを覚えると同時に、彼に揶揄われているような気がした。
「揶揄ってなんかないよ。至って本気さ」
「そう?」
「信じないのかい?」
そう言われると弱い。僕は慌てて首を横に振る。
「そうは言えないね。信じてくれた方がありがたい、のだろうから」
「そう、ありがと」
そうして沈黙は舞い降りた。窓の外はオレンジ色。部屋はLEDのおかげで明るい。もう何回と見続けた景色だった。特に今までのものと違いはないのだけれど、影が二つに増えているというだけでこれほどまでに安心感が違うのかと驚いた。
心地よい沈黙だった。暖かい。
僕の死亡予定日は一週間後だった。
「今、そのボタンを押してくれよ」
沈黙を破ったのは低い声だった。声の主を見上げるとこちらを睨めつけるようにしていた。合わない。どこかチグハグで、いきなりよそのよくわからない場面を繋いだようだった。
「君は余命が伸びる。僕の望み通りでもある。ウィンウィンじゃないか」
肝心の場所が抜けていた。
「そんなこと——」
——言うなよ。僕なんかより君が社会にできることの方が多いよ。それに、僕は、
「僕は君を殺したくない」
僕はいつの間にか生真面目に反論していた。それよりも言わなきゃいけないことなんていくらでもあるのに。
少し、口を開きかけてミナトは顔を背けた。僕はといえば、彼の顔を見るのが怖かったので、そのまま俯いていた。
「ちっ。そんな弱い理由?」
とても不満そうだった。今までに見たことがなかった。僕の知っているミナトといえば、おちゃらけていて、もっとこう、軽かったのではなかったか。
「それだけなの?」
真剣そうにそう聞くミナトに僕は気押されていた。
「うん」
口で言うならばそれだけだ。僕の行動をコントロールしているのはもっと他に色々あるんだろうけど。思いつかないのだ。
「僕、大学受験に落ちてさ、このままだと周りにめっちゃ迷惑かけることになるし、恥ずかしいんだ」
君こそそれだけじゃあないか。飄々とした彼の態度に苛立ちを覚える。
「そんなことないだろ。大学だけが道じゃない。世の中には大学に行っていない人がどれだけいると思ってるんだ」
「ずっと病室にいるのによくわかるね」
皮肉だ、とよくわかった。ミナトはこちらの方を向いていなかった。
「何にも知らないくせに」
「ミナトよりはミナトのことをわかっているかも知れない」
「嘘だろ」
「嘘じゃない」
僕はミナトよりは、今の自分は冷静に状況を見れているという自信があった。
「第三者視点の方が、わかりやすいものじゃないか」
「信じないね」
「さっきは信じてあげたのに」
「それとこれとは関係ないだろ」
そうかも知れないけれど。そんなことはどうでもいいのだ。
「とにかく、僕はボタンなんて押さない」
「そこをなんとか」
「そういう問題じゃないだろ」
「でも、嫌なんだ」
それだけじゃないか。嫌なだけで自発的に死のうとするなんて理解できない。
「君は僕の余命を使えるんだよ」
「それに、僕も君に使ってもらえるなら本望だ」
ミナトはこちらに身を乗り出すようにして話していた。
「そんなこと言うなっ」
「でも、生きたいんだろう」
「ミナトは、死にたいの」
少し考え込んで小さく呟いた。
「僕は、生きたくない」
受験に落ちた。たかがそれだけでここまで本気に死を考えるミナトに僕は心底腹が立った。何も知らないくせに。今すぐ怒鳴りつけてやりたかった。もちろん僕の知らない事情なんていっぱいあるのだろう。でも許せなかったのだ。
全然関係ないはずなのに、ミナトの姿がイズミの幻影と重なる。違うのは開かれた目だけ。黒い影がゆらゆらと揺れて、マフラーに見えた。その幻覚を首を勢いよく振ることによってかき消そうとする。
「僕も君の願いを叶えたい。頼むよ」
そう言ってミナトは僕の手を優しく掴んだ。
そのまま横にスライドさせていく。
彼の手の力が強まった。目の前には赤いボタン。
残り、三、二、一センチ。
パシン
そこで僕はミナトの手を払いのけた。ボタンのケースにも手が当たり、からんからんと安っぽい音が静かな病室に響き渡る。僕は無我夢中で叫ぶような気持ちだった。
「僕は、絶対嫌だからな。ミナトに、生きて——」
ドサッ
そこまでいった時、音が聞こえた。目の前にいたはずのミナトが消えていた。
「えっ」
「ミナト?」
何もない病室を見回した。
やはりいない。そう断定しようとした矢先、僕の目は床に伸びた人の足を見つけた。
覗き込む。
やはりと言うべきか、それはミナトだった。
「え、ミナト?」
「ミナト?」