彼女がベッドへ戻るまで5

文字数 9,747文字

 二、


 私は喚いた。
「ねえ! お腹が空いたんだけど」
 狭いビジネスホテルの部屋のなか、私のよく通る可愛らしい声は更に響く。おじさんは少し顔を顰めたけれど、しかしおばさんはさほど嫌そうな顔をしないでくれた。
「さっきテイクアウトしてきたマックのセットとお菓子ならあるけど、お嬢さん食べる? 好き?」
 近所のおばさんがお菓子をすすめる時みたいな、どこか親しみのある口調でそう言うとおばさんは目線でテーブルにある包みを指した。そう私がお腹の空いてきた原因はその匂いにもあるのだ。匂いって脳を刺激するのね。
「好き、というか……その前にあまり食べた事が無い」
「えっ! そんな日本人いるんだなあ」
 おじさんが驚いている。おじさんは迫力のある色黒の大きな顔をしている。彼はどこかに、優しそうな雰囲気を持っている。
「いるわよここに」
 ふん、と私は鼻を鳴らした。わざと偉そうな態度を取ったのは、なんだか恥ずかしかったからだ。無知な自分が。マック…確かクラスメイトと何度か行った事はあるはずなんだけれど。
「それ、食べてあげるわよ。それしか選択肢が無いなら仕方無いじゃない」
「じゃあどうぞ」
 おばさんが勧めるので私は遠慮なくベッドから飛び降りると、テーブルまで行ってその紙袋に手を伸ばす。紙袋を開けるとその匂いはさらに際立った。ああお腹が空いた。今日はまだ朝食も食べていない。
 ハンバーガーを一つ取って、食べてみる。ふーんこういう味だったかあ。ハンバーガーの間にナゲットも食べる。マスタードソースというのをつけてみた。ふーん。
「冷めてるしあんまり美味しくないでしょ。ごめんね」
 おばさんに問われて、私は首を振る。
「ううん、美味しい」
 それはお世辞では無かった。私はお世辞を言う性格ではあまり無いし、第一誘拐犯にお世辞を言うやからがどこにいる。
「なんか、おもちゃみたいな味がする。でもそれが美味しい」
「はーおもちゃ。やっぱりお嬢さんは言う事が違うわあ」
 妙な感心をされてしまった。
「でもこういうのずっと食べてたらでぶりそう」
 こんなのばっかり食べて、この狭い部屋でずっとじっとしていたら。美スタイルが崩れるなら死んだほうがましだわ。私は食事から束の間目を離して、おばさんにもう一度目をやる。見事におばさん体型だ。
 こういうのって、成り果てる途中で自分で気がつかないものかしら。
「お料理でも作ってあげたいけど、ああ、おばさん、わりと料理好きなのよ~でもホテルじゃお台所も無いしねえ」
「とりあえず今度はサラダも一緒に買ってきて」
 もぐもぐともう一つナゲットを食べながら私は要求する。ソースはたっぷりとつけた方が美味しい。
「お前、変わってんなあ」
 しげしげと私を見つめて、今度はおじさんが言った。
「誘拐されてそんな普通の態度なんて」
「誘拐―? 違うわよ」
 思わず笑ってしまう。
「私は誘拐なんてされてないもん。そんなにバカじゃないし弱くないし子供じゃないし。ただ、あなたたちの企みに乗っただけ」
 私は。
 ただ何か、してみたかっただけ。


 初めて私が薫と出会ったのは、薫が高校へ入学して来た時だった。私が生徒会長で、彼が新入生代表挨拶を述べた。通常、新入生代表挨拶というのは中学から持ち上がりの子が述べるものだ。それなのに外部入学の薫がそれをするという事は、それだけ彼が突出した成績を誇っているという事で、しかも奨学金補助まで受けていると聞いて私の興味は更に高まった。
 私は頭の良い人が好きだ。何故ならば、私は頭の良いフリをしているけれど、本当はさほど頭が良くないから。
 という訳でとてもわくわくしながら初めて会った薫は、とても緊張した様子だった。それはそうかもしれない。高校への進学、しかもうちはほとんどが内部進学だし。それでいきなり生徒会長に会うとなると。しかもその生徒会長は美人だし。
 薫はさほど整った顔をしていない。つるんとした顔をしている、というのが私の第一印象だった。つるんとした顔をしている、けれど優しそう。私は優しい人が好きだ。何故ならば私は優しくないから。


 テーブルの上には五人分の昼食が所狭しと並んでいる。
 ……蝶子の部屋とテーブルが広くて良かったな。男四人狭い部屋で昼食だったら辛すぎる。桜子さんが手早く用意してくれたのはミネストローネにサラダ、サンドウィッチにホットドッグやパンなどのメニューだった。そう言えば蝶子は桜子さんのミネストローネが好きだ。
「えーいきなり来たのに俺まで食べちゃっていいの? ずーずーしくない? でもまあじゃあ遠慮なく」
 言葉通り、天川は旺盛な食欲を見せている。一つ一つの味を確かめそれに一々感想を述べ、傍らにいる桜子さんへ伝える。桜子さんは少し嬉しそうだ。サービス精神あるなお前は。
「ていうか昼飯食いに来たんかお前」
 俺の当然の突っ込みに、天川は彼独特のにへらとした笑みを浮かべた。
「えー違うよ~」
 声を立てて笑う。
「いやーなんか電話の感じが変だったから、どうしたのかと思って。蝶子の顔も見たかったしさあ。ところで蝶子は?」
 レタスサンドを手に取りながら、首を傾げる。
「で、山崎先生は解るけど、この人誰? 知らないおじさんを自分の部屋に入れるなんて蝶子らしくないけど、蝶子の知人?」
「えーとー」
 どこまで話して良いものか。けれどここにいつまでも蝶子が登場しなかったら、どう考えてもおかしいしなあ。
「ま、いいんじゃない? 薫くん」
 俺にアドバイスしたのは山崎先生だった。
「天川くんは蝶子の幼馴染だし。何か事情でも知ってるかもしれないし」
「そうですかねえ……」
 でも誘拐の話を、そう人にべらべら話すのもどうなんだろう。その事によって何か危険が増したりはしないのだろうか。いや、天川が回りに言いふらすとは思えないけどさ。
「何の事情?」
 そんな天川はどこか楽しげだ。
「えーと……」
 どう話せばいいのか俺は言いよどんでしまう。
「どしたの?  蝶子が誘拐でもされた?」
「!」
 驚いた。俺が天川を見つめると、彼はただにやにや笑っている。
「なんで、お前………」
 やっぱり、天川は何か知っているのだろうか。それともやっぱり蝶子はこいつの所にでもいるのだろうか。
「えーだってさあ」
 天川は俺の反応を楽しんでいるようだった。ゆっくりと、喋り始める。
「山崎先生から変な電話がかかってきて、何かあったのかなーと野次馬根性で来てみたら、案の定、蝶子はいないしなんだか薫はそわそわしてるし、知らないおっさんはいるし。あの蝶子が知らない男を自分の部屋へ通す訳無いじゃん。その上に桜子ちゃんの昼食まで出す訳無い。だから絶対何かあったのかなーって。誘拐ってのは当てずっぽう。ただ、このおっさんが刑事さんか探偵さんかなーって」
「………お前推理小説でも好きなのか。すげー勘だぞ」
「はは、好きな訳無いじゃん。読書なんてだいっきれえ。でも今の薫の言葉はつまり、俺の予測を認めたって事だよね?」
「……それは別に。山崎先生もこう言ってるし、お前に知られるのは構わないけど。蝶子が誘拐された……かもしれないのは本当だけど」
「まーじーかー」
 その言葉とは裏腹に、天川の様子はのんびりとしている。そんな彼の態度に、俺の不信感は更につのる。ただの勘で、誘拐を当てたとは到底思えない。
「お前、この件について何か知ってたんだろ? 当てずっぽうとか嘘だろ」
「えー本当なのにー」
「ていうかぶっちゃけ、蝶子、お前のところにいるんじゃないのか」
「あれ、薫、嫉妬してるんだー。俺に? 俺に?」
 いかにも楽しげに言う天川に、俺は手にしていたハムサンドを思わず投げてやろうかと思った。しないけど。昔、蝶子に弁当を投げつけられた事はあったが。
 俺の顔は明らかに怒りを乗せていただろうけれど、天川はそれを気にする様子も無い。少しは気にしろ。
「俺の家に蝶子がいるか疑うなんてさあ、そもそも薫は、蝶子の事、全然信用してないんだなあ。自分の婚約者なのに? ひっでえなあ」
 俺たちの間に信頼関係があるならばこんな自体に陥っているはずは無い(でもだったらどんな関係なら、俺たちの間にあるんだろう。依存か?)。
「信頼関係なら蝶子は俺とより、おめーとか山崎先生の間にあるんじゃね?」
 俺の精一杯のイヤミを聞くと、山崎先生はおやおやと眉毛を持ち上げてみせた。今までおっとりとコーヒーを啜っていたのに。
「薫くん、それじゃちょっと蝶子ちゃんが可哀想だよ。もっと蝶子ちゃんと自分を信じてあげないと」
「信じるとか無理です。蝶子も自分も。仕方無いじゃないですか。それが事実だし。そもそも俺の本音、山崎先生聞いたでしょさっき」
「本音―?」
 相変わらず明るく(だから少しは色々気にしろと)問う天川に、山崎先生はあっさりと答えた。
「薫くんはねえ、これが本当の誘拐であって欲しくて、蝶子ちゃんが死んで欲しいんだって。そうしたら遺産が入るから」
「!」
 俺は思わず山崎先生を凝視した。
 そうあっさりぶちまけないで下さいー! 先生ぃ!
 ………嗚呼、山崎先生にだからぶちまけられた告白だったのに。結構、俺の、一世一代ぐらいの。
「えーひどいなあ、薫は」
 山崎先生の言葉を受け、ふざけた声でそう返す天川を今度こそ殴ってやろうと俺が立ち上がった時だった。俺の頬へ、掌が振ってきたのは。
 その掌の持ち主は桜子さんだった。桜子さんに打たれたのは初めてだ。蝶子には何万回だって殴られたが(頻度の比喩では無く事実だ)。
「薫さん」
「はい」
「殺します」
「………」
 うん、本当にやりそうな目をしているよね、あなた。スナイパー的な。怖い。と思う一方、でもそうされてもしょーがないよね、とも素直に思えるのだった。だって我ながら酷いもんな。
 恋人の、──蝶子の死を願うなんて。たとえそこにどんな感情があろうとも。
「まあまあ桜子ちゃん、ここで薫くん殺したってね。なんの誰の利益にもならないから。部屋が汚れるだけでしょ」
 山崎先生が止めに入る。
「………そうですね。お掃除が大変ですものね。それに部屋が汚れていたら、蝶子さんが帰られた時申し訳無いですし」
 妙な納得の仕方をして、桜子さんは思いとどまったようだった。良かった。
「で、ひどい薫は置いておいて、どうして俺が知っているかって話なんだけど、この家の玄関に置いてあったこれを拾ったからで」
「またかよ。三枚目かよ!」
 思わずげんなりしてしまう。本当に誘拐だったとしたら、もうちょっと何か手口工夫しろよ犯人!
「あれ、そーなの? ま、見てみて」
 そして天川はその紙を回りへと見せる。まるで見せびらかすみたいに、手柄をあげた子供のように。
 それは一枚目、二枚目と同じ紙だった。何の変哲も無いもの、そこに書かれたメッセージ。けれど唯一違うのは、今回は写真までプリントアウトされている事だ。
『今、この家にいるものたちは外出しないで下さい。そうでなければ……』
 プリントアウトされた写真には、蝶子がいた。蝶子は手首を縛られ、目をガムテープで塞がれていた。
「………」
 ズキリ、とした衝撃、強い痛みが俺を襲う。不思議なほど。こんな風に今でも感じられるんだな俺。
 その衝撃のなか、この写真で蝶子の瞳が見えないのが残念だななんてバカな事を少し思う。あの目は、とても、好きなのに。


 私は目をガムテープで塞がれ、手首をビニール紐で縛られていた。そしてベッドに寝転がされている。クン、とベッドの匂いを嗅いでみる。変な匂いだ。他人のベッドっておかしな匂い。うちのベッドは、私と薫の混じった匂いがする。
 パチャリ、と乾いた電子音がして、写真が無事撮られた事を悟る。私の視界は塞がれているから見えないけれど。
「しかし、あれだな……なんかこーゆー写真撮ってると、変態に陥ったみたいな気分がするんだけど……」
 ぽつりと漏れたおじさんの呟きがおかしかった。確かにねえ。けれどその感想は、ガムテープに遮られて発する事が出来ない。
「さ、これをパソコンでプリントして、メッセージを添えてお嬢さん家の玄関に置いてくればいいんだな」
「そう」
 私が頷くとおじさんは安堵したように一つ息をはいた。そしておばさんがベッドまでやってきて私を抱き起こし、縄を解いてガムテープを剥がしてくれる。
 視界を遮られ手を結ばれ。そうされるのは結構な圧迫感で不思議な気分で、こうされる事によって恐怖だったり快楽だったりが増すのは解るわ、と思う。一つ勉強になった。こうして人間は成長するのね。
 解放された唇で、私は少しだけ笑ってしまう。犯人が被害者に指示されるなんておかしな話だからだ。けれど彼は易々とそうするのだった。
「でもおかしなお嬢さんねえ。私たちにこんなに協力してくれるなんて」
 私の顔を拭いてくれながら、おばさんも笑う。おばさんの掌は厚くて温かくて荒れていて複雑な色んな匂いがして、こうされていると私はなんだか懐かしい気持ちになる。
 変なの。私のママはいつも柔らかい肌理の整った肌をして、そこからは香水が香っていたのに。
 一般人が連想する「お母さん」のイメージみたいな人だからだろうか。
 それとも、この人が、薫のお母さんだからかしら?
「どうしてそんなに協力してくれるの?」
「───……」
 そうおばさんに訊かれ、本当の事を言おうか、束の間迷った。けれど止める。そんな必要は無い。
「別に。ただ楽しそうだったから。気まぐれよ。それにうちはお金余ってるし。必要な人が使えばいいのよ」
 わざと高慢な態度でそう言ってみる。私が高慢で傲慢なのは、虚勢なのだと自分でも知っている。弱く見られない為の、自分を良い物と見せたい為の。
「はーそんな台詞、言ってみたいねえ」
 呆れたのか苛立ったのか嫉妬したのか、おじさんは言った。
「そうね、恵まれてるとは自覚しているけれど」
 私にお金が無ければ、薫は得られなかったのだろうしね。
 私は薫のお母さんを見てみる。私が薫を得られた、その原因を作った人を。
「ん? なあに」
 私を拭き終わりティパックの煎茶を入れていたおばさんが、私の視線に気付いて振り返る。この人は常に何か口にしていないと落ち着かないらしい。しょっちゅうお茶だったりお菓子だったりの世話をしている。私はそんなおばさんを観察する。
 ……うーん。とてもそんな、お金を使い込んで家族を捨てて失踪するような人には見えないんだけれどな。そんなヒドイ、大それた事をする人には見えないわ。良い意味で平凡で。悪い意味でも平凡で。
「おばさんとおじさんて夫婦?」
 違うのはもう知っていたけれど、カマをかけてそう言ってみた。
「あはは、そう見える?」
 笑ったのはおばさんで、
「違うわ! 見ず知らずの他人だよ!」
 あからさまに嫌がったのはおじさんだった。
「ふうん」
 さっきまで縛られていた手首がなんだか痒くて、そこを撫でながら私は相槌を打つ。ふーん、この反応だったら、やはりこの二人は不倫関係とかそういうものでは無いのかもしれない。二人から、そんな雰囲気は微塵も感じられない。
 良かったね、薫。
「ただセンベロの呑み屋で会っただけ。話してみたら酔ってたのもあって意気投合して。金無くて死にたいって境遇が一緒で」
 言い訳するみたいにおじさんが説明する。いいのかなあ、そんな事まで私に話して。それほど私を信用しているって事なのだろうか。それともただ単に、あんまり頭の良くない人たちなのかしら。
 この二人と会うのは今日で二度目だ。
 一度目は夜の街で。彼らは私を誘拐すると言う。どうせ死ぬつもりなんだからなんでも出来ると、おじさんは明らかに酔った口調でそう言った。
 はあ? バカは勝手に死ねばいい。というのが、その時の私の正直な感想だったけれど、おじさんに捕まれた腕を振り切ったり大声をあげたりしなかったのは、おじさんの背後にいた女性に、私が気が付いたからだ。
 夜のなかでもそうと解った。
(薫のお母さんだ!)
 何度も写真で見たから間違いない。写真と言っても、薫が見せてくれた訳では無く、「全財産使い込んで姿を消すなんてどんな人かしら?」と興味のわいた私が、探偵をやとって調べて入手したものなのだけれど。
 だから私は抵抗する代わりに申し出たのだった。協力するから日を改めない? と。それから喫茶店で小一時間話すうちに酔いが冷めて来た彼らを、むしろ積極的に引っ張ったのは私だった。
 だって、良いアトラクションになると思ったから。
「このおばさんと俺とは、ホントにただのそれだけの関係! 名前も知らないよ!」
「へーそう」
 おじさんの言葉に、私は頷く。やはり、この感じだと演技をしている訳でも無いみたい。前回の、喫茶店で話している時はこのおじさんにおばさんは、お金を使い込んだのかしらとも思ったのだけれど。
「でもこんなにうまくいくなんて。なにしろお嬢さんが協力してくれるなんて一番心強いわあ」
 どこかうきうきとした様子でおばさんは言う。そんなに喜ばれてもねえ。おじさんとおばさんは借金を返す事が出来るから、気分が高揚するのも解るけれど。(三千万というのはそうして決めた金額だった。それぐらいあれば二人はそれぞれ返済出来るそう。そしてまた、うちにもそれぐらいの現金はあるだろうし)
「ほんとになあ。こんな幸運もあるんだなあ」
 おじさんの口調ものんびりしている。
 攫われる事へ同意したのにこうして日を改めたのは、二人がこんな調子だったからだ。だって私から見てもこの二人、バカなんだもん。私を入れてもこんな三人が寄ったところで誘拐、成功しそうにないんだもん。
 そうしたらおじさんもおばさんも助からないし捕まるだけだし、薫を心配させるっていう私の目的も達せられないんだもん。
 だから私は、協力者を作る為に日を改めたのだ。
 そうして今、私はこうして狭いビジネスホテルの一室におじさんとおばさんといるのだ。薫と離れて。
 大好きな薫。けれど薫は、私がどれだけ彼を大好きなのか知らないに違いない。
「──じゃあちょっとロビーで電話してくる私」
 私は椅子からするりと立ち上がる。
「え? 大丈夫? お嬢さんの姿を誰かに見られでもしたら」
「だいじょーぶー。関係者はみんな私ん家にいるし、まだ警察にも知らせてないってゆーし」
 心配するおばさんに私はひらひら、と手を振って、さっさと部屋を出て行った。廊下に出るとほっとする。知らない人二人しかも綺麗で無い人二人と同じ空間にずっといるのって、疲れるのね。
 廊下に趣味の悪い絵が掛けられているのが視界に入る。ふーんこういう場所にはこういう絵が飾られるものなのか、私はまた一つ学習する。
 ───けれど、でも。歩きながら考える。
 この誘拐の目的の一つに、薫のお母さんがどういう人なのか確かめるってのもあったんだけれど。結構それが主な目的だったんだけれど。
 あの人、ただのふつーの、人の良いおばさんに見えるけれどなあ。人間って解らないのね。



 その紙を手に呆然としていた俺の耳を、小さく細かい笑い声が打った。その声の持ち主は桜子さんだ。
「なんでショックを受けてるんですか?」
 桜子さんはなお笑い、俺に問う。無慈悲に。
「だって薫さんは蝶子さんに死んで欲しかったんでしょう? 別に目隠しされて縛られている姿ぐらいどうって事もないのでは? もっとひどい事されて欲しいんでしょう?」
「………」
 なんと答えていいか解らない。今までの過程から否定なんて出来ない。けれど肯定もまた、出来ない。
 だって俺は、本当に、写真を見てショックだったんだ。自分でもそれがどうしてなのかは解らない。俺は何も答える事の出来ないまま、その紙をテーブルに置いた。この紙を持っていたくなかったから。紙を裏返しに伏せる。蝶子のこんな姿を見たくない。改めて椅子に座る。
「何それ演技?」
 次に笑ったのは天川だった。
「だって薫、蝶子に死んで欲しいんでしょー?」
「天川、お前な……」
 何故だろう、桜子さんに言われればそんな事も無いのに、こいつに言われるとめちゃくちゃに腹が立つ。それは、天川が明らかにそういう意図を持って発言しているからだと思う。俺をからかうとかの。
「ほんとに死ねばいいのは蝶子じゃなくて、薫なのに。死ねばいいのにー」
「………そーかもな」
 天川の口調はいつまでも明るいけれど、その言葉に込められた気持ちが本当なのだと伝わった。誰かに「死ねばいいのに」と、本気で思われる事は存外に辛いものなのだなと俺は知る。
「佐藤さん、この写真からどこのホテルかって解りませんか? 部屋の感じからどこかのビジネスホテルだと思うんですが」
 山崎先生の声は冷静だった。けれど先生は俺が裏返した紙をまた表へ向けて、テーブルへぽんと置く。辛い。
「そうですね、なんとも……こんなベッドや部屋はどこにでもいくらでもありますからねえ」
 気の無い佐藤さんの返答だった。なんだよ、探偵なんて言っても存外頼りないものなんだな、全然当てにならないじゃないか、などと俺が思っていると、佐藤さんがこちらをチラリと見た。
「まあ、けど居場所が解らない方が喜ばれる方もおられるみたいですし」
 ! 佐藤さんまで。全然知らない、今日初めて会った佐藤さんまで!
「せ、先生……」
 とりあえず俺は、一番理性的であろう山崎先生に助けを求めた。いや、俺の罪を暴露した人ではあるんだが。
「んー? なに?」
「俺、みんなのサンドバッグになってる気分なんですが……」
 息も絶え絶えとはこの事だろうか。いや自分が悪いとは解っているんだが。
「えー何言ってるの薫くん」
 おかしそうに山崎先生は、その薄い唇を歪めた。
「してるんだよ、わざと。そんな事も解らないの。君は学校の成績は優秀だけれど、存外頭が悪いんだねえ」
「………」
「そうですよ、薫さん。みんなであなたを叩いているんですよ」
 赤い唇で、山崎先生の言葉に続いたのは桜子さんだった。
「だって、私はあなたが嫌いです。だって私は、私も、蝶子さんを愛していたのに愛しているのに」
「僕も、本当は蝶子ちゃんが育つのを待ってたんだよね。言うならば君は、油揚げを掻っ攫った鳶」
「俺も結局、蝶子は俺のとこに来るかって。だから薫に、羨ましいとか死ねばいいのにって言うのは本音でさー」
「………」
 もう俺は返す言葉を持たなかったけれど、ぼんやりと頭に浮かんだのは不思議だ、という事だった。
 不思議だ。どうしてだろう。蝶子はこんなにみんなに愛されているのに、それでも本人は気付かないなんて。寂しいなんて。いつもいつも寂しいなんて。飢えて飢えて満たされないなんて。
 可哀想。と、俺は改めて蝶子に思う。
「と、そんな訳でみんなに愛されている蝶子ちゃんの事を、心のなかだけでも邪険にした薫くん。死んで欲しいと思った薫くん」
「はい……」
 言葉は持てないけれど、返事は出来る。
「だから君は大変に嫌われている訳だけれど、そんな事を言っていても一向に話が進まないので、この件では協力しましょう蝶子の婚約者殿」
 俺はこくりと頷いた。
 しかし、どうしようかな、俺はこれから。もし蝶子が無事に戻ってきても、もうここへはいられない。山崎先生の言葉は尤もで、今の俺のアイデンティティは「蝶子の婚約者」、それだけなのに。今となっては。
 それをも失ったら、俺はどうすればいいんだろう。でも仕方が無い。これこそが自業自得だ。
 ───とりあえず、もう。蝶子が無事に戻ってきてくれればそれだけでいい気がする。純粋に今は、そう思う。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み