彼女がベッドへ戻るまで2

文字数 10,659文字

 誘拐。それに俺が驚かない理由。それは蝶子が大嫌いだというだけでは無く、この紙を見た時咄嗟に、俺には一つの疑念が沸いたからだった。
『これ、蝶子の狂言なんじゃね?』
 昨夜、俺たちはいつものごとくケンカをしていた。また、蝶子は非常にイタズラ好きな性格である(特に俺に対しては)。俺を懲らしめるというか困らせる為に彼女がこんな嘘をついたところで、何もおかしくはない。
 紙を一枚用意してメッセージを残し、姿を消す。そんなのは造作も無い事だ。どこかにぶらりと旅行にでも行ったのかもしれない。
 けれど、それならば。
 蝶子のこの狂言を、この桜子さんが知らないなんて有得ない。何故ならば基本的に蝶子は俺には嘘吐きだが、桜子さんだけには真摯だからだとても。また自分が姿を消した事に対する俺の反応を確かめたいのならば(それによって俺の気持ちを確かめたいのならば)、それには密告者がいる。
 となると、それは桜子さんを置いて他にはいない。
「………」
 冷めたコーヒーを飲みきってから(けれど冷めたそこにもまだ芳しい香りは残っていた)、テーブルへ置き、俺はふうむと考える。
 ならば俺は、桜子さんにどんな態度をとれば良いのだろう。
 これが本当の誘拐ならば、別に蝶子がどうなってもぶっちゃけ構わないんだが(というか解放されるし。やっと。やっと。蝶子とか憎しみとか悲しみとか愛情とか経済とか色んなものから。けれど、それらから解放されたところでその代わりに、また何かに捕らわれるのかもしれないけれど。結局そんなものなのかもしれないけれど)、もっと正直に言うならばどうぞ殺してくれ、なのだが、がしかし、もしこれが蝶子の狂言なのだとしたら。
 そうして桜子さんが、俺の反応を窺っているのだとしたら。
 ……俺が嘆き悲しみ慌てふためき取り乱さなければ、俺は戻ってきた蝶子に殺されるだろう……(それは比喩だが、比喩では無い)。
 ───ああ、でも本当の誘拐でも、一応、俺は嘆き悲しみ慌てふためいた方が良いのだろうか。そうだな、だって婚約者が誘拐されて微反応な男なんて、周りからいぶかしがられ、怪しまれるだけだろう。犯人扱いされちゃ堪らない。
 俺は何にもやっちゃいないのに。ただ喜んでるだけで。
「桜子さん、どうしよう。まずは警察に……」
 心を決めた俺はそう、出来るだけ動揺した声を出してみた。一枚の紙にぼんやりと目を落とす桜子さんを見つめる。
 桜子さんは、犯人のメッセージから俺へと視線を向ける。彼女はじいっと俺を見つめた。な、なんだろう。この短い間に何かミスしたか俺。何か桜子さんに疑念を持たれるような事したか俺。
「──いえ、それはまず止めておきましょう。もしかしたら蝶子さんのお遊びかもしれませんし」
 え、桜子さん自らそれを言うんだ? うーん、ていう事はやっぱりこれが蝶子の狂言で、桜子さんがそれを手伝っているって事は無いのかなあ。本当の誘拐なのかなあ。
「警察に届けを出した後で、それが蝶子さんのお遊びだったと解ると、色んな方にご迷惑をかけてしまいますし、何より蝶子さんの名前が辱められてしまいます」
 滔々と桜子さんは言う。うーん、けど警察に連絡するのを止めるって事はやっぱり狂言なのだろうか。そんな気もする……。
「それに本当に誘拐だとしても、警察に届けたが為に蝶子さんに万が一……なんて事になってしまえば、」
 そこで一つ言葉を区切ると、桜子さんは俺をきっと見据えた。
「私は死ぬしかなくなります。ていうか死んでも死に切れません」
 桜子さんの蝶子愛は熱い。眩しい。
「それに三千万ぐらいで本当に蝶子さんの命が救えるならば、安いものですし。むしろそちらの方が面倒が無くて便利なのかもしれません」
「………」
 三千万ぐらいが安いですか。そうですか。時給九百円で働いてる人が聞いたら目ぇ剥くわ。俺はこっそりとため息をつく。
 まあけれどそうなんだよね。日本有数の資産家であった両親の遺産を引き継いだ蝶子は、恐らく日本の十九歳のなかでは屈指に裕福だ。
 三千万ぐらいどうって事も無いんだろう。俺は蝶子の金銭面には一切関っていないから、よくは解らんが。(ちなみにそれを取り仕切っているのは桜子さんだ。赤の他人に任せるなんて、と驚く人もいるけれど、桜子さんは高校を卒業した後、蝶子のマネージャーのような存在なので、それが俺たちのなかでは自然なのだった)
「ですから、とりあえず様子を見る事にしましょう。また何かメッセージが届くのか、届けばそれがどんな内容でどんな風に届くのか、はたまた蝶子さんが帰ってくるかもしれませんし」
「──ああ、うん。それが良いのかな……」
 うーん、それが良いのだろうか。解らん。何もかも解らん。
「けど、心配だな……」
 けれどとりあえず、俺はそう付け加えてみた。掌で顔なんか覆ってみる。格好つけた訳では無く、聡い桜子さんに自分の表情を見破られない為のポーズだった。
 桜子さんは俺の態度に何かを感じ取ったのかどうなのか、俺を眺めると刹那、微かに笑った。注意していなければ絶対に気が付かないほど、ほんの微かに。
「朝食、用意しましょう。まだ召し上がっておられませんものね」
「……ああ、けど心配だな……」
 俺はもう一度繰り返す。今の言葉に嘘の匂いは無かったはずだ。何故ならば俺は本当に心配だったから。色んな事が。色んな事を。
 その無数の心配事のなかに、蝶子の安否が少しでも入っていたのか。
 それは自分でも解らない。本当に、解らない。


 そんな昼休みの出来事の後、五限目後の休み時間に俺を訊ねてきたのは桜子さんだった。珍しく一人だ。
 教室の入り口の所で彼女はひっそりと佇んでいる。楚々とした美人だけれど存在感の無い人で、その点蝶子さんとは対照的だ。蝶子さんは華やかで桜子さんは透明感がある。どちらも魅力的だけれど。
 桜子さんの用事とは、蝶子からの伝言だった。
「蝶子さんが帰りに迎えに来て欲しいと」
 と、彼女は瑞々しい声で言った。
「──はあ、ご丁寧に」
 そう答えたものの、しかしなんだそりゃという思いが自分の中には残る。自分で言いに来いよ蝶子さん、なんでわざわざ桜子さんに。
 そう言えば今日の昼休みでも桜子さんはひっそりと、蝶子さんの傍に佇んでいたのだった。いや女子高校生が連れ立つというのは、生態的に当然なのかもしれないが、彼女たちの間には一種独特の雰囲気があるのだ。一言で言うならば「主従関係」。
 俺が思わず幽かに眉根を寄せたのに気付いたのか、くす、と桜子さんが笑いをこぼす。彼女に似合った、それは密やかな笑い方だった。
「こうして私が蝶子さんに従うのは、私が好きでしているんですよ?」
「はあ。えむなんですか桜子さん。それとも金で雇われてるんすか」
「いえ、どちらかと言えば私はSなんですが」
 そうなのか。人は見かけによらない。
「金で雇われているというのは、当たらずとも遠からずです」
 まじでか。そこまでお嬢なのか蝶子さんは。
「と言うのも、元々私の父が蝶子さんのお父様の、秘書のような執事のようなマネージャーのようなものをしておりまして。住み込みで。父以外他に身寄りの無い私は、蝶子さんのお屋敷に小さな頃から住んでいて、蝶子さんと共に育ったんです」
「へーーーー」
 どんな豪邸なんだ。
「と、そんな事情があるのですが、けれど私が蝶子さんのお手伝いをしているのは、ただ自分がそうしたいからですよ。私は蝶子さんを愛しているので」
 あ、愛……?
「………えーと」
 それが冗談なのか一種の表現方法なのかそれとも本当の事なのか、訊いてみようかと思ったけれど止めた。だって面倒くさい事になりそうなんだもん。
 ──蝶子さんねえ。蝶子さんて、男には好かれても女に好かれるタイプにも見えないんだが。ユニークな人だけど。まあでも俺も大して蝶子さんの事知ってる訳じゃないしな。きっといい所もたくさんあって、俺はこれからそれを知っていくんだろう。だってこれから付き合うんだし。
「そして私がこうして来たのは、蝶子さんの伝言もありましたが、何より私自身、薫さんへお願いがあって」
「お願い、ですか?」
 桜子さんは漆黒の髪をさらさらと揺らして、俺を見つめる。なんだろう。まさか桜子さんまで俺に告白とか。
 ………イヤイヤイヤイヤ、ないないない有り得ない。阿呆すぎる俺の脳みそ。
「あのう。蝶子さんは寂しがり屋で。だからとても愛情深い方なんですが、けれど自分の好きな方、特に彼氏へはものすごく我儘になってしまうんですね」
「………」
 え、あれ以上にか? と思ったのは口に出さずにおいた。
「でもそれは愛情の裏返しなので、どうか、大切にしてあげて下さい」
 そう言う桜子さんの声は様子はとてもとても切実だったので。それはまさに蝶子さんが俺へ『寂しい』と訴えた時のように。
「………はい」
 俺は頷くしかなかった。桜子さん……なんだろう、戦国時代の主従関係てこんな感じだったのだろーか。
「すみません、ちょっと重かったですか?」
 引き気味(いや、気味という表現は控えめだ。正直、げろ引きだ)の俺の様子に気づいて桜子さんはまたくす、と笑う。よく笑う人だ。小さく細かく軽く。
「けれど、私にとって蝶子さんはたった一人の家族で、蝶子さんもまた私がたった一人の家族のようなものなので」
「え? ───あの、そう言えば蝶子さんのご両親て……」
 訊いて良いものか解らなかったけれど、思わず俺はそう訊かずにはいられなかった。
「ああ、事故で亡くなったんです。その時、私の父も共に」
 まるで何万回も説明した事がある人のように、桜子さんはその言葉に感情を一切載せずサラリと言った。
「すみません、また重くて」
 うん、重くないと言えば嘘になるよね。ていうかふつーにすげー重いよね。蝶子さんが男と長続きしないのはそこら辺にも原因があるのでは……。とちょっと思う。
 でも同時に、不思議な事に俺は今この時、蝶子さんへの愛情が増した事を自覚した。愛情と同情の境目ってどこにあるんだろうな。
「えーと」
 困ってしまったので俺はなんとなく頭をかいてみる。
「とりあえずは放課後蝶子さんの事、迎えに行きます。急いで」
「はい」
 ふわり、と桜子さんは微笑んで応えた。そして俺は、いつかは頼まれたからじゃなく自分から、蝶子さんを迎えに行きたいと思えるようになりたいと、この時、思った。
 そうして少しでも蝶子さんの寂しさが紛れるならば。


 朝食のお品書きには四種類のメニューが書かれていた。朝昼晩と、俺たちの在宅時には桜子さんはいつもお品書きを用意して、そのなかから料理を選ばせてくれるのだ。桜子さんの家事は完璧だ。
 あまり考え事の出来なかった俺は、上から二番目に書かれていた筍と菜の花とアサリのおすまし、サワラの焼き魚、きゅうりの浅漬け、なめこおろし、という献立を選ぶ。俺はどうでも良い(もしくは決められない)選択の場合、上から二番目にあるものをなんとなく選ぶという癖を持っている。それはメニューも洋服もパンツも、何から何まで、みぃんなそうだ。それに深い意味は無い。なんとなくそうすると落ち着くというのか。母親がそうしている影響からかもしれない。
 よくこの癖で蝶子に嗤われた。バカみたいだと。
『なんでそんな自分ルールあるの? バカみたい。ほんっと薫って頭悪い』
 蝶子はそう、キラキラとした顔とキラキラとした声で言った。蝶子は元々、お花みたいに生気に満ちている子ではあるけれど、俺の悪口を言っている時は更にキラキラとしている。クソが。
 程なくして桜子さんがそれらの朝食を持ってきてくれた。蝶子のいない蝶子の部屋に。大きな窓からは朝と昼と春が混じった光が差し込んでいる。……傍から見たら、これは仲の良い新婚夫婦の朝の風景に見えないだろうか。……見えないか。俺、桜子さん好きだけれど。
 桜子さんが持ってきてくれた朝食は二人前あった。
「あ、桜子さんも食べるの?」
 なんとなく嬉しくなり、訊ねてみる。思えば蝶子の部屋で一人で朝食を摂るなんて初めてだから、俺は少しだけ寂しかったのかもしれない。
 すると配膳をしていた桜子さんはすげなく答える。
「いえ、今。本当にたった今、蝶子さんが戻って来られたら、ご自分の朝食が無いと寂しく思われるでしょうから」
「……桜子さんて優しいね……」
 と言うか、その蝶子愛すげーと言うべきか。俺、桜子さんの事は好きだけれど、彼女が振り向いてくれる事は百パー無いだろう。
「薫さんはそう思われませんか?」
「……いや、そこまで頭が回らなかったというか……ごめん頭悪くて」
 しどろもどろになってしまった。やばい、俺が本当には心配していなかった事が伝わってしまっただろうか。
「いえ、こういう細々とした事を考えるのは男性より女の方が向いていると思いますよ。それだけですよ」
 困った様子の俺に、桜子さんは小さく微笑む。桜子さんが今言った事が本心なのかそれともカモフラージュなのか俺には解らない。と言うか、桜子さんと出会ってから何年か経つのだけれどその中で、今までほとんど俺には桜子さんの本心なんて解った試しは無いのだった。
 桜子さんというのは不思議な人だ。いつも蝶子にかまけていて、それ以外は皆目解らない。趣味なんてあるのか好きな男なんているのか、まるで解らない。
「……では頂きます」
 手を合わせてから、俺は箸を取る。まずはおすまし。……美味しい……。気づいていなかったけれど、腹減ってたんだな俺。人間、いっぱいいっぱいになると空腹なんて忘れてしまうという事か。
 そう言えば筍は蝶子の好物だった。俺はそれをふいに思い出す。ちゃんと食べているんだろうか、蝶子。いや、死んで欲しい人間に、空腹の心配なんておかしいけれど。
 うーん、やっぱり俺は本当は、蝶子の心配をしているのだろうか。自分で自分が解らない。
「美味しいです」
 感想を漏らすと、
「良かったです」
 と、桜子さんは答えた。
「ところで、薫さん。お食事をしながら聞いて頂ければ良いのですが」
「は、はい」
 しゃきんと俺の背筋は伸びた。桜子さんの声のトーンが変わった気がしたからだ。これは心してかからねば。
「私、お料理しながら考えたんですが、昨日蝶子さんに変わった様子はありませんでしたか?」
「───いや、特には……」
 食べつつ考えつつ、俺は答える。
 思い返してみても、特にそんな様子は無い。昨日は金曜だったから、朝食の時と俺が学校から帰ってから、顔を合わせただけだけれど。蝶子は、まるでいつものように我侭で横暴で、それなのに俺にすぐくっついてくる蝶子だっただけだ。俺たちは喧嘩してから、けれど同じベッドで共に寝た。
「そうですか。それでは最近、蝶子さんに変わった様子は? 新しい交友関係が出来たとか」
 こう桜子さんが訊いてくるって事はやはり蝶子の狂言では無いのだろうか……。
 それとも桜子さんは何も知らずに、蝶子が一人でやっている事なのかなあ。でも桜子さん無しでは何も出来ない蝶子だし。
 と、なると、やっぱり本当に誘拐なのだろうか…そんな事を考えながら俺は答える。
「さあ……俺、解らないなあ」
 蝶子は高校の時から友人が多いけれど(あんな性格なのに。あんな性格のに!)、俺が知っている人はさほど多くない。知っている人は多くないし、それにその強弱も解らない。ちなみに俺は友人が少ない。何故ならばそれは、俺のパーソナリティも勿論あるけれど、何より蝶子にかまけていたら友人付合いをする時間なんて殆ど無かったからだ。
 ───人生の時間を殆どかけてきた(別にそれを望んだ訳では無く、そうするしか無かったからだが)その人がいなくなったら、俺はどうするつもりなんだろう。
 と、そんな事は置いておいて。
「あ、ていうか蝶子のスマホは?」
「置いてありました」
「じゃあライン見れば解るかも。最近の交友関係」
「………そうですね、あまり気は進まないんですが。蝶子さんのスマホを私が勝手に見るなんて、そんな事」
「まーねー。俺も見た事無い」
 蝶子は俺のスマホをしょっちゅう見るが。まるで自分のもののように。そして時たま女子から連絡があったものなら、烈火のごとく怒り出すが。(そういう蝶子を可愛いと思っていた時期もあったが、今では鬱陶しいとしか思えない)
「でも、スマホ見るなら、俺より桜子さんが見たほうがまだいいと思うけど」
「それでは気が進みませんが、後で見てみます。私たちのあまり知らない、新しいご友人の所に行かれたとか、そういう事は無いんでしょうか? そのついでにこうやって私たちをからかって遊んでおられるとか」
 桜子さんの言い方がなんとなくおずおずとしたものだったから、俺にはその言葉に含まれた意味がおのずと解った。
「ああ…新しい男的な?」
 桜子さんは俺の問いに答えなかったけれど、それが答えだった。ああ、そうかあ。そういう可能性もあるよな。というか元々、男とすぐに別れる蝶子が俺と二年ちょっと続いているのも珍しい訳だし。
 蝶子に新しい男がいる。
 それは俺にとって悲しい事なんだろうか嬉しい事なんだろうか。そんな事を考えながらずずっと玄米茶をすする。
「でももしそうだったらさー。そしたら俺は家も女も金も全部無くなるねー」
 ふむ。いっそ身軽なのかもしれない。少なくともそうなれば、人が死んで喜ぶ性根が腐ったやつにはならんで済むだろう。蝶子と出会う前の自分に戻れるだろう。本当の自分に。(けれど本当の自分てなんだろう。というかそもそも。そんなもの、あるんだろうか俺に)
 そんな時だった。
 蝶子の部屋のドアが開いたのは。
 かちゃり、という音がして俺と桜子さんは思わずびくり、と体を震わせる。それが闖入者が蝶子、もしくは犯人(に類ずるようなもの)かもしれない、と思ったからだ。
 ドアが開いてその者が顔を出し、それが誰かと俺たちが認識するまで随分と長かったような気がする。けれどそれは錯覚で本当にはあっという間の出来事だった。
「おはよう。あれ、朝食? 遅いね。けれどいい匂いだ」
 そうして入って来たのは。
「山崎先生……」
 俺と桜子さんの怯えた顔を見て、いつも温厚な彼は不思議そうな顔をしていた。
 山崎先生は俺たちの学校の教諭で、蝶子の遠い親戚であり、また蝶子が十八になるまでの保護者だった人だ。
「蝶子ちゃんの顔、久しぶりに見に来たんだけれど、蝶子ちゃんは?」
 にっこりと身軽そうに彼は笑う。


 高校へ入学したばかりで校舎の三階にある三年生の教室へ迎えに行くのは、一年生である俺にはなかなかの関門だった。いや、気にしないヤツは気にしないんだろうが俺は小心者なのでね。
「わーありがとう」 
 けれど俺を見つけるなり、ぱあっとただでさえ華やかな顔を更に明るくして、俺に抱き着いてくる蝶子さんを見たら、そんな些末な事はどうでも良くなった。手を繋いで帰った。この時ばかりは、桜子さんは別々だった。
 蝶子さんはどこもかしこも柔らかい。繋ぐ掌も唇も体も。俺がそう言うと、彼女は声を立てて笑った。薫って面白いのねと。
 一方。
 そんな甘やかな事がある一方、蝶子さんと付き合って数日で、俺は傷だらけになった。心身ともに。
 何故ならば自分の気に入らない事、それは俺が他の女子と喋ったり(でも喋るだろフツー)、俺が蝶子さんの話を聞いていなかったり(蝶子さんに怒られてから聞こう聞こうとはしているのだが、それでも俺はどこか話を聞いていなかったりとんちんかんな答えをする事があるらしい。そんな事、蝶子さんと付き合うまで知らなかった。誰かと付き合うってのは自分と付き合うって事でもあるんだな)俺が蝶子さんを最優先にしなかったり、そんな些細な事ではあるのだが、けれど、そういった事が少しでもあると容赦無く蝶子さんは攻撃をしかけてくるからだ。
 叩く殴る蹴る抓る引っ掻く怒鳴る罵声暴言。個人的に一番こたえたのは、
 「あんた、頭おかしいんじゃないの悪いんじゃないの?」
 だ。
 他に取り柄の無い俺にとって唯一のアイデンティティは「成績が良い事」だったのでこれにはこたえた。お勉強が出来るのと頭の良い事は違うんだな……。俺とは反対に蝶子さんは成績はさほどだが、頭の回転が早いタイプだ。だから俺にとって辛いのが「頭が悪い」というキーワードだと俺の様子から瞬時に悟ると、ニヤリ、と笑い(それはまるでとっておきの武器を手に入れた勇者のような様子だった、と後に振り返ってみて俺は思う)それからその武器を連発するようになった。
 辛い。
 蝶子さんは俺に傷を与え、更にそこへ塩を塗りたくって俺の苦しむ様子を一頻り眺めた後、それを自分の舌で清らかにするような人だった。今になって解る。天川や桜子さんが俺に殊更頼んだ訳が。そして今になって解る。蝶子さんがこんなに美人なのに男と長続きしなかった訳が。
 そりゃあ新入生イケメンチェックもするだろう。何故ならば外部からの新入生ならば本性がばれていないからな。ばれていないからな!
 また。「超美人で資産家で三年の生徒会長と付き合う一年生」という目で皆から見つめられる事も俺にとってはハードな経験だった。揶揄、冷やかし、嘲り、嫉妬。蝶子さんの元彼でまだ彼女に未練がある男たちから露骨な嫌味を言われた事もある。
 この現状。
 これ、辛くね?
 そんな俺の、唯一と言っていいぐらいの味方は天川だった。俺から見て天川はまだ蝶子さんに何らかの想いがあるような気もするが、それとは関係なしに天川は俺に親切でフレンドリーだった(そして天川自身にも可愛い彼女がいる)。
 そしていま一人の味方。それは、山崎先生だった。
 初めて俺が山崎先生に声をかけられたのは、彼が受け持つ現国の授業後だった。
「ああ、君、薫くん」
 山崎先生は俺の席までやってくると、俺にそう声をかけた。
「蝶子ちゃんの事、よろしくね」
 涼しげに微笑む。三十代半ばぐらいだろうか、どこか飄々とした雰囲気を持つ人だ。髪に寝癖がついていて、黒いフレームのメガネをかけている。
「え? ああ、はい」
 その時、俺には状況が理解出来なかった。山崎先生が蝶子さんの遠い親戚であり現在の保護者だとは全く知らなかったからだ。その後、蝶子さんに事情を訊いてからやっと解った。
「山崎先生はー私の遠い親戚でー。パパとママが死んでからの私の保護者なのよ。ほら、十八になるまでは一応名目上、保護者がいるから」
「なるほど」
 そんな事を話したのは昼休みの時間だった。俺は毎日蝶子さんと昼食を摂る事になっている。半ば強制的にその約束をさせられた。……まあいいけど。他に食う相手もおらんし。
「でも山崎先生は、私にもうちのお金にも興味が無くて、本当に名目上。だから私は今でも桜子と二人で元々の家に住んでるし、山崎先生とは一緒に住んでもいないの。浮気は心配しなくていいよ」
 そう言って蝶子は楽しそうに瞳を輝かせると(そういった様は本当に可愛いと思う。思うのだが)、俺の頬をつつく。ここは俺のクラスの教室で、当然蝶子さんは目立つ訳だが(あんまり三年が一年の教室でご飯は食べないだろう。気まずいわ)本人はまるでそれを気にしていない。少しは気にしろいやして下さい。
「いや、心配してないけどね」
 焼きそばパンをかじりながら、俺は答えた。むしろ浮気ぐらいしてくれた方がいいぐらいだ。んで浮気が本気になってくれたらもっといい。そりゃ本当にそうなったら悲しいし三日ぐらい泣くかもしれないが、それを勝る勢いで俺はこの状況にくたくただったのだ。ほんとーっに。
 けれどそれが蝶子さんは気に入らなかったらしい。
「なんで心配しないの?」
 その声音にはもう早くも苛立ちが滲んでいた。慌てて俺はフォローする。
「いや、蝶子さんの事信じてるから」
 あはは、とせめて明るく笑ってみた。
「違うでしょ? 私の事、どうでもいいからでしょ? それとも私がもてないとでも思ってるの?」
 ………嗚呼………。こうなったらもう遅いのだ。それぐらいには俺はもう、蝶子さんのトリセツを学習していた。
「違うよ。蝶子さんの事、どうでもよくなんかないし、もてないとも思ってない。全っ然思ってない」
 心の中で溜息をつく。実際に溜息なんかつこうものなら、さらに蝶子さんのボルテージは上がる一方だから。
 ああ、めんっどくせー。
 そう、蝶子さんは可愛くて話も面白くて寂しがり屋だけれど、面倒くさい女子なのだった。それはもう超絶。
「薫、今面倒くさいと思ったでしょ?」
 それに答える間もなく、蝶子さんの食べていた豪華弁当(なんとそれは桜子さんの手作りなのだという。すげーな)が目の前から飛んできた。言うまでも無く蝶子さんが投げたのだ。
「あんたなんて、死ねばいいのに!」
「…………」
 まあ弁当では死なないですけどね。
 けれどそうして、俺はウィンナーやらブロッコリーやら卵やらまみれになった。コントロールいいんだな蝶子さん。とりあえず汁物が無くて良かったかもしれない。汁は厄介だからな汁は。
「もう自分の教室戻る」
 憤然と蝶子さんは立ち上がる。
「いや送ってくよ」
「もーいー。ついて来ないで」
 そうして教室を出て行きかけた蝶子さんを俺は慌てて捕まえる。こういう時、素直に「ああそうですか」と見送れば更に蝶子さんの怒りがます一方なのは学習済みだ。
 無言でぶすっとしている蝶子さんと手を繋いで歩いたけれど、弁当まみれの俺と蝶子さんを他の生徒はざわざわと眺めていた。三階まで送って一階の教室へ戻るともう授業の始まる時間で、俺に身なりを整える時間は与えられなかった。仕方なく俺は、そのまま授業を受けざるを得なかった。これなんの拷問。
 五限目の先生は俺の様子を見てぷっと吹き出した。先生方にも蝶子さんの性格だったり事情だったりは周知の事実らしい。
 辛い。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み