彼女がベッドへ戻るまで8

文字数 8,877文字

 蝶子は嬉しそうに食事をしている。
「はー桜子のご飯、うれしーコーヒーもいい匂いー」
 そうして形の良い鼻をぴくぴくとさせる。
「……お前、元気そうだな」
 蝶子とは違い、俺はあまり食欲が無かった。昨日からの疲労が一気に来たのかもしれない。仕方なくオレンジジュースを飲んでみる。
「なによ、私が元気じゃいけないの?」
「なんかむかつくんだよ! 俺にこんなに心配かけさせて」
「へーん、私なんか死ねばいいと思ってたくせに」
「………」
 そう言われると返す言葉は無い。無条件で降伏するしかない。
「元気でお生憎さま。遺産貰えないでかーわーいーそーおー」
「………でも、心配したのもほんとなんだよ……」
 ついつい声が小さくなるのは否めない。
「知ってるわ、そんな事」
「え?」
「薫が私の事、好きで嫌いなんて昔から知ってるもの」
 それは俺にとってひどく意外な言葉だった。蝶子はいつも自信満々で甘えたがりで、だから俺の蝶子に対する愛情なんて一欠けらも疑ってはいないのだと思っていた。俺が蝶子を反面で憎んでいるなんて、知りもしないのだと思っていた。
 ───全然、まるで解っていなかったんだな、俺。蝶子の気持ちも周りのみんなの気持ちも、色んな事が。
「でも私は薫の事が好きだから」
「───うん、まあ無事に帰ってきてくれて良かったよ」
「けど、すんごーいひどい。まじむかつく。私に死んでほしいとかちょっとでも思ったなんて」
「ごめんなさい……」
「ほんと腹立つ。死ね。むしろ薫、お前が死ね」
 この罵倒も懐かしいかもしれない。───て、あれ……?
 そこで俺はやっと気がつく。
 ……なんでそんな事、蝶子は知ってるんだ? 俺が蝶子に対して、「死んで欲しい」と、そういった感情を抱いてしまったなんて。
 俺の頭は急速にくるくると回り始める。
 蝶子がいつ帰って来たのか、俺は知らない。けれど昨夜、俺はなかなか寝つけず、ようやっと眠りに落ちた時まで確かに蝶子はいなかった。そして俺が起きた時に、まだ蝶子は眠っていた。すやすやと。
 それなのに、何故そんな事を知っているのだろう。
 帰ってきてから深夜に、誰かと話したのか? いや、それも不自然だ。俺が眠りを得られたのはもう夜が朝に変わる頃だったから。だから蝶子は、誰とも喋る暇は無かったはずだ。事情を知る誰とも。
 ────蝶子が昨日、誰かと連絡を取っていなければ、そんな事を知るはずが無い。
「蝶子! おまえっ」
 俺の剣幕に蝶子は怪訝な顔をする。
「なによー? 落ち着いてご飯食べさせてよ。昨日食べたのマックだけなんだから」
「その前に話がある。───お前、昨日何してた」
「何言ってんの。攫われてたでしょ可哀想でしょ」
「違うだろ! やっぱりみんなお前が仕組んだ事だな! 狂言か!」
「そんな訳無いじゃない」
 蝶子の様子は落ち着き払ったものだ。嘘がばれないと思っているのではない。俺の弱味を握っているから、握りまくっているから、バレても構わないと思っているのだ。
 なんてふてぶてしい態度なんだ。自分の事を棚に上げて言うのもなんだけど。
「じゃなかったら、なんで俺の昨日の様子を知ってる? 誰かと連絡取り合ってたからだろ! 山崎先生か!」
「やー男の嫉妬ってキモいー」
「それとも桜子さんか」
 振り返って桜子さんを見ると、彼女は薄く微笑んだだけだった。
「話せよみんな! なんで俺のおかんが金を取りに来たんだ。おかんもぐるか。金はどうした」
「私のお金どうしようと私の勝手でしょ」
 パンを千切りながら、蝶子は澄ましかえっている。
「良くない! あんな女に金渡しても使い込むだけだぞ」
「いーんじゃない使えば。それに母親の事『あんな女』呼ばわりはどうかと思うわ。いー人じゃない」
「やっぱり会ったのか。全っ然良い人なんかじゃねーわ!」
 小さくなったパンを口に放り込むと、蝶子は朝から艶やかな唇でニヤリと笑う。
「いい人よ。だって考えてみれば、私と薫を結び付けた人でしょ。キューピットよ仲人よ。薫ん家が解散してなければ、薫は私と婚約なんかしなかったでしょ」
 ……それは否定出来ない。俺はとっくに逃げ出していたかもしれない。しかし肯定すれば、明らかに蝶子の機嫌を損ねるだろう。こんな時にまで蝶子の機嫌を伺う俺ってどうだろう。習性って怖い。
「そうして、私が薫を買ってあげたんだから、結局薫は幸せでしょ」
 やっぱり俺はこいつが嫌いだ。蝶子がベッドに無事戻って来た時はあんなに嬉しかったのに幸せだったのに。
 大嫌いで憎くて、でも好きだ。感情はころころと変わる。
 言いたい事を飲み込んで、俺は努めて冷静な声を出す。
「うん、幸せだから、とりあえず事情を話せ」
 けれど蝶子は俺の言葉に気分を害したようだった。眉間に皺を寄せている。
「命令しないで」
「……話してくれ。話して下さい」
 頭を下げてそう頼むと、蝶子は満足したように鼻で笑った。
「どうしようかなー」
 ああ、やっぱりこいつ戻って来なくて良かったかもしんない。死んでくれれば良かったかもしれない。でもそうしたら殺人者はおかんになるのか。婚約者がおかんに殺されるのか。それは大層なビッグニュースになるな。それもどうか。
 ──ああ、疲れる。
 いない時は愛しいのにいる時は憎いなんて。いない時は欲しいのにいる時は要らないなんて。どちらにしろ俺が蝶子に執着している事は、確かなのだろうけれど。こうして俺は蝶子に振り回されるのだろうか。一生か。買われた身だから仕方無いのだろうか。
 俺がそうがくりと肩を落としていると、扉が開いて、山崎先生たちがぞろぞろと入ってきた。
「わー山崎先生」
 蝶子はそう明るい声をあげて席を立つと、山崎先生にハグする。山崎先生は蝶子に腕を回して嬉しそうにそれを受け止める。満足そうな顔だ。すげーむかつく。その眼鏡引っこ抜いて落として割ってもいいですか神様。
「蝶子、俺には?」
 山崎先生から離れた蝶子に、天川がそう催促する。
「あ、あんたもありがとねー」
(なにーっ)
 天川に体を与えた蝶子のその一言で俺は確信する。こいつもか。こいつもぐるか。
 蝶子が天川の首に腕を回し、天川が蝶子の体を抱き締めいつまでも離れないので、俺は二人をべりべりと引き剥がした。
「なんだよーちょっとぐらい分けてくれてもいいじゃん」
 うるさい。お前の不満なんぞ知るか。俺は無言で天川には答えなかった。俺たちの様子を見て、佐藤さんが笑っていた。あれ、まだいたんだこの人。
 それぞれが席に着き、朝食が続けられる。
「ねー準備出来たら、今日は桜子も一緒に食べようよ」
 蝶子の申し出に、桜子さんは微笑んで頷いた。その桜子さんの顔を見ていると、本当に蝶子が好きなのだなあと解る。すんごく幸せそうなのだ。
「それで蝶子ちゃん、薫くんに事情は話したの?」
 ナプキンを広げながら、ゆったりと山崎先生が言う。
「んーまだー」
 蝶子は半熟のオムレツを口に運んでいるところだった。
「だから話せって言ってるだろ」
 俺の言葉に、蝶子がじろりとこちらを睨んだ。目力強い。
「……話して下さい……」
 みんなの前で懇願するのはシャクだが仕方無い。
「まず、誘拐されそうになったのは本当。街でおじさんとおばさん──おばさんて薫のお母さんだけど──に声かけられたの」
 つるつると悪びれもせず朗らかに話す蝶子の様子から察すると、どうやらそれは本当の事らしい。
「………そうか。誘拐か。おかんもそこまで落ちたのか。ていうかそのおっさんてのが、もしかしておかんの不倫相手か」
 誘拐に不倫。父親には聞かせないでおこう。総白髪になるだろう。
「不倫、ねえ」
 くるり、と蝶子が瞳を動かす。
「そーゆー感じじゃなかったけどなあ。うん、それは多分違うと思うわ」
「……なんで解るんだよ。そんな事」
「だって、えっちしてない二人とえっちしてる二人って、もう空気が違うとゆーか体の触り方からして違くない?」
「………」
 そういうものだろうか。うーん、考えてみればそうかもしれない。
「細部に真実は宿るのよ」
 びしりと、蝶子は断言する。へいへいそうですか。
「おばさん達が言ってたけど、二人は偶然会っただけなんだって。飲み屋で。それで私を誘拐しようとしたその時、二人は酔っ払ってて、特におじさんのほうがね。あんまり本気でも正気でも無かったみたい、誘拐の話。ただ裕福そうな私に絡んでみたかっただけみたい」
「じゃあなんでこんな事態になってるんだ」
「私がそうしたかったから」
 妙に清々しい蝶子の口調だった。雨上がりの朝みたいな。
「二人の話聞いてたら面白くなっちゃったから、私、誘拐されてあげる事にしたの。おばさんが薫のお母さんて気付いたから、おばさんの事知りたかったし助けたかったし」
「───知らんでいいし助けなくていい」
「だって薫、全然お母さんの事、話してくれないから」
「………」
 イヤな思い出なんてただでさえあんまり話したくないのに、おかんに対する憎しみとお前に対する憎しみは螺旋状に絡まってるから、余計に話したくないんだよ。とは、俺は言えなかった。
 と言う事は、俺はやはり蝶子が好きなのだろう。ただ壊したいならば、すべてぶちまければいいだけの話だ。
「それはすまない」
 そして、どうして俺は謝っているんだろう。
「だからーまず山崎先生に助けを頼んだの。おじさんとおばさんと私じゃ、碌な作戦思いつかないし」
 山崎先生に顔を向けると、彼はにっこりと微笑んだ。その柔和な顔に俺は思う。
 あー死ねばいいのにー。と。
「あ、このウィンナー、ハーブが入っていて美味しいね。薫くんにも取り分けてあげようか」
 けれど先生は、穏やかに微笑んでそんな事を言う。永遠にあの世とは無縁な風情で。
「結構です」
 ウィンナーは入らないからとりあえずお前の舌を抜かせろ。
「あはは、怒ってるんだ。ごめんね。でも僕、蝶子ちゃんの頼みって断れないから。それはもう、昔から」
「私は先生のお姫様だから」
「姫とか自分で言うな、蝶子」
「何よ姫でしょ。薫の姫でもあるのよ。むしろ世界の姫なの。違うの?」
「……違わないです。そうです。ていうか、先生、頼みを断れないってより、先生も楽しんだんでしょ」
 俺の問いに山崎先生は笑って答えない。うん、絶対的にそうなんだね。
「で、作戦を立てて貰って、私は昨日の朝早く、家を抜け出して近所のビジネスホテルにおじさんとおばさんといたの。後はみんな山崎先生と桜子、天川がやってくれて。ありがとね、先生」
「やっぱり天川、お前も仲間か……」
「今頃気付くなんて、ほんと薫は頭が悪いなあー」
「ありがとう天川。お前に言われるとすげーむかつくわ」
 なにしろ天川の成績は、良いとはとても言えないものだ。
「だって、薫くんが蝶子ちゃんの居場所を訊ねるとしたら、まず天川くんだろう? だったら最初から仲間に入れておいたほうが良いと思って。何より、天川くんなら楽しんでくれそうだったしね。天川くん、薫くんの事嫌いだし」
 山崎先生はまるで悪びれない様子で滔々と話す。
「そーそー薫の事からかうのは楽しかったよん」
 よん、てなんだよ。よんて。天川のそのあどけなさに腹が立つ。
「そして次に薫くんが頼るとしたら、まずは探偵かなと。だから佐藤さんには初めから頼んでおいたんだ」
「えっ」
 今まで粛々と食事を続けていた佐藤さんが、俺の驚いた声を聞き顔を上げる。
「申し訳ありません」
 苦笑を浮かべて彼は言った。
「だって、本当の探偵でも頼まれて事情がバレてしまったら、困るからねえ。だから探偵を雇って、けれど何も解らないって形にしておかないと」
「でも、山崎先生。どの探偵にお願いするか決めたのって俺じゃないですか」
「上から二番目でしょ」
 そう言ったのは、蝶子だった。当然でしょ、というニュアンスで。
「薫が『何か』を選ぶ時っていつも上から二番目だもん。パンツも靴下もハンカチもメニューも」
「……よくそんな事覚えてるな」
 なんだか少し感動してしまう。他人の事をあまり気にしない蝶子なのに。そんな些細な俺の癖を覚えていてくれたなんて。蝶子とそれなりの時間を過ごした事を改めて実感する。覚えてくれていた蝶子が、ふわりと愛おしいような気がした。
「だからネットで検索したら、上から二番目に出てくる事務所にあらかじめお願いしておいたの。ちなみに、この誘拐事件がある前に、」
 事件じゃないだろお前の狂言というかお遊びだろ、という突っ込みはこの際、口に出さずにおく。
「薫のお母さんがどんな人か調べた事もあるんだけど、それもこの佐藤さんにお願いしたの」
「………そうだったのか」
「優秀なのよ、佐藤さん。本当は」
「それは有難うございます。そうですね、ホテルの写真を見てそれがどこのホテルか探すぐらいは出来ますが」
 上品な声で佐藤さんは言った。そうかあれも嘘だったんだな。蝶子の縛られている写真を見て、ホテルが解らないってのも。どいつもこいつも大嘘吐きだ。いや、一番の嘘吐きは俺なのかもしれないが。
「まあそういう訳で、無事蝶子ちゃんは楽しめたし、薫くんの本心も解ったし、薫くんを心配させてからかえたし、薫くんのお母さんもお金貰えたし、めでたしめでたしという訳で」
「そーそー良い余興になったよ」
 山崎先生と天川はそう勝手な事を言う。余興ってなんだよ。
「……なんか俺一人負けって言うか、俺だけ損してる気がするんですが」
「納得いかない?」
「いく訳ないじゃないですか」
 余裕の態度を崩さない山崎先生をせめてもの抵抗で睨めつける。ああその眼鏡までがイライラする。坊主憎けりゃ袈裟まで憎しとはまさにこの事。
「どうして? だって一番得してるのは、薫くんだろ」
「は? どこがですかなんですか」
 不満を隠さない俺に、山崎先生はにっこりと微笑む。今までで一番の笑みと言ってもいい。
「だって自分の気持ちを確かめられて、蝶子ちゃんの存在がいかに重要か気付いて、蝶子ちゃんとの愛も絆も深まったじゃないか」
「………」
「違う? 僕は薫くんの為も思ってやった事なんだけどな」
「そうそう、先生良い事言う。そう言えば昨日、みんなの前で私の事好きだって宣言したんでょう?」
 同じように蝶子もにっこりと微笑んだ。その笑顔は可愛くて、とても無邪気で、だから俺は何も言えなくなってしまう。
 ぼんやりと窓の向こうに目をやると、昨日に引き続き空は晴れ渡っていた。美しい日曜日だ。と、虚勢では無くそう思う。


 その夜、俺と蝶子は二人でベッドに寝そべり、取り留めのない話をした。
 蝶子と離れていたのは一日だけだったのに、そうしていると妙に懐かしいのに、それなのにどこか気恥ずかしい気分だった。──それもそうなのかもしれない。
 出会ってから俺たちは今まで、ほぼ毎日ずっと一緒にいたから。だから一日でも離れているのは、なんていうか大事(おおごと)なんだ。
 俺たちのベッドには今日も桜子さんが換えてくれた、洗い立てのシーツがかけられている。しかもそれは蝶子が一番にお気に入りのシーツだ。さすが桜子さん、仕事に抜かりは無い。
「薫のお母さんのね、話をしていい?」
 蝶子はそんな風に切り出した。広いベッドの上、俺と蝶子の間には少し距離がある。俺たちは並んで天井を眺めている。こうやって何度も夜を過ごしたけれど、これほどこの時間が嬉しいと思ったのは初めてな気がする。
 嬉しい。
 それは、だって蝶子がいるから。
「───いいよ」
 少しの間の後、そう答えたけれど、それを、聞きたいような、聞きたくないような気がした。
「お母さんね、元気そうだったよ」
「そっか」
 それでも、そう聞くと少し安心してしまうのは何故だろう。まだ母を憎んでいる気持ちは変わらないのにも関らず。愛情と憎悪は矛盾しているようで並立している。
「薫のお母さんて面白いね」
「そーかー?」
 あまり俺にそういう印象は無い。母は、普通の、本当に普通の人だった。『だった』。今では俺のその認識は違うけれど。考えていると、普通と普通では無い、の違い目が解らなくなる。いつから? どこから? 解らない。まるで愛と憎の違い目が解らないみたいに。
「お母さん、肉まんに似てるわ」
「ほう」
 なるほど。その例えに妙に感心。確かにそうかもしれない。色が白くて丸顔でほかほかで。
「てゆーか、蝶子のが面白いけどな。その発想が」
「あんまり薫には似てないのね。でも優しそうだった。そこは似てるわ。ボロボロのコート、着てた。マック食べさせてくれたし、お茶やコーヒーも淹れてくれた。私の顔も拭いてくれた。お金貰って嬉しそうだった」
「………へえ」
「どうしてこんな事したのか訊いても、笑って教えてくれなかった。家には帰れないって言ってたわ」
「……そう。まあ帰る家ももう無いけどね。父親は田舎だし俺はここだし」
 言葉に出して言うと、俺はまたなんとも言えない複雑な気持ちになったけれど、
「元気でいてくれるといいね」
 そう応えた蝶子の声は珍しく素直で邪気が無く、だから少しだけ優しい気持ちになった。蝶子の体に手を伸ばす。彼女の髪を掴み、自分の顔へ当ててみる。蝶子はやはり良い匂いがする。懐かしい匂い。
 今日はベッドも部屋も広く感じない。
「ねえ。私の髪の匂い、変でしょ?」
 俺の様子を眺めながら、蝶子が言う。
「え? いい匂いだけど。なんで?」
「はー? いつもと全然違うでしょ? 薫ってほんと鈍いのね」
「……。いや、確かにそうかもしれんが、でも蝶子はいい匂いだよ。俺にとっては。いつだって」
 愛も憎も関係なく、それは本当に真実なのだった。すると蝶子は唇に指を当て、ふんわりと笑った。白い指。俺は既視感を覚える。出会った時、触れるのを躊躇した指。
 その蝶子と今、俺はベッドにいる。二人で。二人だけで。 
「──薫っていい名前よね」
 ぽつり、と蝶子は言った。
「そうだな」
 そう答えた気持ちに嘘は無かった。
 ──いくら何かがあっても、この名前をつけてくれた時の母親の気持ちや、それを気に入っている俺の気持ちは嘘じゃない。いくら何があっても、嘘にはならない。
 蝶子が攫われて思わず喜んでしまった俺の気持ちも、けれど今、こうして蝶子といると本当に居心地が良いと思えるこの気持ちの、どちらも嘘にはならないように。
 たくさんの本当。たくさんの嘘。その、どちらもが本当。
「私、薫のお母さんの写真、持ってるから。薫、欲しかったらあげるね。要らなかった捨てて」
 捨てる事はとても出来ないと俺は思った、まだその写真を見る事は出来ないけれど。


 翌日、俺だけが学校へ行くと(ちなみに高校を卒業した蝶子は、今は何もしていない。無職だ。だって一生分のお金がもうあるのに、勉強する必要も働く必要も無いでしょう。死ぬまで気楽に楽しく暮らすの。というのが蝶子の弁だ。彼女らしい)、腹が立つほど山崎先生も天川もいつも通りだった。
「おはよー薫」
 にこにこと教室で天川に声をかけられた時は、昨夜蝶子と仲良く出来たせいで収まりかけていた気持ちがまた乱れた。
「よくお前、普通でいられるな」
 若干、震える声で俺は応える。ダメだ。怒鳴ってはいけない。ここは教室だ。
「ええ? だって俺、何もしてないじゃん。基本的に根本的に悪いのは薫と薫のお母さんじゃん?」
「………」
 こいつの言っている事が何も間違っていないので反論出来ないのが腹立たしい。
「俺はそれに便乗して、ただちょっとからかっただけー」
「からかいすぎだろ……」
「どう、無事蝶子に捨てられた?」
「捨てられてませんから。むしろ仲良くなりましたから」
「へー良かったじゃん」
 そう言う天川の言葉に態度に、嘘は見えなかった。それもまた、彼の本心なのかもしれない。色んな矛盾した気持ちが、誰にでもあるものだから。
 少し開いた廊下側の窓の向こうに、ちょうど山崎先生が通るのが見えた。


 それから数ヵ月後、蝶子に付き合ってデパートで買い物をした帰り、蝶子が選んだ商品を両手いっぱいに持たされている俺と手ぶらの蝶子で歩いていた時(俺はまたもや少し蝶子を嫌いになる。全部自分のものなんだから、一つぐらい持ってくれてもいいじゃないか。これでは蝶子と手も結べない。蝶子の手は柔らかくて良い匂いで好きなのに)混雑する人並みのなかで、ふと、母親に似た人を見かけた気がした。
「………」
 時が止まった気がした。
「もー遅い、薫」
 俺の数歩前を歩く蝶子がそう言って振り返っても、俺はまだ現実に戻れないでいた。
「───なによ、変な顔して。どうしたの?」
「……や」
 感情と言葉がもつれて、俺はそんな声しか出せない。
「なんか不満でもあるの? 私の荷物持たされて。むしろ光栄だと思いなさいよ。満足でしょ、私の荷物を運べて」
 蝶子が、そう不満げに美しく光る唇を尖らせる。それから彼女は俺をじっと見つめると小首を傾げる。
「? ねえ、ほんとにどうかしたの、薫。お腹でも痛い?」
「───ううん、なんでもない」
 俺はそんな嘘をつく。
「ほんと? ならいいけど」
 胸に手を当て、蝶子はふ、と息を吐き微笑む。それは本当に俺の事を心配してくれている人の仕草だった。
 それから蝶子はいつものように驕慢に、細い顎をあげる。
「ね、私みたいに優しい主人に心配されて、下僕は満足でしょ」
「……満足だよ」
 俺はただそれだけを言い少しだけ笑い、前を歩く蝶子に追いつく為、足を早めた。


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