彼女がベッドへ戻るまで3

文字数 9,176文字

 朝食がまだだと言うので、蝶子の代わりに彼女の朝食を山崎先生に食べてもらう事にする。気づけばもう十一時近くになっているし例え今、蝶子がふいに戻ってきたところでもう朝食でも無いだろう。
 山崎先生はすっかり冷めたそれを、けれど美味しそうに食べていた。
「で、蝶子ちゃんはどうしたの? お使い?」
「……蝶子はお使いなんて行きませんよ……」
 山崎先生の言葉はいつも本気なのか冗談なのか解らない。その微妙なラインをついてくる。
 俺は俺たちのテーブルのすぐ傍に控えている桜子さんへ視線を伸ばした。この事態を、山崎先生に告げて良いものかどうか迷っていた。
「山崎先生にはお伝えした方が良いのではないですか?」
 桜子さんは俺の視線の意味を察して、頷く。
「ん? どうかした?」
 俺たちの様子に、山崎先生は首を傾げる。桜子さんが慎ましく黙っているので、俺が山崎先生に告げた。
「───実は、蝶子が誘拐された。かもしれないんです」
 俺の言葉に、けれど山崎先生はそれほど驚いた様子を見せなかった。そう言えば桜子さんもそうだったけれど。
「ほーう」
 まるで、面白い出来事だとでも言うようなそう口調で言うと、ただ目を丸くする。
「ああ、だからかあ」
 そして彼は続ける。
「今ね、ここん家の玄関の前に、こんなものが落ちていたんだけど」
 山崎先生がプレスされていない背広の胸ポケットから取り出したのは、くちゃくちゃになったやはり一枚の紙だった。
「悪戯かと思ってたけど、そーかー」
 そう一人で納得しながら、彼は俺にその紙を差し出す。なんだか見るのが怖いような気がして、けれど見ない訳にもいかないから、俺はその紙を広げてみる。そこにはこう書かれてあった。
『警察には知らせないで下さい。山崎先生に三千万を渡して下さい。そして次の指示まで三人とも自宅で待機していて下さい』


 そんな、愛おしいと疲れると腹立つと疲労が混在する日々(それは蝶子さん一色の時間だった。彼女と一緒にいない時でさえも)を過ごして一か月ほど過ぎた頃。俺に、青天の霹靂が起きた。それはまさに青天の霹靂としか言いようが無い出来事だった。
 父親が自己破産したのだ。えええええ。
 あの、真面目に働いていた父親が。初めて聞いた時はとても信じられなかった。しかもその原因は他の誰でも無く、俺の母親だった。
 どうしてこんな事になったのか。なってしまったのか。
 元々、うちはさほど裕福では無い。父親はあまり大きくない会社のサラリーマン。母親は回転寿司屋のパート。金のかかる名門私立高校へ行けたのは、俺が成績優秀で高校の制度により学費補助を受けられたからだ。
 裕福では無いがそれなりに円満な、普通の家庭だと思っていた。
 少なくとも、俺の認識では。
 それがあっけなく崩れた(砂上の楼閣、という言葉ってリアルだなーとそんなどうでもいい事を、頭の後ろら辺で考える)そのきっかけは、父親が家を買おうとした事だった。小さな家なりマンションなり。いつまでも賃貸というのも、今なら金利も税金も有利だし、と言う事で父親は一人で銀行へ行ったそうだ。気楽な気持ちで、軽く相談といった感じで。
 ローンの相談をしていた時、そこで父は、自分に借金があるのを初めて知らされた。しかもかなりの金額だった。それをしたのは、母親だった。そして帰宅した父は預金通帳を確かめ、それがほぼ空っぽである事を初めて知る。
「まあだから、本当に青天の霹靂だったのはおとんだよね」
 リビングに置いてある狭い食卓に、俺は父親と共についていた。夕食後に二人、しみじみと日本茶をすすっている。パックで入れた簡単なものだが、茶はうまい。その香りに、心安らぐ。束の間でも。
「…………」
 無言でおとんは茶を啜っていた。その事実が発覚してから数週間、すっかり老け込んだなあと思う。ストレスというのは人を衰えさせるのだと、俺は初めて目のあたりにした。勉強になったが知りたくなかった。
 テーブルにはまだ、食べ終わったパックなどが残っている。
 夕食は閉店間際のスーパーで買ってきた半額の寿司と、インスタントの味噌汁だった。半額の寿司って豪華さと貧乏臭さが混在する。笑える。
「ほんと、何に使ったんだろ。金。おかん。結局、最後まで言わなかったんだろ?」
「ああ。生活費の足しにしただけだって」
 父親に追及された母親は頑なに「生活費の足しにしただけ」だと主張し、さらに父親に追及されそうになるとぷいと家を出ていった。何それひどい。
 けれど、それが事実だった。事実ってたまにひどい。
「男? パチンコ? 宗教? ねずみ講? 株?」
 俺はわざと冗談めかして言ってみる。ていうか冗談でしか言えないわ。気まずすぎるわこんなの。
「男なあ……」
 溜息交じりに言って父親が視線をどろんとさせる。
「あのお母さんがなあ……」
 そんなおとんの言葉に俺は少し笑ってしまう。確かにあのおかんがね。おしゃれにも全く気を使わない中年おばさん体型のあのおかんがね。
「まあ男ってのはあり得ないかー」
 けど、あのおかんが使い込むなんて事もあり得ないと思ってたんだよね。ちょっと前までは。人生ってあり得ない事が起きるんだねたまにふいに。
 出て行ったおかんの行方は杳として知れず、父親が借金の全貌を確かめるとそれはとても返済出来る金額では無く、今、彼は自己破産の準備を進めているのだった。おとん可哀想。確かに家では無口だし横暴なとこもあったけど、それでも一応頑張って働いていたのにね。
 頑張って、いたのにね。
「………俺さあ、高校辞めて働くわ」
「………。高校ぐらい行きなさい」
「いや、もちろん、食ってくだけならおとんの給料でも大丈夫だけど。でもあのたっかい私立の学費は、幾ら補助されていても大変だろ」
 俺の正論に父親はまた黙ってしまった。それはそうだと納得しているのだろう。正論て人を黙らせる。
「公立に転校って言うのも大変だろうし……まあこれも人生の転機じゃね?」
 明るく言ってみると、今まで湯呑に視線を落としていた父親が顔を上げる。
「ごめんな、お前のせいじゃないのにな」
 それは小さな小さな声だった。傷ついている人の、声だった。
「おとんのせいでもないよ」
 俺は笑った。ふいに、俺の名前「薫」をつけたのはおかんだった事を思い出す。
 そして、そんな状況を一変させたのが、蝶子さんなのだった。


「三千万ぐらいなら家の金庫にありますから、外出しないのは構わないのですが。食材と日用品もありますし」
 紙に書かれたメッセージを見て、桜子さんがまず言ったのはそれだった。
「三千万もあるの!」
 驚いて思わず素っ頓狂な声が出てしまう。この家で暮らし始めて一年以上が経つが、俺はこの家の事をまるで知らない。
「はい」
 おかしそうに桜子さんは笑った。そうか、そうなんだそれがこの家の常識なんですね……。
「僕も今日は土曜だし特に予定も無いから、ここにいるのは構わないけどねーそれなら仕事持ってくれば良かったなあ」
 相変わらず山崎先生はのんびりした口調で言う。そういう問題なのだろうか。そういう問題なのかもしれない。 
「ていうかなんで山崎先生の事まで知ってるんだろう」
俺はそう疑問を口にする。
「それはやはり蝶子さんが教えたんじゃないですか? 勿論、事前に知っていた可能性もありますけれど」
 冷静な桜子さんの言葉。成る程そっか。
「どう思われます、山崎先生。これは本当に誘拐なのか、それとも蝶子さんのイタズラなのか。もし本当に誘拐ならば、これを警察に届けたほうが良いのか否か」
「うーん」
 サワラを箸で割っていた山崎先生はそれを口に運び、咀嚼し飲み込んでから意見を述べた。
「警察はとりあえず止したほうがいいんじゃないかなあ」
「………」
 どうして皆が皆、警察に届けるのを嫌がるのだろう。まさかみんなグルなんて事は無いんだろうけれど。そしてそちらのほうが、警察に届けないほうが、蝶子がいなくなってくれればいい俺にとっても都合はいいんだけれど。
「桜子ちゃんの言う通り、三千万ごときで蝶子ちゃんが危険な目に合うのもなんだし。欲しいって言う人にあげちゃえば。で、蝶子ちゃんのイタズラ説だけど」
 すいっと、山崎先生はお椀に残ったおすましを飲む。
「確かに蝶子ちゃんはイタズラ好きなんだけれど、こういうイタズラはしないんじゃないのかなあ」
「そうですか? 蝶子は俺をからかう為なら全力を使いますよ」
 いかんいかん、ついつい日頃の恨みが口をついて出る。俺は心配してなきゃいけないのに。
「あはは、まあ確かに彼氏に自分の事を心配されるのとかが大好きな子ではあるんだけど、けど、こんな冗談したら、桜子ちゃんがどれぐらい心配するか解るでしょ。蝶子ちゃんは桜子ちゃんを心配させるような真似はしないよ」
「……。先生って蝶子の事、解ってるんですね……」
 思わず口を挟んでいた。
「俺なんかより。ずっと」
 何故だか俺は笑ってしまう。
「先生が、蝶子と付き合えば良かったのに」
 俺の言葉に、山崎先生はんーと首を傾げる。
「僕、蝶子ちゃんの事好きで大事だけれど、そういう意味では興味ないんだよねー。お金にも興味無いし。一介の高校教師で独り身で充足してるっていうか、それが気楽で居心地がいいからねー」
「そうですか、蝶子も残念ですね。先生と付き合っていれば誘拐なんかされなかったかもしれないのに。もしくは狂言なんかしなかったかもしれないのに」
「それなんだけどさあ」
 ぽりぽりと、山崎先生の口のなかでお新香が砕ける良い音がする。
「蝶子ちゃんは桜子ちゃんに心配をかけるような真似をしない。それは桜子ちゃんも承知だよね?」
 桜子さんは深く頷く。
「何故ならばそれは、二人が同じ痛みを共有しているからだ。若くして両親を喪うっていう悲しみ痛みを。でも。だったら蝶子ちゃんは、桜子ちゃんにだけは告げてこの狂言をしているって可能性ならあるよね? もっと言うならば、桜子ちゃんが手伝っているという説は?」
 ニヤリ、と山崎先生は笑った。驚いたように桜子さんが山崎先生を見つめるのを、俺は見ていた。


 六月に差し掛かり季節は移ろい、梅雨を迎えた。しとしとと細かい雨が降って少し肌寒いほどなのに、俺たちは学校帰り公園に来ている。言うまでも無く蝶子の願いだ。「梅雨、雨のなか恋人二人っていーじゃない!」と彼女は言った。良いかどうか俺には解らん。ていうか雨なら降ってるわ。心に。まいはーとに。もうこれ以上要らん。
 と言えるはずも無いので、結局俺は蝶子に従っている。
 赤い傘を差している蝶子が振り返って俺を見る。すると彼女の髪から、雨に乗せてふうわりと良い香りが漂った。彼女の体はどこもかしこも良い匂いがする。振り返ってきらきらの瞳で俺を見つめる蝶子は、我儘だけれど面倒くさいけれど可愛いと思う。
 その蝶子とも別れるのかもしれない。
 ちょっと感傷的になる。梅雨のせいだろうか。
「あのさあ蝶子、」
「あ、私、ブランコ乗りたい」
 俺の話を遮って、蝶子は言う。うん、いいんだこういう事慣れてるから。
「ブランコ? 雨降ってるじゃん」
「漕がないで乗るだけ」
「それでもブランコ濡れてるし、蝶子濡れちゃうだろ」
「だから薫がまずブランコに乗って、その上に私が乗るのよ。それで傘差してれば少なくとも私は濡れないじゃない」
「………解った」
 そうですか、俺は人間椅子ですかそうですかいいですとも。
 諦念の境地で、俺は少し錆びかけたブランコに腰を落とす。地面もぐちょぐちょで、ブランコの下には濁った水たまりが出来ている。制服がじっとり濡れるのが解った。でもまあいいか。この制服着る時間も残り少ないんだし。
 蝶子は早速俺の上に乗る。その様はひどく嬉しそうだ。制服ごしに彼女の体温が伝わる。肌寒いこの世界のなかでそれはひどく安心するもので、俺は蝶子のよく手入れされた髪のなかに顔を埋めた。
 急に愛おしくなる。
 後ろから、蝶子をぎゅっと抱きしめる。
「どしたの?」
 普段、まるで他人の様子を伺ったりなどしない蝶子だが、さすがにこんな俺の様子には気づいたらしい。
「あのさ、俺学校辞めるんだけど」
「え!」
 ぴょん、と彼女は俺から飛び降りた。その際に水たまりの水が撥ねて俺をしたたかに濡らす。蝶子は無傷だ。そうですか、そうですよね。そういうものですよね。
「どういう事!」
 俺を見つめる蝶子の瞳は怒りと戸惑いに満ちている。あと寂しさも。そっか寂しんでくれるんだ、良かった。それはほんの少し俺の救いになる。誰かに必要とされるのって快感だ。中毒性の。
 俺は手短に事情を説明した。今まで、今度家族に起きたもろもろの事は、まったく話していなかったのだ。話そうかとも思ったけれど、どうしても出来なかった。お嬢様である蝶子にこんな話をするのは恥ずかしい気がした。すごく、恥ずかしい気がした。
 珍しく黙って俺の話を聞いていた蝶子は聞き終えるなり、綺麗に描かれた眉を持ち上げてみせる。
「それで、薫のお父さんはどうするの?」
「会社辞めて、田舎に帰るって。そうすれば少しは退職金が出るし。自己破産て言っても、親戚とかに借りた金だけでも返さなきゃ」
 そう、うちの母親は金融関係で金を借りられなくなると、今度は知人友人親戚までに金を借りていたのだ。しかも自分の親戚だけではなく、父親のそれまでにもその毒牙は及んだ。ひでーやおかん。
 ─────。
 今、どこで何をしているものやら。
「ふーん、ならさ、薫、うちに住めばいいじゃない?」
「────は?」
「で、学費は私が出してあげる」
「何言って……」
「学費ぐらい何とも無いもの」
 事も無げに蝶子はそう言うけれどきっとそれはそうなんだろうけれど、俺はなんだか心がちりちりしたほんの少しだけ。寒いような気がした。急に蝶子が離れたからかもしれない。
「私、一人じゃ生きていけないもん。薫がいないと死んじゃうもん。肌とか唇とかそーゆーのが無いと」
 そして蝶子は傘を放り出すと濡れるのも構わずに、俺をぎゅっと抱きしめた。その腕の力は強く、また俺には蝶子の体温が与えられる。
 それなのに。さっきとどこか違う気持ちがするのは何故だろう。どこかがひゅうひゅうするのはなんでだろう。
「私が、薫を買ってあげる」
 その蝶子の台詞に悪気は無いのだろう。彼女は本気なのだろうし、優しさのつもりで言っているのだろう。それは解る。解るのだけれど。それなのにどうしてとても寒い気がするのだろう。
 俺の中で、色々な映像が回りだす。初めて会った時の蝶子。彼女が投げたハンカチ。父親に釈明する母親。だるだるの部屋着を着ていた母親。毎日テレビを見てそれでも料理好きだったりした母親。
 母親。蝶子。母親。蝶子。母親。蝶子。
 ……なんでだよ、おかん。
 ふいに蝶子の体が俺から離れる。
「ちょっと! どーしたの! なんで抱き締め返さないのよ!」
「───あ。ごめ……」
 俺はなんだかぼんやりしていた。蝶子の言葉がうまく頭に届かない。まるで、急に世界と───蝶子と、何か一枚薄い透明な膜で隔てられてしまったみたいな。
「聞いてるの! 有難いでしょ? 感謝しなさいよ! 私と離れないでいられて、私と一緒に住めるのよっ」
「うん……」
「私が薫を買うって言ってるのよ!」
 ぼんやりと蝶子の言葉が聞こえる。あれ、なんでだろう急に可笑しいな。可笑しいよ。
 何故だか俺は笑い始めていた。
「はははは」
 背中を丸めて、俺はひどくおかしそうな笑い声をあげる。
「なにがおかしいのっ!」
 そういきり立つと蝶子はバシリ、と俺に平手を食らわせた。それは思いのほか勢いがあり力も強く、鏡で見てみれば俺の頬は赤くなっていた事だろう。けれどそれで、急に頭がクリアになった気がした。
「うん、ごめんね。ありがとう蝶子」
 にっこりと笑ってみせる。
「それでいいのよ。すっかり濡れちゃったじゃない。拭いて」
 蝶子は放り投げた傘を拾い直し差す。俺が制服のポケットからハンカチを取り出すと、それは偶然にも蝶子がくれたものだった。箪笥の上から二番目に入っていた。アイロンがかけられていたから、おかんが出て行く前に洗濯したものだろう。今の家にはアイロンがけなどする人はいない。
 ごしごしと蝶子をそれで拭く。みるみるうちに濡れてくちゃくちゃになっていくハンカチ。
「もっと優しく」
「うん」
「ね、薫は頭も悪くて今度はお金まで無くなっちゃったんだから、私が買ってあげるしかないんだから」
 にっこりと蝶子は笑った。華やかに甘やかに優しげに。
「そーだな」
「それが一番いいんだから」
 憎い。と。
 強くそう思った。けれどこの憎しみは誰へ向けられたものなんだろう。蝶子へなのか母へなのかそれとも己か、世界か。
 大分蝶子を拭けたので、俺は蝶子の頬へそっと触れてみる。蝶子は不思議げにけれど嬉しげに、そうする俺を見つめている。
 相変わらず蝶子の頬は柔らかくて温かで良い匂いがした。砂糖菓子みたいな子だなと思う。砂糖菓子なら雨で溶けるが。現実の蝶子は溶けはしないでここにいる。雨で簡単に溶けたりはしない。
 雨で溶けるかあ……。
 そんな風に俺の憎しみも簡単に溶ければ良いのになあ。
 良いのにね。


 少しの間の後、桜子さんは小さく笑った。
「私は、そんな事は、していませんよ」
 はっきりと発音して、明確に山崎先生の疑惑を否定する。
「そうなんだ?」
「ええ。だったらむしろ良かったんですが」
「だよねー僕もそうだったら安心だなと、ちょっと思っただけー」
 あはははと山崎先生は声に出して笑った。
「じゃあまあ、とりあえず次の指示を待つしかないよね。あ、指摘ついでに言うならさ、薫くん」
 矛先がこちらに回ってきて俺は思わずどきりとした。
「は、はい」
「君、あんまり心配しないんだね蝶子ちゃんの事」
「───そんな事、無いです……」
 それ以外に言いようがあろうか。
「そー? 少なくとも僕の目にはそう映る。桜子ちゃんが違うんなら、君が手伝っているって可能性は無いの? 手伝うって、蝶子ちゃんの狂言を手伝っているのか犯人の犯罪を手伝っているのか、そのどちらかなのは解らないけれど」
「そんな事しないですよ!」
 思わず大きな声が出てしまった。そんな事しない。死んでほしいと思っているだけだ(ひでえ)。
「そんな事しないですよ! あまり心配しているように見えないんだったら、なんていうか…びっくりしすぎちゃって呆然としているというか」
「ふうん」
「蝶子なら死んでも死なないような気がするっていうか」
「そう? あはは、そっか。ならいいんだけど。でもじゃあ、薫くんは蝶子ちゃんの事そんなには好きじゃないんだね」
 山崎先生の視線がすっと冷たくなった気がした。俺は何も答えられなかった。言い訳も、出来なかった。何故ならば何をどう言い訳しても山崎先生には悟られてしまう気がしたから。
「山崎先生、あんまり薫さんを苛めないで下さいよ」
「あれ、内心どっかで桜子ちゃんもそう思ってなかったの?」
「………」
「もしかしたら、薫くんも何か関係しているかも、しれない。桜子ちゃんはその可能性も考えた。警察に届けるのを躊躇っている原因の一つに、それがあるんじゃあないの? 僕にはそう思えたけど?」
「違います」
「そ。ならいいんだけど」
 にっこりと山崎先生は微笑む。
「僕の考えすぎだったようだ。ごめんね、二人とも」
 ぶんぶんと俺はを手を振った。山崎先生が謝る事じゃない。本当に謝るべきは俺だ。俺なんだ。
「そーかー。でも僕、ここにいなきゃいけないんだ。だったらさー、お昼はなんか洋食がいいなあ。桜子ちゃん」
「解りました」
「ていうか今、朝食食べたばっかでよく食べますね先生」
 何よりも心配していないのは山崎先生のようにも思えるのだが、けれどこの人はいつも飄々として、感情で表情を作る人では無いので、表からは伺い知れないだけかもしれないがしかしその食欲。
「僕さーいつもご飯、インスタントとかばっかだから。桜子ちゃんのご飯美味しいよねー好きなんだよねえ」
 山崎先生の言葉に、桜子さんは嬉しそうに細かい笑い声をあげた。その桜子さんの様子を見ていたら俺は、ふと桜子さんは山崎先生が好きなのではないだろうか、そんな風に思った。ふむ、似合う。少なくとも俺よりは。
「それでは昼食の準備を致しますね」
 いそいそと桜子さんは、空になった食器をさげて部屋を出て行く。その様子を見送ってから、くるりと山崎先生が俺を振り返る。先生はにっこりと笑った。
 何その笑顔怖い。
 殺されるんじゃなかろうかそれとも拷問されるんじゃなかろうか。いやそんなはずも無いのだが、けれどだって、山崎先生はあの蝶子の親戚な訳だし、あの。
「薫くん」
「はいっ」
 俺は思わずびくりと体を揺らす。
「ただ待っていても仕方がないから、ああ待つって昼ごはんも犯人からの指示もね、だから色々してみない?」
「色々とは……」
「とりあえずさ、蝶子ちゃんと仲好い人たちに連絡してみるってのは」
 山崎先生はテーブルに置かれたままになっている、蝶子のスマホを指差した。


 あの冷たい雨はあがったけれど、そして梅雨も明けたけれど、俺の中に生まれた感情は消えないでいた。けれど、あの雨の日の翌日からも、俺は蝶子へ普段通りに接した。それ以外にどうして良いのか解らなかった。
 そんな俺を置いておきぼりに、話はどんどん進んでいった。蝶子はひどく嬉しそうだった。
 そして、俺たちは恋人から婚約者になった。十八になるまで蝶子と蝶子の財産を管理している山崎先生がそうした方が良いと言ったからだ。一緒に住むのは賛成だし、ほら、そうしたら蝶子ちゃんも桜子ちゃんも寂しくないからね、けどそれなら名目上でも婚約した方がいいんじゃない? そしたら色々と便利だし。たとえばもし万が一蝶子ちゃんに何かあったとしても、薫くんの権利は保証されるし。
 蝶子はその提案にも大喜びで、俺はそれを了承した。田舎に帰る前の父にも、蝶子と会ってもらった。彼女は柄に無く緊張していて、その姿を俺は可愛いと思った。
 可愛いと思う一方、雨の日に生まれた想いは消えないでいた。
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