彼女がベッドへ戻るまで4

文字数 8,642文字

 すいっと、派手なカバーのついた蝶子のスマホを取り上げると山崎先生は弄り始めた。俺たちはそれに躊躇していたけれど、山崎先生はなんなく自然にそうしている。
「あのう、勝手に触ると蝶子怒りませんかね…」
 気がとがめて一応そう言ってみる。
「え、いーんじゃない? 僕が触っても蝶子ちゃんは気にしないよー」
けれど山崎先生は易々とそう答えるのだった。
「そうですかあ。あの、しつこいんですがやっぱり蝶子とは山崎先生が結婚すれば良かったと思うんですが…」
 理解度とか信頼感とか無垢な愛情とかおよそ夫婦関係に必要だと思われる、そんなものが二人の間には備わっている。
 俺がそう言いつのる間も山崎先生は手を休めない。
「んーそれは違くない? 蝶子ちゃんが僕に鷹揚なのは僕が空気みたいなものだからだろうし」
 ふわりと山崎先生は言うけれど、俺にはそれが正しいのか解らない。
 と。
「うーん、最近特に頻繁に不自然に連絡取ってる相手はいないかなあ」
「そうですか」
「あ、浮気もしてないみたいだよー」
 はははと山崎先生は笑うけれど、
「……そうですか……」
 それが喜ばしい事なのか嬉しい事なのかそれとも悲しい事なのか苦しい事なのか俺には解らなかった。
 つるつると画面を触ると山崎先生はスマホを耳に押し当てる。
「こんにちはー。うん、そう。蝶子ちゃんじゃなくて山崎です。はは、ごめんね。うん、そういいお天気だね。ところで天川くん」
 そこで俺は初めて、山崎先生が蝶子のスマホから電話をした相手が天川だった事を知る。そうか、天川か。あいつなら蝶子と幼馴染のようなものだし元カレだし、ていうかもしかして蝶子は天川のとこにいたりして。だから山崎先生も電話してみたのだろう。
 二人の話はまだ続いている。
「今日、蝶子ちゃんと会ってない? あ、そっかーならいいんだ。いや、蝶子ちゃん携帯忘れて出かけちゃってねー。とりあえず天川くんに架けてみたんだよ。遊んでるかと思って。うん、大丈夫。急用じゃないから。……うん、はい。解ったーじゃーねーまた遊ぼーねー」
 え。
 電話を終えた山崎先生に俺は問う。
「遊ぶって…天川と遊んでるんですか先生」
「うん、二人でも遊ぶし、蝶子ちゃんを入れて三人とかでも会うし。天川くんて面白いよねえ」
 そうか……教諭と生徒が遊ぶって一般人の俺からすると変な感じだけれど、でもまあ山崎先生は蝶子の親戚で、蝶子は天川と幼馴染で普通とは違った、親しい感覚でもあるのかな。
「でも、蝶子ちゃんがいるのは天川くんのところじゃないみたいだね。電話の様子から察すると、隠してるって雰囲気でも無い」
「ああ、そうなんですか」
 これもまた、俺には嬉しい事なのか悲しい事なのか解らない。いっそ、そうであれば全てがすんなりといく気もする。いや、俺より全然天川のほうが、蝶子とお似合いな気がするんだよね客観的に。
 もし蝶子が再び天川と付き合ったら。
 そうしたら追い出された俺は、おとんの所にでもいこうか。それもまた楽しいかもしれないな。ってこんな想像は、現実逃避だけれど。今俺がいるのはここなので。
「桜子ちゃんか薫くんが関ってないとしたら、天川くんが一番可能性高いと思ったんだけどなー」
「どこまでもほんとの誘拐って思ってないんですね、先生」
「うーん、だって営利目的の誘拐なんてこの時代のこの日本であるかなあ? だって戦後一度も成功してないんだよ? まあ成功したのは表に出てこないだけなのかもしれないけれど」
「……てか」
「ん?」
 山崎先生が俺を見ている。
「誰かが蝶子を助けてるんだとしたら、一番怪しいのは山崎先生じゃないですか」
「──ああ。成る程。そうかもねー」
「頭良いし、蝶子が好きだし蝶子を好きだし、何より二つ目のメッセージを持ってきたのは山崎先生だし、お金も山崎先生に渡せって言ってるし。三千万で二人で旅行でもするんだったりして」
 俺の言葉に、山崎先生はおかしそうに唇の両端を吊り上げる。
「仮にそれがもし真実だったとしても、君に関係なくない?」
「………えっ」
「だって君は、蝶子ちゃんの事あんまり心配なんかしてないんでしょ? だったら蝶子ちゃんが誰と何をしていようと関係無いでしょう」
 山崎先生のあまりに楽しげな口調に段々と腹が立ってくる。
「そうですよ。俺は、心配なんかこれっぽちもしていませんよ」
 嘘をついてもお見通しだろうし何故だかなんだか凶暴な気持ちになってきて、俺はそれを認める。
 どうして俺はこんなに腹を立てているのだろう。それは誰に腹を立てているのだろう。
「俺、喜んだんですよ。蝶子が誘拐されて。だってこれで蝶子が死ねば、蝶子の財産は俺のものじゃないですか。そうしたら父親のまだ残ってる借金も返せるんです。もう蝶子に虐げられる事も無いんです」
 そうして蝶子への気持ちに苦しむ事も無いんです。愛情と憎しみと可愛いと怖いが混じった、息が出来ないみたいな、真綿で首を絞められているみたいな、黒いみたいな白いみたいな、なんとも言えないこの気持ちに。
 笑いながらけれど山崎先生を睨みながら言った俺の視線を受け止めて、山崎先生は少し首を傾げる。
「困ったなあ」
「なにがです」
「だってそんな事聞いちゃったら、もし無事に蝶子ちゃんが帰ってきても僕、君の事どうにかしないといけないじゃない」
「………でーすーよーねー」
 一度ぶちまけてしまうと俺は冷静になり、口に出した事を早くも後悔した。何言ってるんだ俺。黙ってれば良いものを。その方が都合が良いから、心配するふりをするんじゃなかったのか。
「薫くんは知らないだろうけど、僕、結構薫くんの事気に入っていて、蝶子ちゃんとお似合いだと思っていたのにさー」
「すみません」
 謝る場面なのかよく解らなかったが、他に何を言って良いのか解らなかったのでとりあえずそう口にした。
 ───『すみません』。果たして俺は誰に謝ったのだろう。
「……まあ、だから、こんなヤツは蝶子には相応しくないですよ」
 俺は笑う。嗤う。それを山崎先生は静かに見ている。
「……あのさー。君を選んだのは蝶子ちゃんでしょ?」
 ゆっくりと、山崎先生は言った。静かな、感情のこもらない声で。
「婚約までしたんだよ。あの子は寂しがり屋だけど愚かじゃないよ。それは子供の頃から蝶子ちゃんを見てきた僕が知っているから」
「………」
「薫くんて、基本的に根本的に善良なんだね」
 ふわ、と山崎先生は笑った。
「黙ってれば良いのに。何もかも」
「……ですよねえ……」
「沈黙は金て言葉があるでしょ。雉も鳴かずば打たれまいとも。昔の人が言ってる事は概ね真実だよ」
 教師らしく説教をして、再び山崎先生は蝶子のスマホを触り始める。
「という事で、けれど現代に生きる僕たちは現代の物を利用しよう」
 山崎先生は今度はスマホで、何かを検索しているようだった。
「何探してんですか? 先生」
「探偵。警察には頼むなってメッセージには書かれていたけど、探偵の事については言及無いでしょ。僕たちがここであーだこーだ言ってるより、少しは建設的な手段かと思って。───わーたくさんあるんだねえ」
 検索で出てきた画面を、山崎先生は俺に見せる。
「どこがいい?」
「えっ俺ですか? 俺が決めるんですか?」
「だって薫くんの婚約者の事でしょう」
 山崎先生はにっこりと笑ったけれど、正直俺は戸惑いを隠せない。こういうネットですぐ出てくる探偵事務所なんて中身に大差は無いのかもしれないが、なんだか蝶子の命を託されたみたいな気持ちになったのだ。
 ていうか。
 結局、俺、蝶子に帰ってきて欲しいのか帰って来て欲しいのかどっちなんだろう……疲れる……。自分の気持ちを把握出来ていないってのは疲れる。混乱する。そもそも俺はずっと疲れて混乱しているような気もするが。それは蝶子と出会った時からずっと。
 しかしここで途方に暮れていても仕方が無いので。俺が選ばなければきっと山崎先生は許してくれないだろうから。
「じゃあここで……」
 そうして俺が指差したのは、スクロールして上から二番目に載っていた探偵事務所だった。
 画面に表示された事務所のサイトは、レイアウトも下品では無いし案内文を読んでみると、普段は主に浮気調査やペット探しなどを行っているこじんまりしたところのようだった。おかしな所では無いようなので、なんだか少し安心する。


 七月の終わり、空は麗らかに晴れていた。まだ朝に分類される時間のなか光は刺すように眩しい。俺はその強さに思わず目を細める。ベランダから見える庭の木々の緑はもう本当に濃く、それは緑を過ぎて黒いほどだった。
 こんな日はプールか海にでも行けば気持ちが良いだろうなーなどと考える。いや実際には俺はインドア派なのだが。そうだな図書館もいいかもしれない。思えば初めて蝶子に気に入られたきっかけも本だったような気がするが(蝶子はああ見えても、読書好きなのだった)。
 ところで俺がどうしてこんなに日当たりの良いベランダで炙られているかと言えば、蝶子の下着を干しているからである。うちの洗濯物は全て全自動で乾燥までやっているけれど、蝶子の下着は外国のなんとかかんとかという(名前を何度か聞いたが何度聞いても覚えられない)有名高級ブランドのもので、蝶子はそれだけは手洗い日干しでないと気が済まないらしい。
 という訳で、これは俺の仕事となっている。夏のよく晴れた日、恋人であり婚約者である美少女の豪邸でカノジョのパンツを手洗いしベランダに干す俺。甘酸っぱいのか切ないのか屈辱的なのかよく解らない。まあ屈辱なんて言葉は似合わないか。なんせ俺は金で売られたのだし。男娼みたいなものだろうか。いや、そんな事言ったら、ホコリを持って仕事してらっしゃる方に失礼だな。
 確かに蝶子が拘るのも解るほど、この下着は美しく作られている。触れると、溶けるような手触りがする。それはこうして干している時も洗っている時も、そして寝室で脱がせている時も。
 蝶子と暮らし始めてから少し経つ。蝶子はますます蝶子だった。ゆるぎないその姿勢はある意味尊敬に値する。俺はすぐぶれがちだから。
 洗濯物を干し終わり一息ついて俺が振り返った時だった。ふいに頬に何かが触れた。それは蝶子の唇だった。蝶子がここにいる事すら知らなかった俺は、びっくりして彼女を見つめる。へへへ、と蝶子は悪戯な顔をしていた。
「ちょっ。ビックリしたまじびっくりした」
 リビングからベランダに続く窓を開け放したままにしていたから、そこからこっそりと入ってきたのだろう。
「へへへ。背後に気をつけなさーい。いつ刺客が来るかもしんないんだから」
「刺客って誰だよていうかそんなもの差し向けられるなんて俺誰だよ」
「刺客なんて他ならない私でしょ」
「ああ、それはね、まさに」
 色んな意味でね。だからその俺の台詞は心からのものだったが、蝶子は良いように解釈したようでにわかに機嫌が良くなった。
「ちょっとね。私のパンツ干してる、薫の後ろ姿に哀愁があって可愛かったから、イタズラしてみたかったの」
 そう言うと、蝶子は俺の首に自分の華奢な腕を回す。ずっと空調の効いた部屋のなかにいたせいか、蝶子の腕はこの、夏が降り注ぐなかでも驚くほど冷たく白く柔らかく、だから反対に蝶子には俺の首はとても熱く感じているのだろうなと思った。
 不思議だ。
 俺は憎くみはじめてからのほうが蝶子を好きになった気がする、より。
 目の前にあるその白いうなじにキスしたい衝動と、目の前にあるその細い首を絞めたい衝動が同時に起きるのは何故だろう。
 しないけどね、そんなこと。


 俺が決めた探偵事務所との交渉は山崎先生がやってくれた。
 報酬に釣られたのかたまたま手が空いていたのか、程なくしてその事務所の責任者と名乗る者はやってきた。四十過ぎだろうか、小太りの福福しい、誠実そうなおじさんでとても人を騙すタイプには見えないので俺はやはり、ほっとする。いや、人は見かけではないけれど、それでもある程度の年齢になれば顔立ちに色んなものが滲むものだと思うから。色んなものって人間性だとか、その人の過ごしてきた時間とかさ。
「こんにちは、佐藤と申します」
 そう言って、佐藤さんは俺と山崎先生それぞれに名刺を差し出す。名刺には佐藤探偵事務所と書かれていた。
 この家には応接間も客間もあるけれど、俺たちはこのまま蝶子の部屋で佐藤さんと相談した。なんとなくその方が似つかわしい気がしたからだ。しかし見知らぬ男をこの部屋に入れたと知ったら、蝶子は激怒するだろうな。そんな事を思いついて、少しおかしくなる。
「それでは、今回のご依頼の件なんですが」
 顔に似合わず良い声をしていると、俺は佐藤さんの声を聴く。
「ああ、うん。電話で話した通りなんだけどー」
 まるで最近は良いお天気が続きますね、そんな自然な口調で山崎先生は言った。
「正直、こちらに来るまでは私は半信半疑というか、今回のご依頼が悪戯の可能性も高いと思っていたんですが、本当なんですね。誘拐されたというのは」
 佐藤さんが念を押す。まあそうだよね。普通はそう思うわな。
「うん依頼は本当。悪戯じゃないよ」
「然様で」 
「そうねえ、悪戯かあ。僕たちの悪戯で無いのは確かなんだけど、けど誘拐が、攫われた本人の悪戯の可能性はあるんだよねえ」
「そうですか。それにしてもまずは手前どもより警察に相談された方が良いのではないですか」
「うーん、それも電話で言った通りなんだけど、三千万払って騒ぎにもならず本人が帰ってくるならこっちはそれで良いからね。それに本人の悪戯だった場合、警察沙汰になると本人の将来に傷がつくから」
「将来………。将来がやってこない最悪の事態になるのを、私どもは一番恐れる訳なのですが」
 だよな。尤もだ。
「あー万が一そうなっても、あなたに責任を問うたりしないから大丈夫。でもそんな事にはならないと思うけど」
 自信ありげに山崎先生はのたまう。うーん、やっぱり山崎先生は何かを知っているのだろうか。
「だから、佐藤さん。あなたに頼みたいのは、現在の本人の安否確認と情報なんだけど。素人の僕たちがやるより良いと思うし、それにまず僕たちは犯人の命令でここから身動きとれないし」
「はい、それはこちらはプロですから。やりますよ」
「いいねえ、プロ意識。プロ意識持ってる人好きだよ」
 それはあれか。プレッシャーをかけているのか。意外に山崎先生が腹黒だという事を今回の騒動で知った気がする。
「じゃあ、よろしく」
 山崎先生はにっこり笑うと佐藤さんに手を差し出した。佐藤さんがそれを握り、二人は握手を交わす。
「ところで、こちらは」
 今まで二人の会話を見守っていたというか取り残されていたというか、の俺を見やって佐藤さんが訊ねる。
「ああ、こちらが蝶子ちゃんの婚約者の薫くん」
 山崎先生の説明に、ぺこりと頭を下げる俺。
「───ああ、なるほど」
 ───………。
 一瞬凝視されたような気がしたのは気のせいだろうか。気のせいなのかもしれない。俺は見知らぬ人の前に出ると緊張してしまうし。だって俺が訝った次の瞬間、佐藤さんはもう親しげで誠実な笑みを浮かべていたから。
 だからきっと、気のせいなんだろう。


 夏休み明け、久しぶりの登校を俺は本当に楽しみにしていた。心待ちにしていた。夏休みが終わる事を喜ぶ学生も珍しいだろうが、だって学校には少なくとも自分で所有出来る時間があるから。
 安堵する教室へ入るとほっとする。ここには蝶子がいない。だからもやもやとする感情も、無い。
「久しぶりー元気にしてたか?」
 天川のにへらとした笑い顔も、ああ何もかも懐かしい。
「……天川、お前焼けたな……」
 顔が更に精悍に見える。羨ましい。
「あー夏休みハワイでさあ。親父のゴルフに付き合わされちゃって」
 そうですかそうですか。
「でも薫も焼けてるじゃん。どこ? ハワイだったら連絡くれれば合流出来たのに。俺もまー薫はどーでもいーけど、蝶子に会いたかったのになあ」
「俺の日焼けは庭仕事と家事のせいだ」
 吐き捨てると俺は鞄を自分の机の上にどさりと置く。今まで家事は桜子さん(とお手伝いさん&業者)が担当していたそうだが、その一切合財を蝶子は俺に押しつけた。
 いや、一切合財という事も無いか。食事は桜子さんの担当だ。桜子さんのお料理は本当に美味しい。料理って作る人のそれ自身が出る気がする。ちなみに蝶子は料理が出来ない。料理も、出来ない。家事はしない。
「え、どこにも行ってないの? 海とかプールも?」
「海もプールも焼けるからイヤなんだと」
 一応俺は提案したのだが、即座に却下された。そして蝶子と言えば俺をからかうか俺で遊ぶか俺に絡みつくか読書をするか、でなければ飽く事無く桜子さんと遊んでいるのだった。
 美少女二人がいちゃいちゃしている姿を眺めるのは個人的にはちょっといい。ではなくて。そんな訳で俺の夏休みは無いも同然だった。
「ふーん」
 天川は小首を傾げる。
「じゃあ家でやりまくりかー。良かったじゃーん新婚。でも蝶子の卒業まで妊娠しないよーに気をつけろよー」
「新婚じゃねーし。ただの婚約だし。ていうかお前、坊ちゃんのくせに下品だな」
「ぼっちゃんだろうが無かろうが、考える事は一緒じゃん」
 そうか、ぼっちゃんというのは否定しないのか潔いね。
「まじ羨ましいってー」
 からからと天川は笑う。


 部屋に入ってきた桜子さんは相談をしている俺たちの姿を見て、少し驚いた顔をした。控えめに。桜子さんはいつも控えめだ。
「……昼食、もう一人前ご用意しますね……」
 彼女は二人分の昼食を携えていた。
「あ、ごめんね。桜子ちゃん。先に言っておけば良かったねえ」
 大して悪いとも思っていない口調で、山崎先生が謝る。この人のこういう所、受け取る人によっては楽ちんだろうし、受け取る人によっては腹立つだろう。
 そして蝶子はこれが楽ちんだったのだろう。
 けれど、おかしいな。俺はどうして、何かにつけ蝶子の事を思い出すんだろう。死んで欲しいその人の事を。
 その時だった。玄関のインターフォンが鳴ったのは。思わず俺たち四人の視線はインターフォンのモニターに集まる。ちなみに蝶子の部屋にもモニターがついているのだった。彼女は自分の気に入る客であれば招き入れるし(彼女は基本的に人間が好きだ。俺とは反対で)気に入らなければ黙殺する。
 モニターの中。そこにいるのは誰なのか。蝶子なのか犯人なのか。
「あれっ天川……」
 けれど、小さなモニターのなかでひらひらと手を振っているのは天川なのだった。それを見て、ひどく落胆したようなとても安心したような、不思議な気持ちを俺は味わう。
「……それでは昼食、合計五人分ご用意します……」
 桜子さんの声には滅多に現れない苛立ちがほんの微かに滲んでいるようだった。桜子さんは料理に拘りがある。なんだか申し訳無い……。
 でも五人前かあそうかあ。桜子さんはどこまでも蝶子が大事なんだね。
 たった今でも、蝶子に戻ってきて欲しいんだね。そんな風に人を想えるなんて素敵だと俺は思った。そんな風に素直に純粋に。


 部屋に入ってきた桜子さんは相談をしている俺たちの姿を見て、少し驚いた顔をした。控えめに。桜子さんはいつも控えめだ。
「……昼食、もう一人前ご用意しますね……」
 彼女は二人分の昼食を携えていた。
「あ、ごめんね。桜子ちゃん。先に言っておけば良かったねえ」
 大して悪いとも思っていない口調で、山崎先生が謝る。この人のこういう所、受け取る人によっては楽ちんだろうし、受け取る人によっては腹立つだろう。
 そして蝶子はこれが楽ちんだったのだろう。
 けれど、おかしいな。俺はどうして、何かにつけ蝶子の事を思い出すんだろう。死んで欲しいその人の事を。
 その時だった。玄関のインターフォンが鳴ったのは。思わず俺たち四人の視線はインターフォンのモニターに集まる。ちなみに蝶子の部屋にもモニターがついているのだった。彼女は自分の気に入る客であれば招き入れるし(彼女は基本的に人間が好きだ。俺とは反対で)気に入らなければ黙殺する。
 モニターの中。そこにいるのは誰なのか。蝶子なのか犯人なのか。
「あれっ天川……」
 けれど、小さなモニターのなかでひらひらと手を振っているのは天川なのだった。それを見て、ひどく落胆したようなとても安心したような、不思議な気持ちを俺は味わう。
「……それでは昼食、合計五人分ご用意します……」
 桜子さんの声には滅多に現れない苛立ちがほんの微かに滲んでいるようだった。桜子さんは料理に拘りがある。なんだか申し訳無い……。
 でも五人前かあそうかあ。桜子さんはどこまでも蝶子が大事なんだね。
 たった今でも、蝶子に戻ってきて欲しいんだね。そんな風に人を想えるなんて素敵だと俺は思った。そんな風に素直に純粋に。
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