第6話 行基
文字数 1,885文字
行基上人…。その名前は私も聞いてことがあったから、ちょっと息を飲んだ。
「はい。行基上人はただいま、大鳥で院をお造りだそうです。他にも池や橋など小さな智識をいくつもおやりだとか。かの者もあそこまで連れていけば、居場所が得られるでしょう。」
「しかし…」
と、お上人さんが言い淀んだのも無理はなかった。
うちらのおる河内の国には多くの在野のお坊さんがおるが、その中でももっとも。いや、日の本でもっとも名高いのが行基上人や。もとは大きなお寺で唐帰りの高僧のお弟子をされていたそうやが、40を過ぎて突然道で説法をはじめ、人を集めた。そして寺をつくったのを皮切りに、多くの橋を掛け、池を掘り、布施小屋を造ったという。今ではその名を知らぬ者はおらん。
うちのお上人さんよりだいぶ年重の50も半ば。今おられる大鳥あたりの生まれ、と聞いている。
多くの信徒を集めての派手な活動は、常に取締の対象になってきた。後にも先にも「小僧行基」と名指しで禁令も詔を出されたのは行基さまだけや。
それだけに信徒も過激で、作事を邪魔する者は刃物で脅し、布施をせぬ者の土地をむりやり奪ったという話も聞く。
しかし、その結束は固く、庶民ばかりが貴族たちまでもがひっそりと行基さまを支援しているという噂もあった。禁令を犯しているにも関わらず幽閉されることもなく、自由に活動しているのはそのためだ。行基さまの集団は今や600とも800とも聞いた。
「行基さまは過激なことをなさるからこそ、多くの信徒を集めておられるのです。
お上人さま、厳しいことを言うようですが、我々もこうしてはおられませんぞ。」
恵信どのが言ったのは、ここ数日で数人、行基さまのもとへ行った者がおるからだろう。
何事ものんびりおっとりした無著さまの集団よりも、勢いのある行基さまに若者は惹かれている。
お上人さまも状況は察しているのだろう。フウと深いため息をつき、
「それではあの者は、大鳥にお願いするといたしましょう。」
と言った。恵信どのはかしこまりました。と頭を垂れたが、ふと思いついたように顔をあげて、
「お上人さま、いかがでしょう。これをご縁に行基さまとお近づきになるというのは。」
と言った。
「お近づきに?」
「はい。行基さまのところは作事も多く常に人出不足。怪我をしておるとはいえ働き手をやるのでっすから、あちらも悪くは思いますまい。それを縁として、一度行基さまと、ともに智識するというのはどうでしょう。あの行儀さまのお御威光でございます。お上人さまの御名ももっと世に知れるかと。」
「名が…」
私には、暗がりの中でお上人さんも白い頬がちょっと緩んだように見た。
「はい。行基さまのところは作事も大掛かり。怪我するものが多いばかりが、禁令を知った親兄弟に反対されておる者も多いと聞きます。かたや我らは取締にも合わず、作事も小規模。お上人さまのお説法を聞けば、あちらを抜けてこちらに参る者もおりましょう。我々の力が増すことになります」
「なるほど」
噛み含めるにつぶやくと、お上人さんは頷いた。「それは道理や」
このお上人さんの返事を「案外俗物やなー」と思えるほど、私はまだ大人やなかった。この時は、ただ秘密の話にドキドキしとっただけや。後から思えばいろいろ思うこともあるけどな。
「と、なると、そのような話を通せる者が同行せねばならんのう。」
「はい。しかし僧形では人の目につきます。誰を使いに立てるべきか…」
そこまで聞いて、気がつけば薄暗がりに座るふたりの前に転げ出ていた。
「お上人さん!私ではどないやろ?」
「な、お前、古弥奈か!」
引目をもっと釣り上げて怒る恵信どのを尻目に、私はあっけに取られているお上人さんに食らいついた。
「私やったら弁も立つし、女やから人目にもつかん。ええ使いなると思うんやけど!」
目を白黒させるお上人さんから恵信どのに引き剥がされた。
「盗み聞きの上に売り込みとはほんまに肝の太い子や!」
「そや、肝の太さは私の取り柄や。」
思わず胸を張って私は言うた。「それくらいの者やないと、行基上人の懐に飛び込むような役目は務まらんと思うで?」
さすがの恵信どのも、むむ…と黙り込む。お上人さまを見ると笑っていた。我が意を得たりという顔やった。
「古弥奈よ。莎々目どのを呼んでくれるのか」
「オバアを?」
「お前を貸してもらえるか聞いてみよう。」
「ええんですか?」
「良いも悪いも、お前が売り込んだもだろう」
私が飛び跳ねるように飛び出し、夕餉の椀を持ったままのオバアの手を引いて戻ったのは言うまでもない。
「はい。行基上人はただいま、大鳥で院をお造りだそうです。他にも池や橋など小さな智識をいくつもおやりだとか。かの者もあそこまで連れていけば、居場所が得られるでしょう。」
「しかし…」
と、お上人さんが言い淀んだのも無理はなかった。
うちらのおる河内の国には多くの在野のお坊さんがおるが、その中でももっとも。いや、日の本でもっとも名高いのが行基上人や。もとは大きなお寺で唐帰りの高僧のお弟子をされていたそうやが、40を過ぎて突然道で説法をはじめ、人を集めた。そして寺をつくったのを皮切りに、多くの橋を掛け、池を掘り、布施小屋を造ったという。今ではその名を知らぬ者はおらん。
うちのお上人さんよりだいぶ年重の50も半ば。今おられる大鳥あたりの生まれ、と聞いている。
多くの信徒を集めての派手な活動は、常に取締の対象になってきた。後にも先にも「小僧行基」と名指しで禁令も詔を出されたのは行基さまだけや。
それだけに信徒も過激で、作事を邪魔する者は刃物で脅し、布施をせぬ者の土地をむりやり奪ったという話も聞く。
しかし、その結束は固く、庶民ばかりが貴族たちまでもがひっそりと行基さまを支援しているという噂もあった。禁令を犯しているにも関わらず幽閉されることもなく、自由に活動しているのはそのためだ。行基さまの集団は今や600とも800とも聞いた。
「行基さまは過激なことをなさるからこそ、多くの信徒を集めておられるのです。
お上人さま、厳しいことを言うようですが、我々もこうしてはおられませんぞ。」
恵信どのが言ったのは、ここ数日で数人、行基さまのもとへ行った者がおるからだろう。
何事ものんびりおっとりした無著さまの集団よりも、勢いのある行基さまに若者は惹かれている。
お上人さまも状況は察しているのだろう。フウと深いため息をつき、
「それではあの者は、大鳥にお願いするといたしましょう。」
と言った。恵信どのはかしこまりました。と頭を垂れたが、ふと思いついたように顔をあげて、
「お上人さま、いかがでしょう。これをご縁に行基さまとお近づきになるというのは。」
と言った。
「お近づきに?」
「はい。行基さまのところは作事も多く常に人出不足。怪我をしておるとはいえ働き手をやるのでっすから、あちらも悪くは思いますまい。それを縁として、一度行基さまと、ともに智識するというのはどうでしょう。あの行儀さまのお御威光でございます。お上人さまの御名ももっと世に知れるかと。」
「名が…」
私には、暗がりの中でお上人さんも白い頬がちょっと緩んだように見た。
「はい。行基さまのところは作事も大掛かり。怪我するものが多いばかりが、禁令を知った親兄弟に反対されておる者も多いと聞きます。かたや我らは取締にも合わず、作事も小規模。お上人さまのお説法を聞けば、あちらを抜けてこちらに参る者もおりましょう。我々の力が増すことになります」
「なるほど」
噛み含めるにつぶやくと、お上人さんは頷いた。「それは道理や」
このお上人さんの返事を「案外俗物やなー」と思えるほど、私はまだ大人やなかった。この時は、ただ秘密の話にドキドキしとっただけや。後から思えばいろいろ思うこともあるけどな。
「と、なると、そのような話を通せる者が同行せねばならんのう。」
「はい。しかし僧形では人の目につきます。誰を使いに立てるべきか…」
そこまで聞いて、気がつけば薄暗がりに座るふたりの前に転げ出ていた。
「お上人さん!私ではどないやろ?」
「な、お前、古弥奈か!」
引目をもっと釣り上げて怒る恵信どのを尻目に、私はあっけに取られているお上人さんに食らいついた。
「私やったら弁も立つし、女やから人目にもつかん。ええ使いなると思うんやけど!」
目を白黒させるお上人さんから恵信どのに引き剥がされた。
「盗み聞きの上に売り込みとはほんまに肝の太い子や!」
「そや、肝の太さは私の取り柄や。」
思わず胸を張って私は言うた。「それくらいの者やないと、行基上人の懐に飛び込むような役目は務まらんと思うで?」
さすがの恵信どのも、むむ…と黙り込む。お上人さまを見ると笑っていた。我が意を得たりという顔やった。
「古弥奈よ。莎々目どのを呼んでくれるのか」
「オバアを?」
「お前を貸してもらえるか聞いてみよう。」
「ええんですか?」
「良いも悪いも、お前が売り込んだもだろう」
私が飛び跳ねるように飛び出し、夕餉の椀を持ったままのオバアの手を引いて戻ったのは言うまでもない。