終章 『全てに救い』の小教理

文字数 12,391文字

 一週間後、休みの中で少年と話す。
「結局、あの戦いは何だったんだ?」
「ひどく、ありふれた世界の危機だったんじゃないかな」
「そうやって煙に巻くのは良くないぞ、少年」
「そうだね、ごめん」
「私は死ぬのだな?」
 少年は寂しそうに微笑んだ。
「良い、尋ねた私が悪かった」
 どうしても解けなかった。死の運命を受け入れた瞬間に『二重予定説』と他の教義がある程度整合性が取れた。
 自分は結局神に負けたのか? いや、それ以前に神に挑む資格すらなかったのだろう。皮肉なことに『全てに滅び』の理論が完成すると共に『全てに救い』もある程度体系化してしまった。
「だが、秘儀は厳密に継承されなければならない」
 この教えは危ういものだ。『全てに滅び』も伴った教えとして継承される為、誘惑も多いものだ。
「だが、よりにもよって第一に訪れる者が彼女だとはな。つくづく予想外のことを好まれる様子だ、神と言う方は」
「教えてあげたら善いじゃない。彼女にとっても学びになるよ。お父様の言葉の中にはそういった類もあるんだって言うことが彼女の為になるよ」
「嫌だね」
「ただで与えられたなら、ただで返すのも良いよ?」
「真理だな。あんたに免じて助言だけ与えるとするか」
「こんにちは」
 早速来た様子だ。面倒臭いので要件だけ伝えて帰って頂こうか? それとも少し会話をするべきか?
「欠けた部分を教えて貰いたいわ、子冬卿」
「詩編八十八篇だ」
「詩編? あそこの何処に?」
「量子力学から得た知見を元に鏡を使う様に。私から言えるのはこれだけだ」
「そこに『二重予定説』との整合性が存在するのかしら?」
「解釈は人それぞれだ」
「不可能と言う言葉は神の中にはないのね」
「だが、あなたは到達出来ないだろう」
「へえ、言うじゃない。凡庸以下を自称する子冬卿が私にも解けない命題があると考えるのかしら?」
「残念ながら。支配者には理解し難いものなのでね」
「根拠は?」
「ソロモンさん、私は敗北者だ。人生において勝利と言う名は私にとって無縁同然だった。勝利を掴みかけたことはあった。だが、それは傲慢だ。我々は何も知らない。宇宙の神秘も砂粒の神秘もだ。あなたは支配者である。それは確かだ。だが、それだけでは足りない。神の独り子の痛みを微かでも知っていれば、あなたがたも私も世界を変えようとしただろう。あなたがたと私にはそれがない。故にこの教理は理解し難い。ベールゼブブがあっさり手を引いたのはあなたがたにその教理を使いこなす動機がないからだ」
「世界を変革すれば素直に渡してくれるとでも言うの?」
「いや、逆だ。世界を変革する為に存在する教理なのだ。地球の生態系は最早壊滅的だ。環境汚染も深刻。現存文明を産み出した教会そのものが自身を変革しなければ世界はそのまま沈んでいくだろうな」
 生命の大量絶滅もそれ程遠い未来ではない。
「下手すれば教会から追放されかねない言い方ね」
「個人も組織も腐敗していくのは当然の道理だ。年を経ると人間はずる賢くなる。臆病さ故にな。あなたは真似しない方が善い」
「創造経済もその過程で生まれたのね」
「そうだ」
「無責任だわ」
「そうだ」
「世界に神の啓示を垂れ流しておいてあなたは世を去る。卑怯者ね」
「紛れもなくそうだ。私は世を去る」
 肉体上の衰えも目立ち始めた。読書が好きで運動しなかったつけが今更になって支払う羽目になったのだ。
 この問題を解決するには自分は生命を終えるか、ジ・オーダーを目指すしかないのだ。薬なくして生きられない肉体と成り果てた無残な末路だ。
「あなたの名を未だ聞いてなかったな。ソロモンさん」
「マリア・ソロモンよ」
「それは大層な名だ」
「子冬卿、あなたの名の由来も未だ聞いてなかったわ」
「ある児童作家のアナグラムさ。それが転じて冬の時代を生きる子としての意味をもたせた」
「シトー派に由来するんじゃないの?」
「残念。私がシトー派のことを知ったのはつい近年だ」
 本当に驚いたものだ。シトーの名が遥か昔からあった事実に。シトー修道会についても学びたかったが、もう然程時間もない。それ程遠くない未来に死が待ち受けているかも知れない。
「結局、同盟国の体制は崩れたか。いよいよ中華帝国が世界に食指を伸ばす日も近いな。食い漁られるぞ」
「御心配なく。同盟国が世界の工場になってから大英帝国から完全に覇権を奪うのに半世紀以上費やしたもの。後三十年程度の間、均衡状態は保たれるわ。共産国が余計な茶々を入れなければね」
「みすみす覇権を渡すつもりはないか。だが、問題は同盟国に資金がない。規制ばかり強まって大胆な研究すら出来てない」
「あの……話をずらしているでしょう?」
「まあ、『全てに救い』については凡そ言ったのでな。『全てに滅び』も伝えなくてはいけないと言うことだ」
 オーダーが環境汚染を通じて滅びをもたらそうとしていることと四つの原理について大まかに伝えた。
「ヒトラーの焼き直しね」
「その名を出されると困るな。ヒトラーは有名になり過ぎた。ある意味神話化されている節がある。それにそんなことを言ったら中華国だって偉大な指導者を掲げているだろう?」
「そうね、ウイグル自治区やチベット自治区の弾圧は許されないことだと思うわ。ある意味、現在のナチズムに一番近いかも知れないわね」
「だからこそ『全てに滅び』を知って頂いた方が良い。敵の思想を知ることはあなたがたにとって重要だからだ」
「あなたは中華国がオーダーを創設する可能性があると言及していたわね」
「恐らくは、技術的、軍事実験上一番創り易い国家だからな。いずれ制御出来なくなると判っていても創りたくなるのが人間の性なのだろう。結局のところ、私には人間の行動を読むことは出来なかったがね」
「第二のファシズムに気付いていたのに?」
「私は預言者ではない。啓示こそ頂くことこそあっても所詮は俗物なのだ。六つの教義の整合性を取ることは出来ても人間そのものを理解出来ない。人間は私が自死すると泣くし悲しむのだそうだ」
「何を当たり前なことを」
「そうだろうな。ごく当たり前のことなのだろう。しかし、それを理解するのが私には極めて困難だと判った。ああ、だからこそ少年はあなたを遣わした訳だ」
「どういうこと?」
「シトーの信条は信条でしかない。創造経済を発想するに至る、倫理学に寄与することが出来る、だが、理論に感情を吹き込むのは別の者でなくてはならない。世界を動かすのはどこまで行っても恩寵、信仰、善行なのだ。私にはそれが欠けている」
 この三つの義は一体なのだ。救いに通じる門であり、三位一体の様な役割を果たしている。
「つまり私の理解出来ないことをあなたは理解出来ると言うことだ」
「あなた、私を馬鹿にしているでしょう?」
「それこそ誤解だな。私はあなたを高く評価している。実に意外だった。システムの創り上げた者が正義故にシステムに疑問を挟むなどとは」
「あら、それこそ意外よ。あなたの方が却って機械を人間と平等視するのか思っていたのだけど?」
「そうだな。『全てに救い』に含まれるからな。機械はいずれ人間と全面戦争するだろう。その時に用意された両者の受け入れられる教理の一つとして残しておくだけだ」
 しかし、戦争と言う圧倒的大義の前には義は沈黙するかも知れないが。
 愚かさで人類は全てを滅却してしまうかも知れない。いずれにしても自分のそんなことに想いを馳せる資格すらないかも知れないが。
 結局、自分はパピの最期に関しても祈り、神に委ねることが出来なかった。祈り手として、信仰者として落第だろう。人がどれ程自分の為に何かしてくれようとも暗い憎悪の念から解き放たれることはなかった。神が自分から奪ったのだから世界を滅ぼすのは我々の裁量で決める。そう決断したのだから。
 二枚舌も良いところだ。
 この秘された計画は日の目を見てはいけない。今は未だ少なくとも。ゆっくり人類を蝕み、気が付いた時には手遅れにさせなくてはならない復讐だ。
 目の前にいる女性には関係がない話だ。
 彼女には闇の怨嗟などの世界にいるべきでない。
 その点は少年と似ている。闇の世界に身を置きながら信仰を見失わない。
「フィア・パーパはどうするのか?」
「さて、どうかしらね、好きにさせているわよ。自分の足で世界を見てきたらどうって提案はしておいたけど」
「成程、一番効果的処方だ。世界を滅ぼす者らにとって人の苦しみ、温かみと言うのは染みるものだ」
「それであなたはどうするの?」
「どうするこうするもあるまい。私に待つのは死のみだ」
「そして、世界に復讐するつもりかしら? ジ・オーダー?」
「何のことかな?」
「惚けなくなくて良いわよ、ミカエル様からあなたのことはある程度は聴いているから。あなたがシトーであり、ジ・オーダーだって言うこと位はね」
「ほう。であれば、これも必定か。少年はあなたを認めている。あなたは到達出来るかも知れないな」
「意外な言葉だわ。あなたの方がミカエル様に認められているのにね」
「それこそ見当違いだな。少年は全ての人の在り方を認めている。聖者も悪も関係ないのさ、あいつの説く救いの前には。誰もかれもをも救う。それが少年の信条だ。でなければ、天界の副王は務まらないと言うことだろう。我々と異なる位置にいる。教理や教義に束縛されない。唯、ひたすら神の愛を信じる愚直さ。我々より遥かに感情豊かであり、神以外の誰よりも苦難の意味を知っている。受難と言う意味を善く知り尽くしている。その言い方も正しくないがね」
「成程、だからあなたはシトーでジ・オーダーなのね」
 一を聞いて百を学ぶ者がいると聞くがこの少女が立派な手本だろう。シトーの死の意味を正確に捉えている。
 シトー自身に世界を変える力はない。使える手段は限られている。その一つが死だ。自死によって世界に僅かに訴え掛ける手段を残していく。
 だが、逆の意味もある。自死そのものが神への究極的な復讐であると言う意味だ。不条理な死程神の不在性を証明するものはない。信徒が自死すると言うのは棄教そのものを指すとも言える。
 尤も『全てに救い』に於いて逆説的に働くのも死なのだが。
 しかし、だからこそ彼女の望むことを理解出来ないでいる自分がいる。
 『全てに救い』とは現代では異端の領域にいる教義だ。どれ程、正統教義から解釈しても万物救済論を念頭に入れている以上、正統な教義になることは出来ない。
「環境破壊か」
「ほら、利害は一致しているじゃない」
 彼女には明確な目的がある。『全てに救い』の一面である万物の救済を環境保護の為に使おうとしているのかも知れない。
「環境を念頭において発言しているなら無駄足だぞ。『全てに救い』は世界に認められる普遍の教理でない。どれ程、理論を完成に近づけようが、神秘については公式化出来ない。教会は神の恩寵について黙さねばならない。現実世界との矛盾が発生してしまうからだ。『全てに救い』も同じだ。現実世界との乖離が視られる。仮にも自死を否定しない教義を持ち込むならあらゆる教会が沈黙を守る。神と人間世界の矛盾だな。万人を納得させられる解答を人間が提示出来る訳ない。その仕事は神の所業だ」
「子冬卿、あなたは時に確信的に嘘を吐くのね。あなたは環境破壊の方法を考案した。その対極は保護ではないしょう? 救いでしょう? あらゆるものが栄える世界、あらゆるものが精神的に豊かな世界。全ての人が平和を選択する世界。その為に創造経済を考え出したのでしょう? 細かい設定はさて置き創造経済はある種の飛躍的技術の発展を特質としている。あなたは考えた筈だわ。生態系のバランスが崩れるのは人間の増大、産業システムに問題があるからだと。限られた資源の中で環境を保護する考えなんてあなたの中にはない。環境が、資源が限られているなら領土を広大にしてしまうか、全ての生命の繁栄を保障する技術の開発をしてしまった方が早い。そう考えたのじゃないかしら?」
「それは少年から聞いた私の考えだな」
「ええ、少なくとも子冬卿が凡夫以下であろうとも、あなたの特質はそこだけではない。常軌を逸した考え方をする奇人。それがあなたよ。どこの世界に『全てに救い』、『全てに滅び』なんて両極端な信条を同時に持つ人間がいるのよ? そんな多くないと思うわよ」
「成程、これは盲点だったな」
「あなたって本当に逃げたいのね」
「私の立ち位置はイスカリオテか」
「ユダも又神の信仰者だったわよ」
「だが、地獄落ちだ。真偽はさて置き、あなたの計画とやらを訊きたいものだな」
「草の根運動だわ」
「随分気長な計画だ。ローマ帝国が教会化した様に数百年待つつもりかね?」
「それは嫌味かしら? 現在にはネットと言うものがあるのだけど。子冬卿、あなたも変わったと思うわ。歳月があなた暗い闇を落としたのね。その口調、ウォリアー卿に似ているけど、あなたのは皮肉めいて言っている様よ。人生を諦めていると言った方が良いかしら」
「倒れもするし、立ちもする。唯それだけだ」
「そう、じゃあ私はあなたが死ぬ前に一つだけ教えてあげるわ」
「何だね?」
「世界は滅びない」
「………………」
「どれ程、邪悪な勢力が現れようとも民の中から士師は現れるわ。歴史がそれを証明しているわ。神を侮るな、人を侮るな」
「そうか」
 確かにそうだろう。これ程の異常な人類の蛮行に物申す輩が増えているのはそう言う訳か。彼らは神に選ばれたのだな。
 腐っても人間。世界を変えていく動きがあると言うことか。
 彼女は自分の秘めた計画に気付いている。

 少年よ、どうやらあんたは私に復讐はさせたくない様子だな。

 思わずそう口走りそうになった。
 だが、だからと言ってどうする訳でもない。自死の運命を回避させようとするなら。
「私の運命はジ・オーダーにしか残されていない」
「ああ! もう! 何で? 何でそう二択しか選べない訳! 世界には可能性があると説いた子冬卿が自分の可能性には二択しか残さないのは何で?」
「単純な話だ。自らの運命を諦めたのだ」
「ほんっとうに自分勝手も良いところだわ!」
 そうか。彼女には解らないのか。貧者がどれ程生きたところで幸いなどない。夢を見られる者は極一握りなのだ。彼女は世界を動かす側であって貧しき民草ではない。貧しくても神と共にあれる者は幸いだ。だが、それすら実感出来なくなると虚無に屈する。
諦める者には諦める者なりの理由が存在する。自死を選ぶ者には選ぶ者なりの理由が存在する。それは言い様のないものなのだ。生者には解らない死者の呻きだ。ある者は甘えだと言うかも知れない。ある者はおこがましいと言うかも知れない。それらは素晴らしい位に的を射ていない。高みにある者が低きを見下しただけの感想ではないか。
 故にこの答えは必定だ。
「ソロモンさん、お引き取り願おう。あなたの様に高尚な者はそのままで良い」
「何それ?」
 途端、彼女の表情は哀しそうなものになった。彼女は理解したのだ。自分の言いたいことを。マリア・ソロモンはシトーの名を冠するには値せずと言う見解を。
「それでも、私は諦める訳にはいかないの。私には『家族』がいるの」
「私の守りたい『家族』の多くは世を去った。私は何も持たない。何も持ち得ない。一角の者ですらない。永遠の敗北者。あなたと対極にいるものだ」
「でも、未だあなたにも良心は残されている。私に助言を与えたのが良い例だわ」
「少年には世話になったからな。唯、ほんの僅かなお返しだ」
「あなたはとても寂しい人ね、子冬卿。世界の未来を望んでいながら肝心の自分の未来は閉ざしてしまっている」
「少年みたいなことを言うのだな」
「ええ、不肖でもあの方の弟子よ。私の人生に大きな影響を与えた方だわ。だからこそあなたが許せないのよ」
「それは又どう言う意味で?」
「あなたは自死を主張する。死の正統性を主張する。それ自体は結構よ。自死を選んだ人にも理由があって生を手放すのだから。でも、あなたは中途半端。心の病に侵されていて苦しいのは感じるわ。それはきっと私みたいな人間には想像し難い陰惨な人生を送り続けたのでしょうね。でもね、あなたが死ぬときっとミカエル様は泣いてしまう。声には出さないかも知れない。涙を堪えるかも知れない。でも、深く悲しむことだけは私にも判る」
「私は少年に甘えているのだろうな。少年は慈悲深い聖母の様でもある」
「ええ、だから私は何としても師父が到達した高みを目指したい。世界を変える以前に一人の人として」
「助言は与えた筈だが?」
「あなたと言う人を見て少し解ったことがあるわ。『神のパラドックス』って言うのよね? 一見、完全性を再現している理論でも一ヶ所致命的な問題があって全ての論理を崩す。それで大体合っているのかしら?」
「ああ、おおよそ」
「でも、それは人間的な見方よね?」
「何が言いたい?」
「あなたは恐らく気付いている筈よ、子冬卿。『神のパラドックス』なんて本当は存在しないことを。それは人間側の理屈だわ。一見無秩序な世界でも、一見反駁し合う教義でも、ある法則で解釈を進めていけば整合性が取れる。そうじゃないかしら?」
「人生に無駄なものなどなかったと言うことだ。私は無力だ、無能だ。だが、全てが学びだった。明日には忘れる記憶も知識と知恵の聖典だった。それこそが」
「世界の可能性そのものである、よね」
「皮肉にもな」
 無駄な読書もしてきたと思っていた。
 だが、『全てに救い』に到達する為に用意されたものだった。
 闇を知ってこそ光の価値に気付くものだ。戦火の意味を知らない平和に意味などない様に。

 受難こそ栄光。艱難こそ救済。

 血を流すことを知っている者達こそ平和を語るに相応しい。そう言った意味では先人達は偉大なのだ。戦争を知ることと体験することは異質なものだ。信条も同じく、暗きを知り、輝きの意味を知るのだ。だが、どれ程偉大な者であろうと光の神秘を究めることは不可能だ。
「『神のパラドックス』だ」
「まさか」
「まさかだ。一つの疑問が氷解すると次なる氷山が現れる。我々は氷解した甘露水を糧に次の甘露水を求めているに過ぎない」
 ある程度体系化しただけで善しとしたのはパピの死が起因している。これだけ進んだなら将来理論を完成させる者が現れてもおかしくはない。
 力衰え、骨は痩せ細り、肉体的な限界も悟ったことも起因している。

 ああ、満足に歩くことすら出来なくてもパピは生き抜こうとしたのだな。

 自分の自死は選択の一つにしか過ぎない。もし、『全てに救い』を真に理解出来たなら残酷な運命すら生き抜こうとするだろう。神がイスラエルに「生きよ」と励ました様に。受難あってこそ人の本当の尊厳は顕現するのだ。生きるとは何と苦しいことか。
 だが、その苦しみの中にしか人類の栄光がないとすれば、今の人類の繁栄は偽りそのものだ。教会が世界を支配するのではなく、人々と、全生命と歩むことが真の栄光とすれば。それは恐らく艱難の道そのものだろう。
 彼女は自分にはなかった覚悟がある。諦めない意志がある。だとすれば、導くのは自分ではない。神ご自身が彼女を導き給う。 
「或いは、あなたなら到達するのかも知れない。『使徒』マリア・ソロモン」
「随分、上から目線ね」
「生憎、気質は少年の兄似なのでね」
「傲慢ね」
「それはもう」
 だが、無理もないかも知れない。後少しで六つの教理の整合性を調えられるところまで来ていたのだから。内心、心臓が悪くなるのも感じる程に動悸が激しくなるものだ。
 成程、日頃から物覚えが悪く、うだつの上がらない社会の下っ端が何故この整合性に辿り着いたのか自明の理だった。要するに自分は生活の大部分を教理に割いた故にだ。教会の一般常識などろくに知らない。それどころか社会の一般常識すら知らない。求めるのは異端の万物救済論について正統教義を使って解釈しようとすることばかりだ。
「私は祈りの力を侮っていたのかも知れないな」
「何の話よ?」
「昔の話だ。未だ肉体が健全だった頃、祈った内容が時々脳裏を過ぎる。神に最も近くなりたいと言う願いが」
 正に今の状態ではないか。富もなく、名声もなく、未来もない。肉体は衰え、薬に依存している。それでも考えることは自由だ。自分は自由を謳歌している。肉体的な自由ではない。精神的な自由ではない。神を想う自由が許されている。それさえ奪られるなら自死も選ぼう。
「じゃあ、叶えたわね。子冬卿は」
「ああ、叶えた」
 本当はパピが亡くなる前に手に入れたかった整合性だが、世の人々は信じないだろう。名もなき凡人以下が六つの教理をろくに原語を調べにせずとも整合性をほぼ確立しつつあったなど。
 一種の都市伝説みたいものだ。ある種の狂信性すらある。
 確かにパラドックス問題は残っているが。その神秘は開門されているが、万華鏡を覗き込む様な感覚ですらある。
 だが、時代はそれを認める程、寛容な世ではない。ペラギウスの教理が見直されるまで旧教会は数百年以上要した。『全てに救い』はもっとかかるものだ。
 いずれにしろ、今の時代にそぐわないのは事実だ。
「本当に助言だけなのね。真の神秘は啓示そのものだってことかしら?」
「良心と啓示によってのみ聖典は解釈される。そして聖典を解釈するのは聖典そのものである」
「手厳しいわね」
「いや、自由に求めるなら案外そうでもない」
「そうなの?」
 彼女は眼を瞬かせている。意外な事実だと感じている様子だ。
「この手の問題は原語解釈と歴史の積み重ねによる困難さだ。歴史を学ぶのは苦労する。本に換算しても数千冊は下らないだろうしな。礼拝で仮に学んだとしても年換算で凡そ五十二と言ったところか。十年でようやく五百に超えるか位だ」
 手っとり早くやるのは本を読みながら並行して礼拝に参加することだが。
「権威に囚われなければ、もっと自由に研究出来ると言う訳ね」
「流石に理解が速い。私は遅読だが、あなたなら一日十冊程度読めるだろう?」
「否定はしないわ。でも、少し腑に落ちないわ」
「何が?」
「どうにも話が上手い具合にはぐらかされた感じがするのよ」
「ふむ」
 確かに核心は言っていない。学びの助言を与えただけで神を知ると言うことについては言及していない。だが、その答えは。
「先程話した筈だが」
「人生に無駄なものはなかった、ね」
「後悔はするかも知れないがな」
 
 人生は全て学びであった。

 苦痛でもあったが、それも一興だったのかも知れない。受難なき生に意味などない。人間を人間たらしめるのは成功でも富でもない。受難と言う当たり前のことこそ人間を形作るのだ。勝利者も敗北者も何かしかの失敗を犯しているのものだ。それが後の富に繋がるのではなくて躓きそのものが人間を作ってくれる。
 自分の人生を振り返ってみると失敗だらけだ。成功した試しなどなかったのだろう。だからパピはいつも自分を慰めてくれたのか。それで自分は就職してパピを放ったままにしてあの子を死なせてしまった訳だ。
 下種にも程がある。パピの方が一生懸命に生きた。自分は何をやっていた。『全てに救い』と『全てに滅び』の探求か。愛がなければあらゆる神秘に通じていようとも無に等しい。『全てに救い』を知解してもそこに愛がなければ唯の塵だ。
「まあ、良いわ。目にものを見せてやるわ。いずれ私は『全てに救い』を体系化して見せるわ」
「まあ、無理しない様に」
 彼女は踵を返して去って行った。
「残酷なことをするね。これから答え合わせなのに」
 少年に言葉を呈する。
「おいおい、未だ不完全な論理なのだぞ」
「そこに面白しさを見出さないのが子冬の心情なんだよねえ」
「意味の判らないことを言う奴だな。あんたは本当に不可思議だよ」
「で、何から始めるの?」
「義について」
「三つの義の正統性についてかい」
「恩寵はコロサイの信徒への手紙を典拠に出来る。ルターの語る信仰義認は四福音書とパウロの手紙を中心に形成出来る。ペラギウスが言っていた行いによる義もヤコブの手紙から典拠を認めることが出来る」
「それで、『自由意志』の典拠は?」
「使徒書簡と創世記を典拠に出来る」
「うん、それで? 『奴隷意志』との調和性は見い出せるのかい?」
「人間には選択の自由がある。基本善悪を選ぶだけの二択になるが。自由意志は神が被造物を通して善を行う。人間は罪を選べば悪を選択する。『奴隷意志』はそこで有用される。人間は神なくして悪しか行い得ることが出来ない。但し、神は悪を善の為に有用されると言う条件付き、でだ」
「うん、それだと『二重予定説』に矛盾が生じてしまうね。そこは?」
「詩編八十八篇を応用する。鏡だ。神と人間のな。人間には選択の自由は許されている。他方で神は世界の初めで全てを決めている。天国と地獄に行く人間の決定は済んでいる。使徒書簡からも明らかな通りにな。他方、自由性と偶発性は神の意志により決まっている」
「それだと矛盾だ。お父様は世界の全てを決しているのにそこに人の自由もありもしないね。この問題は?」
「鏡の問題だと言っただろう。たとえ、決定を七秒前に決めていようとも『自由意志』は神が人類に干渉するのを善しとしている。他方で『二重予定説』の場合には一つの逆説的な論理性が働く。『二重予定説』を信じる者は自分達が選ばれているのを証明する為に一所懸命に神に奉仕する。これも又神の干渉だ。働きかけと言って良いだろう」
「結果論だね」
「そう、結果論だ。神の決めた結末と人間の選択した自由の未来は一致する。まあ、言っていて苦しい部分なのは重々承知だ。ここら辺は論理が破綻し易い。詩編八十八篇の鏡と言うのも拡大解釈なのは否めないしな」
「まあ、そこは置いておこうかな、今の所、君は人の救いについてしか説いてないけれど?」
「そこは『万人祭司説』を応用する。神の独り子が我々人類と神の仲保者になった。当然、我々も祭司として祈らなければならない。そこに人間以外の万物を執りなす人々が居てくれれば良い。まあ、何もここまで回りくどく説明しなくともコロサイの信徒への手紙には明確に描かれているがな」
「未だ肝心の万物救済論について説明が欠けているね? 黙示録に描かれている通り、悪魔や偽預言者、獣、背教者は裁かれる定めにあるよね?」
「聖伝から解釈だ。ルターは『九十五ヶ条の議題』でこうも言っている。『キリスト者はその首であるキリストに、罪、死、地獄を通して、従うことに励むように、勧められねばならない』とな。拡大解釈を許せば地獄であろうと神が居られるならそこは楽園だ。しもべは主に従うものだ。ならば、地獄に落ちた者達に救いを宣教するのも道だと言うことだ。終わりの日まで背教者達に救いの手を差し伸べるのが宣教と言うものだ。言うは易しだがな」
「自死する君は果たして差し伸べられる側なのかな? それとも差し伸べる側なのかな?」
「そこまでは判らんよ。常套で行けば地獄落ちだが、生憎聖典には自殺を地獄落ちと決める典拠はない。それは中世に自殺者が多かったから旧教会が十戒の一部を拡大解釈して自殺を禁じた話だ。聖典には『生きよ』と励ます文章は見られるが」
「でも、悪魔を救いに至らせるまでには至らないね」
「そこだよ、そこ。あんたはどうやってこの記述を解いた? 『Ὁ  θεὸς  ἀγάπη  ἐστίν』『ホ・テオス・アガペー・エスティン』、つまり『神は愛である』、もっと言い換えれば完全な愛だ。完全な愛が悪魔を救わないとは考え難い。オリゲネスや内村鑑三が至った神の視点は極単純だ。神は慈悲深く愛に満ちている。しかも完全な愛だ。ならば、至極当然『万物救済』も神の中では成立している筈なんだ。だが、絶対的矛盾として聖典が立ちはだかる。その方法が解けない。聖典は永遠の罰を与えている。私が辛うじて至ったのは煉獄の応用だ。悪魔達が神聖な炎で焼かれるのは罰でありながら浄めの儀式でもある、喜びの炎である。そう解釈するしかなかった」
「子冬、言っておくけど、この命題はね」
「解っている。時間も探求も何もかも足りていない。人類が二千年掛けても解けない命題を私の代で解けるなどと言う都合の良いものはない」
「一応体系化には漕ぎ着けたんだね。大したものだよ」
 でもね、と付け加えて少年は語り掛ける。
「そこまで探求したのに何故自死を選ぶのかなあ」
「それは言っても詮なきことだろ。仕方ない。金の問題もある。肉体も衰えた。神の奇跡を信じるのには死を見過ぎた。私の中には何の希望も残っておらんよ。唯……」
 少年を見遣って語る。
「『全てに救い』の体系化には間に合った。今後、更なる体系化で厳密に継承されていくことだろう。私の道は第一歩を踏み出したにしか過ぎない。後は少しでも多くの人々に目を通して貰えれば良いさ。何も持たない者が与えられた啓示を広められるなら越したことはない」
「でも、もっとやりたいことがあったんでしょ?」
「ああ、あった。だけどな、私は我がまま過ぎたんだ。何もかも望み過ぎたんだ。本当は恵まれていたんだ。パピが傍にいてくれた。多くの人々が私を支えてくれた。本当に身勝手な自死を選ぶが、これも道化の結末だ」
「僕も最期までいるよ」
「すまんな。本当にすまん。あんたには甘えっぱなしだな」
とても美しい夜空だ。星々は光輝いている。まるで世界に生命が満ちている様だ。
「ジ・オーダーに破壊されなければ良いが」
「うん?」
「いや、何でもない」
 願わくば、家族よ、兄弟姉妹達よ、友らよ、この不甲斐ない道化をなるべく悲しまないで見送ってくれ。
「本当に……世界は美しいな」
 この町に来て最高の景色だと感じる。澄んで鮮やかな光景。この神秘の前に人は沈黙するしかない。美しい、ただひたすらに美しい。

 この星空の様に世界はいつか変わるだろうか? 『全ての平和』が訪れる日は来るのだろうか?
 未来は神と人の中にこそ存在する。倒れもすれば進みもする。

 だが、いつの日か。

             ―了―
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登場人物紹介

語り手……肉体も衰え、心も荒んだ状態の語り手。『全てに救い』と『全てに滅び』の狭間を彷徨っている。

少年……『全てに救い』の信条を持つ者。語り手に助言する。(アイコンはあくまで参考用イメージ像です。読者様のお好みの姿で物語をお楽しみ下さいませ)

ソロモン……『使徒』の一人にしてシステムの構築者。(アイコンはあくまで参考用イメージ像です。読者様のお好みの姿で物語をお楽しみ下さいませ)

マルティン・ルーサー・ウォリアー……『使徒』の古参の一人。(アイコンはあくまで参考用イメージ像です。読者様のお好みの姿で物語をお楽しみ下さいませ)

ジョシュア・エイブラハム・ノートン……最古参の『使徒』の一人。(アイコンはあくまで参考用イメージ像です。読者様のお好みの姿で物語をお楽しみ下さいませ)

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