第19話 梅川の苛立ち

文字数 2,233文字

 社史編纂室長になって三回目の夏を迎えた。異動してちょうど三年になる。
 その間、新任幹部社員研修での講演、年賀式の社長原稿のチェックなど、社史編纂室長としてのノルマを着実にこなしてきた。徐々にではあるが高倉の歴史について自分なりの見解や主張が築けつつあると思う。
 今年になって、TECGを取り巻く経営環境が大きく変化した。
 この三年間、輸出企業にとっては致命傷とも言える深刻な円高を脱し、グローバル市場で戦う環境が整いつつあった。

 過去多くの日本企業は失われた十年で負った傷を癒す途上で、再び円高の試練を受け、グローバル市場での競争力を大きく削がれ、中国を始めとした東アジア各国の躍進に完全に後れを取る形となった。
 特に電機業界の落ち込みは激しく、多くの企業が一年おきに赤字を計上する状態だった。
 TECGも例外ではなく、生き残りは有永率いる国内営業に託すのみだった。

 今、政局が安定し円高を脱し、ようやくグローバルに飛躍するための環境は整った。今こそ攻めの経営に転換するときだと、高階の号令の下、経営陣は一丸となって従業員を鼓舞した。
 あの有永でさえ、陣頭指揮をとって東アジア市場の攻略に手を上げた。八十年代の日本企業のような大攻勢が始まることを、経営陣は切望し社内を鼓舞したのだ。
 ところが、肝心の日本人社員の意気が上がらない。十五年ぶりに若手社員の海外トレーニー制度を設けたにも関わらず、定員五名に対して手を上げた社員は三名しかいなかった。
 ほとんどの日本人社員は、国内組織のポジション争奪戦に目を向け、海外を切り従える意欲を失っていた。

「まったくどうなってるんだ、今の若手は」
 入社三年目で渡米して以来、二五年のキャリアの大半を海外で過ごした梅川に、今の社員のメンタルは受け入れがたいようだ。
「若手だけじゃありません、ミドル層だって考え方は同じです」
 雑談しようと梅川の部屋に呼ばれた私は、いきなり愚痴をぶつけられ、思わず反論した。
「いったい日本人はどうなってしまったんだ」
 聡明な梅川には珍しく苛立っている。
「日本人が変わったわけではないと思います」
「どういうことだ」
 ことごとく反論されて、梅川は言葉に怒気を含んでいた。
 いつも冷静な梅川がこれだけ怒りを含むのは珍しい。
 それだけ今のビジネス環境を待っていたのだろうが、意外なほどの人間臭さに、私は少し面白くなった。
当社(うち)で働く意味が変わったんでしょうね」
「もう少し分かりやすく話してくれないか」
「九十年代以降、転職市場は大きく変わっています。外資系がどんどん採用枠を広げて市場が大きくなっています。一方邦人企業は売りだった終身雇用はうやむやの内にとりやめて、固定的にリストラ枠を設けて毎年しっかり実施している。今無事定年を迎える社員は当社だって珍しいですよ」
「それは止むを得ないだろう。大企業だって簡単に倒産する時代だ。社員だって内部競争に勝ちぬく気概は必用だ」
「それが論理矛盾を起こしてるんです。内部競争に打ち勝ったご褒美が外資系に比べるとあまり魅力的じゃない。気概を持った社員は進んで外資に流れていきます」
「それは仕方ない。外資のように毎年四割の社員を入れ替えるなんてやったら、すぐに関係官庁の指導が入る。せいぜい八パーセント程度の入れ替えじゃあ、報酬差はたかが知れてる」
「そう、仕方ないんです。だから私のようなポジションも許されるし、残った社員も勝ち抜く意思のない者が多くなる」
「何か長澤君みたいだな」
「この前、長澤と同じ話をしました。話してみて分かりました。長澤も今の梅川さんと同じで、気概を持って勝負して来たタイプだから、今の状況は受け入れがたい様子で、文句ばかり言ってました」
「そういうものか」
「付け加えると、毎年入って来る新人も同じです。海外志向のある人間は邦人企業には入らない。特に当社なんかは典型的な邦人企業だから期待しても無理ですね」
「じゃあどうすればいいと思う」
「日本人に期待するのは、やめればいいじゃないですか。私もお世話になった身でこんなことを言うのも変ですが、海外トレーニー制度なんて社員のキャリアニーズから大きく外れた制度です。即刻止めて、逆に海外のグループ企業社員を日本に呼んで働かせた方が、高倉イズムを体現した社員が増えるし、高階社長の目的に沿うと思いますよ」
「そうなると十年もすれば、国内営業以外の主要ポジションは、全て外国人になってしまうぞ」
「それでもいいじゃないですか。別に高倉イズムを継承する者が、日本人じゃないといけないなんてことはないし、その影響で国内に外国人が増えたら、日本人もその状況に対応できる社員しか仕事ができなくなる。これをドラスティックにやったら、日本人でも女性はこの波に乗って大きく飛躍するかもしれませんよ」
 私の思い切った発言に、梅川の先ほどまでの怒りはすっかり消えて、いつもの少しいたずらっ子のような表情が返って来た。
「やれやれ、君の言う通りにしたら、当社の幹部は外国人と女性ばかりになるかもしれないな」
 そんな風に非難めいていいながら、楽しそうな表情になった。
「ところで、君はいつからそんな思想を持つようになったんだ?」
「そうですねぇ……毎月出している高倉の歴史コーナーのコメントが外国人と女性ばかりなので、なぜだろうと考え始めたのがきっかけですかねぇ」
 私はここでの雑談が、後でとんでもない波紋を引き起こすとは夢にも思っていなかった。
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登場人物紹介

星野 慎一 (ほしのしんいち)


 1977年9月生まれで出身は山口県。身長は176センチで異動してからお腹が気になる。

 本編の主人公。子育てのために35才で定年後のお疲れ様ポジションであった、大企業「TECG」の社史編纂室長に就任する。


 34才で4才年上の研究員小宮理沙と結婚する。当時理沙には6才になる連れ子の理央がいた。結婚した翌年、理沙との間に沙穂が生まれる。このときが理沙との結婚生活で一番楽しいときだった。

 沙穂が生まれて半年経った時、電車の中の事故で理沙を失う。

 理沙を失ったショックで、一時的に全てに無気力状態になったが、理沙の母美穂子の叱咤と、理央の立ち直る姿を見て、二人の子供のために生きると誓って立ち直る。


 入社して2年目にグローバルリーダー育成プログラムで、TECGNAに出向し四年間をニュージャジーで過ごす。6年目の29才のときに、国内の外資系メーカーへの営業強化を意図して国内営業に復職する。

 復職後は国内営業本部長の有永の横槍を交わしながら大きな実績を上げ、辣腕営業マンとして期待されながらも、子育てを優先するために社史編纂室へ異動し、それまでのキャリアを捨てる。


 この異動を、子育てのために時間的制約を課された会社の配慮と感謝したが、実は国際派の秘書室長梅川の戦略の一つで、一族経営の中でガチガチの国内企業だったTECGを、グローバル化した新しい企業に移行する上で生じる問題解決の切り札と期待されていた。


 秘書室の女性たちに加えて、営業部から才媛長池遥香が部下として加わり、美女に囲まれた職場環境となるが、本人はあまりモテた経験がないので、振り回されがち。

 

星野 理沙 (ほしの りさ) (旧姓 小宮)


 1973年4月生まれで出身は東京都。身長は162センチ。兄と姉がいる。

 吉祥寺の女子高から日本の大学に進んだが、二年生のときにアメリカの大学に編入する。卒業後ニューヨークで広告・宣伝の会社に入社する。

 30才のときに日本企業からニューヨークに駐在していた男と恋に落ち妊娠するが、男は日本に妻子を残しており結婚できないため、別れて出産のために日本に帰国する。

 実家で理央を出産後、母の美穂子に助けられながら、シングルマザーとして日本の広告会社で働く。

 36才のときにイベントの企画で慎一と知り合い、つき合い始める。何度かデートを重ねた後で、慎一からプロポーズされる。4才年上なことと、娘の理央のことがあって悩んだが、押し切られる形で結婚する。

 結婚後慎一との間に沙穂を儲けるが、出産から半年後に不幸な事故で命を落とす。

星野 理央 (ほしの りお)


 2003年4月生まれで出身は東京都。17才のときの身長は171センチ。

 母理沙の実家で父の顔を知らずに7才まで過ごす。

 7才のときに理沙が慎一と結婚して父ができたが、友達のような感覚で接する。

 理沙が事故で亡くなってから、徐々に慎一との間の距離が縮まり、親子として絆を深めてゆく。

 小学校のときに母と同じミニバスのチームに入部し、以後高校までバスケットに熱中する。

 勉強はあまり得意ではないが、小学生の頃から鍛えている英語の成績はいい。

星野 沙穂 (ホシノ サホ)


 2011年9月生まれで、出身は東京都。9才のときの身長は136センチ。

 慎一と理沙の間の実子で、生後7カ月で母を亡くす。

 母の顔を知らずに育つが父と姉の愛情に包まれて、素直で甘えん坊な性格に成る。

 姉の理沙と違ってよくしゃべる。

長池 遥香 (ながいけ はるか)


 1988年10月生まれで出身は新潟県。身長は168センチ。

 東京の国立大学を卒業後、TECGに入社し営業部に所属する。

 配属後の面接で上司の長澤から、優秀だが熱が足りないと、関西支店に送られるが2年目にはトップセールスを記録し、3年目に本社に引き戻される。

 異動後もトップクラスの成績を上げ、次期エースとして期待がかかるが、本社に戻って4年目に突如社史編纂室の公募に手をあげ異動とする。

 この異動は、将来を見据えた壮大なキャリアプランを胸に秘めたものであった。

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