第36話 九年前の言葉

文字数 2,869文字

 猛烈な眠気が襲ってくる中で、道に迷って途方に暮れる自分の姿が、何度も何度も意識の中で繰り返される。やがて前方に強い光を感じた。
「お父さん、こんなところで寝ないでよ。だらしないなぁ」
 誰かが自分を起こしてる。目を開けると理央が呆れたように立っていた。
「あっと、起こしちゃったか?」
「何言ってるのよ。もう朝だよ。飲んだくれてお風呂にも入らず、着替えもせずにリビングで寝るなんて最低!」
 だんだん意識が明確になる。カーテンが開かれて窓から朝日が差し込んでいた。理央はもう制服に着替えている。時計の短針は六と七の間を、長針は六を差している。あのまま眠ってしまったらしい。食卓ではテレビを見ながら沙穂がパンを食べている。

 昨日はフェリックスに説明した後で、長澤と二人で飲みに出かけた。
 長澤の話ではフェリックスの社長就任は、ずいぶん本部内に動揺を与えているらしい。
 昨年は売り上げに続いて、収益面でも海外と国内の比率は逆転した。こと売り上げに関しては、国内営業はTECGの総売り上げの三五パーセントを切った。
 アジア、アフリカに対するレガシーテクノロジーの再販が大きな収益をあげ、米国の売り上げの加速度的な伸長が目立つ。
 本部長の有永は、これらの逆風的な状況で意気が上がらないところに、今回の人事が完全に止めを刺した形となり、まったく生気のない顔で一日中虚ろに過ごしているそうだ。
 長澤の本部長への道が近づいていると感じ、今後の抱負を訊くと、意外な答えが返って来た。シンガポールの販社への出向を希望しているのだ。
 誰もが激しい流れに飲まれる中で、自分を冷静に見つめて決して楽をせず、今歩まねばならない道を見失わない姿勢に、ビジネスマンとして遠い存在になったことを自覚した。
 それもあって、かなり深い酒となり、今朝はこの体たらくとなった次第だ。

「昨日はごめん。ずいぶん遅くなってしまった」
「遅いのは構わないけど、飲み過ぎは気をつけてよね」
「気をつけてよね」
 沙穂が理央の口癖を真似てリフレインする。
「悪い。次は気をつける」
「朝食置いとくから、シャワー浴びてきて」
 ノロノロと起き上がって、少し痛い頭を抱えながらバスに向かう。理央はだんだんと理沙に似て来る。特に心配し過ぎないし干渉もしない、かと言って必要最低限の面倒は欠かさない。
 やや熱めのお湯を頭に掛けると、だんだん思考がはっきりしてきた。さっぱりしてダイニングに戻ると、理央が沙穂の髪の毛を編んでいた。
 食卓にはトーストとレタスを千切っただけのサラダにオレンジジュースが並んでいた。理央が用意してくれたものだ。「いただきます」と言って、口にすると意外と食欲があった。途中喉が渇くのでオレンジジュースをお替りする。
「じゃあ私は学校に行くね」
 理央は井の頭線の急行で一駅の都立高校に通っている。来年は大学入試を控えた受験生だ。狙いは結構な難関校のようだが、家では特に受験と言った雰囲気を出すことなく、淡々と沙穂の世話をしながら普通に生活している。
 印象的だったのは昨年の進路相談の時に、担任の先生に受験する大学を確認された時、特に迷うでもなく学校名を告げると、担任も特にコメントすることなくあっさりと「分かった」と了承したシーンだ。
 自分一人だけが焦ってしまい、「大丈夫でしょうか?」と聞くと、担任はあっさりと「理央さんが決めたのなら大丈夫ですよ」と答えた。その言葉に、担任の理央に対する絶対的な信頼感を感じ、それ以上何も言うことなく短時間で面談を終えた。
 受験校の選定から塾探しまで、特に相談されることもなく、理央が自分で決めて一人で頑張っている。だからと言って自分のことを嫌ってるわけでもないようで、何となく手間を掛けさせないという思いやりを感じた。
 少し寂しくもあるが、今のように仕事に専念できるのも、こうした理央の姿勢に寄るところが大きいので、今は感謝しながら見守るだけに留めている。
 沙穂は理央と違ってよくしゃべる子だった。一緒に夕食を食べると、聞きもしないのに学校の話を始める。けん玉の時のように何か成果があると、必ず私の前で発表する。
 こうした沙穂の人懐っこさは私の生活の潤いとなっていた。
 理央は甘えない子だった。血のつながりがないとかそういうことではない。気質的に母とそっくりで、自分のことは自分で解決し、例え肉親であっても自分以外の者に負担を掛けることを嫌う。
 一方沙穂は、遠慮なく甘えてきて、負担を掛けていることが、自分にかまってくれると喜びに変わる性格だ。それを苦に感じさせない愛らしさを併せ持っている。
 ただ私のように弱い人間は、苦しいときほど沙穂のフワフワした世界に包まれると、そこから逃げ出すのが苦痛になる。これが理央ならば、現実が厳しいことを再認識し、困難を克服する方に向かうから不思議なものだ。ものすごく身も心も疲れるが。

 朝食を食べ終わると、沙穂と一緒に家を出る。小学校に上がったときは集団登校だったが、四年生にもなると適当に一緒に行く友達を決めているようだ。毎朝必死で送り迎えしていた保育園時代が今では遠い昔のようだ。
「沙穂はお父さんがいないとき、お姉ちゃんとどんな話をしてるのかな?」
 ふと、自分がいないときの二人の様子が気になった。
「いつも助けてくれるよ」
 意外だった。
「沙穂はそんなに困ったことが多いの?」
「毎日困ったことがあるよ」
「毎日? お父さんは知らないよ」
「だって、ほとんどお姉ちゃんが助けてくれるから」
「昨日も困ったことがあったの?」
「あったよ。沙穂の仲良しの美憂ちゃんが、お母さんが作ってくれたクリームシチューはとっても美味しいって自慢するから、とても悲しい気持ちになったんだ。でもお姉ちゃんに話したら、昨日これがお母さんのクリームシチューだよって作ってくれた」
「そうなのか? もうないみたいだけど」
「あんまり美味しいんで、お姉ちゃんと二人で全部食べたよ。あっ、それから見て」
 沙穂が差し出したのは、アリエスの刺繍が入ったハンカチだった。
「これ、どうしたの?」
「お姉ちゃんが作ってくれた。この一番大きな星がお母さんなんだって。で、これがお父さんで、これがお姉ちゃんで、これが沙穂だよ。みんな星に成ってつながってるから、寂しくないんだって」
 駅と学校の道が分かれるところに来たので、沙穂と別れた。元気に手を振ってくれる。

 理央は九年前の私の話をしっかり覚えていてくれた。私ですら忘れていたと言うのに。
 年の割にはしっかりとし過ぎている、理央の秘密が分かったような気がした。
 子供たちにはいろいろと気づかされる。心の中の星が輝き続ければ、何が起こっても平気だと理央に言いながら、外国人社長の就任や、長澤との進んでいく道の違いに、いちいち動揺している自分が愚かしいと思った。
 理央と沙穂と、心の中で星として存在する理沙と、四人で結び付いてる限り、自分の進むべき道に何も迷う必要などない。
 昨日とは打って変わって、晴れやかな気持ちで会社に向かった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

星野 慎一 (ほしのしんいち)


 1977年9月生まれで出身は山口県。身長は176センチで異動してからお腹が気になる。

 本編の主人公。子育てのために35才で定年後のお疲れ様ポジションであった、大企業「TECG」の社史編纂室長に就任する。


 34才で4才年上の研究員小宮理沙と結婚する。当時理沙には6才になる連れ子の理央がいた。結婚した翌年、理沙との間に沙穂が生まれる。このときが理沙との結婚生活で一番楽しいときだった。

 沙穂が生まれて半年経った時、電車の中の事故で理沙を失う。

 理沙を失ったショックで、一時的に全てに無気力状態になったが、理沙の母美穂子の叱咤と、理央の立ち直る姿を見て、二人の子供のために生きると誓って立ち直る。


 入社して2年目にグローバルリーダー育成プログラムで、TECGNAに出向し四年間をニュージャジーで過ごす。6年目の29才のときに、国内の外資系メーカーへの営業強化を意図して国内営業に復職する。

 復職後は国内営業本部長の有永の横槍を交わしながら大きな実績を上げ、辣腕営業マンとして期待されながらも、子育てを優先するために社史編纂室へ異動し、それまでのキャリアを捨てる。


 この異動を、子育てのために時間的制約を課された会社の配慮と感謝したが、実は国際派の秘書室長梅川の戦略の一つで、一族経営の中でガチガチの国内企業だったTECGを、グローバル化した新しい企業に移行する上で生じる問題解決の切り札と期待されていた。


 秘書室の女性たちに加えて、営業部から才媛長池遥香が部下として加わり、美女に囲まれた職場環境となるが、本人はあまりモテた経験がないので、振り回されがち。

 

星野 理沙 (ほしの りさ) (旧姓 小宮)


 1973年4月生まれで出身は東京都。身長は162センチ。兄と姉がいる。

 吉祥寺の女子高から日本の大学に進んだが、二年生のときにアメリカの大学に編入する。卒業後ニューヨークで広告・宣伝の会社に入社する。

 30才のときに日本企業からニューヨークに駐在していた男と恋に落ち妊娠するが、男は日本に妻子を残しており結婚できないため、別れて出産のために日本に帰国する。

 実家で理央を出産後、母の美穂子に助けられながら、シングルマザーとして日本の広告会社で働く。

 36才のときにイベントの企画で慎一と知り合い、つき合い始める。何度かデートを重ねた後で、慎一からプロポーズされる。4才年上なことと、娘の理央のことがあって悩んだが、押し切られる形で結婚する。

 結婚後慎一との間に沙穂を儲けるが、出産から半年後に不幸な事故で命を落とす。

星野 理央 (ほしの りお)


 2003年4月生まれで出身は東京都。17才のときの身長は171センチ。

 母理沙の実家で父の顔を知らずに7才まで過ごす。

 7才のときに理沙が慎一と結婚して父ができたが、友達のような感覚で接する。

 理沙が事故で亡くなってから、徐々に慎一との間の距離が縮まり、親子として絆を深めてゆく。

 小学校のときに母と同じミニバスのチームに入部し、以後高校までバスケットに熱中する。

 勉強はあまり得意ではないが、小学生の頃から鍛えている英語の成績はいい。

星野 沙穂 (ホシノ サホ)


 2011年9月生まれで、出身は東京都。9才のときの身長は136センチ。

 慎一と理沙の間の実子で、生後7カ月で母を亡くす。

 母の顔を知らずに育つが父と姉の愛情に包まれて、素直で甘えん坊な性格に成る。

 姉の理沙と違ってよくしゃべる。

長池 遥香 (ながいけ はるか)


 1988年10月生まれで出身は新潟県。身長は168センチ。

 東京の国立大学を卒業後、TECGに入社し営業部に所属する。

 配属後の面接で上司の長澤から、優秀だが熱が足りないと、関西支店に送られるが2年目にはトップセールスを記録し、3年目に本社に引き戻される。

 異動後もトップクラスの成績を上げ、次期エースとして期待がかかるが、本社に戻って4年目に突如社史編纂室の公募に手をあげ異動とする。

 この異動は、将来を見据えた壮大なキャリアプランを胸に秘めたものであった。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み