第3話

文字数 2,350文字

 普通に考えたら断るべきだったのに、そうしなかった理由は2つある。
 僕が土壌学を専門としていたことと、観光部門に在籍しているということだ。
 畑と工芸。方向性は違えど、扱うものは同じ土。
 月面に置いて完成する焼き物なんて、本当だったら面白い――と、少々挑戦を受けるような心持ちになっていた。
 それに、もし月で完成する焼き物があるとしたら、新たな観光客を呼ぶ商材になりうる気がした。
 減ってしまった観光客を増やすべく、野菜以外のアピールポイントを新たに創出できないかと、上層部から尻を叩かれているところだったのだ。

 まだ海とも山とも知れない段階だから、同僚や上司には知らせず、1人で観察することにした。変化があったら電子メールで写真を送ってほしいと中村さんは言い、謝礼の提示をしてきたのだが、さすがにそれは発覚したらまずそうだから断った。

 月面で基地の外を動き回っているのは、障害物回避機能に優れた探査車(ローバー)遠隔操作ロボット(アバター)ばかりだから、置く場所には困らない。今や人間が基地の外に出て自ら作業する必要性は、皆無と言っていいレベルなのだ。
 レゴリスばかりの不毛の地に信楽焼の球体を1つ置いたところで、付着した有機物が活動できる環境下でもなし、問題にはならない。
 アバターを出動させてローバーのちょっとした不具合を解決する仕事は日常茶飯事だったから、そのついでに球体の脇を通り過ぎ、目に見える変化があれば写真を1枚撮っておく程度のことも、職務の範囲を逸脱した行為にはならないだろう。

 さっそく<ジャスミン>と名付けられたアバターに信楽焼の球を持たせ、エアロックで減圧操作を済ませてから、外に出した。
 荒涼とした月面を進むカメラ越しに、何か良い目印になるものはないかと探したけれど、結局は覚えやすい座標の数字で設置地点を決めた。
 灰色の大地にぽつりと置かれた信楽焼は、やけに鮮やかな緋色に見える。
 さて。これがどう変化して、どんな完成を見せるというのか。

     *

 赤い球体を僕は“ひのとり”と呼ぶことにした。設置して数日の観察で、細かなヒビが生じ始めていることがわかった。
 当然だ。月面は大気がなく乾燥し、強いエネルギー粒子線に終始さらされている。1ミリメートルより小さな隕石が減速することなく、秒速10キロメートル以上の速度で突っ込んでくる。それに砕かれ舞い上がったレゴリス粒子が、鋭い研磨性と磁気を帯びてあらゆるものに付着する。
 カメラ越しには静の風景だが、実際には想像を絶する過酷な環境下なのだ。

 月の1日は約655時間。地球の日数に換算すると約27日間で、「昼」と「夜」がおよそ14日間ずつ続くことになる。この間に問題となるのが、激しい寒暖差だ。
 月は太陽系の中でもトップクラスに温度変化が大きい。場所と時期によっては「昼」に華氏260度と尋常ではない暑さに達し、「夜」は華氏マイナス280度と、これまた尋常ではない冷え込みが襲う。地球由来の物質を月面に放置すれば、この寒暖差でまず壊れるのが必然だ。

 この観光基地は寒暖差の緩やかな高日照地域に建設されてはいるが、それでも温度変化が極値に達する時には、ローバーやアバターの全てを施設内に格納して、外作業を中断することにしている。この間は観察ができない。
 ヒビの目立つ“ひのとり”の写真を1枚撮り、電子メール経由で中村さんに送った。

     *

 長い「昼」と「夜」を超えて、月の「翌日」がやって来た。
 温度変化が極値を脱した時点で、ローバーたちは再びレゴリス集めに駆り出されている。環境に変化がないか見るために、僕もフットペダルと手元のグローブで<ジャスミン>を操作して、「朝」を迎えたローバーたちの後を追う。

 モニター画面の座標数字を見て“ひのとり”を思い出した。あの球体は、観察できない間にどんな変化を見せているだろう。
 月面に放置すればヒビが入って割れる。それくらいのことは、宇宙焼き物師を名乗るアーティストならば予測していただろう。作品は完成したのだろうか。

 座標地点へ近づく途中で、レゴリスに覆われた小山のようなものを見つけ、僕は思わず「あ」と声を漏らした。
 割れている。まるで卵のように、球体だった“ひのとり”が。
 ほとんど粉々に崩れ去った焼き物のかけらの中心に、何かあった。遠目には球体をぎゅっと握りしめ、でこぼこと形を変えたような印象。
 接近し、アバターの巻き起こした埃が収まるのを待って、その物体の表面を覆った微細なレゴリスを、グローブ越しに握った除去装置で取り除いてみる。

「はっ」
 思わず短い失笑が出た。現れたのは例の、とぼけ顔の狸だったのだ。
 平たい帽子を被って酒瓶を携え、小首を傾げて宇宙を見つめる動物。
 信楽焼で有名な置物だ。
 がっかりしたことで、少しは期待していたのだと気付いた。所詮、こんなものだ。子供の遊びに付き合わされたような徒労を感じた。地球にいながら考えたにしてはと、褒めてもいいのかもしれない。
 写真を1枚撮って、僕は中村さんに電子メールを送った。「無事に作品が完成したようですので、観察を終了します」と、ひと言添えて。

 その夜――地球時間での夜という意味だが――中村さんからの返信が届いた。
 丁寧なお礼の言葉と共に、もう少し観察を続けてほしいと書かれていた。

 まあね。

 ちょうど宇宙ビール――水回収システムに影響を及ぼさないよう配慮された疑似アルコール飲料――を飲んでいた僕は、おおらかな気持ちで頷いた。
 最後の陶土を譲り、月まで運んでやった作品の完成形があれでは、正直言って肩透かしというものだ。まだ何かあるだろうと考えてしまうのも無理はない。
 僕は返信をしないまま、気が向いた時に様子を見に行くことにした。
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