第27話:花祭り帰ると東日本大震災

文字数 3,020文字

 それから最近はフンシャル花祭りが有名になり、おおくのDVDが売られていて、宣伝効果も大きいようで、プロダクション関係の派遣が多くなっているとも聞いたと言ったが、どれも、これも信憑性は薄いがねと笑った。その後は私の好みの女性はと言う話に終始して、いつもの様に飲んだくれ、0時過ぎに床についた。いよいよ、佐野夫妻にとって、フンシャル最終日4月25日になり、朝7時に沿道に行き、席を取り、美人さんのパレードと豪華絢爛のパレード車の花を眺めていた。

やがて11時半にホテルに戻りチェックアウトしてフロントの男がまた来いよと言う声を聞いて、ホテルを出て、帰りの混雑を避けるように早めにタクシーで空港に向かい16時過ぎの飛行機でリスボンに帰った。そして、その晩、ファドを鑑賞しに出かけ、ファドの独特の哀愁を帯びた歌声と、郷愁を誘う雰囲気を楽しんで、リスボン、ポルトガルの最後の夜を終えた。

 翌4月26日の朝、8時半にホテルを出て、リスボン空港のオランダ航空の登場口で手続きを取り、朝食をとり、11時過ぎの飛行機で、アムステルダム・スキポール空港に16時前について、2時間強の待ち時間で成田行きの飛行機に乗り換え出発、その後11時間の長いフライトで翌4月28日、正午に成田空港に着いた。そこから高速バスでみなとみらいに14時過ぎに着いて自宅で風呂に入りゆっくりした。

 今回の4月10日から28日の17日間にわたるスペイン、ポルトガル旅行で多くの収穫があったが、佐野夫妻にとって素朴であるが心落ち着くポルトガルの自然と人々の素朴さに見せられて、また、ポルトガルヘ癒やしの旅へ行きたい考えた。そして、4月30日に八王子の佐野の実家に旅行のお土産と土産話をもって出かけて、夕方に帰って来た。そして、奥さんの実家には5月1日に行き、旅行のお土産と土産話をもって出かけて、挨拶して帰って来た。

 そして夏は、この年も暑くてクーラの前でじっとしていた。秋になり、いつも通り、電動自転車で山下公園、港の見える丘公園、外人墓地を散策したり、中華街で昼食をとったりの生活になった。やがて2010年が終わり、2011年を迎えた。2011年、特にこれと言って初詣でに行った位で家の中で過ごし、日射しの良い日に電動自転車でサイクリングして、1月25日の春節を迎えると中華街の獅子舞が見られるので見学に出かけ中華料理店で、持ち帰りを料理を買って、自宅で食べた。

 やがて3月を迎え3月11日、午後2時47分、大きな地震があったとテレビで速報が入ると高層ビル特有の長周期地震動の共振で建物が大きく揺れた。こんな揺れは初めてで、佐野の奥さんは、生きた心地がしなかった。それでも20分程で揺れが止まった。しかし揺れが止まると奥さんは今度は気分が悪くなり船酔いのような感じで食べた物をもどした。そして床に入り静かに横になった。佐野は割れた食器や散乱した本やトイレが水浸しになりタオルや雑巾などで拭いた。

 夕方18時には電気、水道、ガスが正常に作動してテレビニュースで東北の太平洋岸の津波の放送や仙台空港の津波、夜19時頃に湾の対岸で火事が起きて、水面が燃えている映像が流れ、茫然自失の状態でテレビに釘付けになっていた。その頃には奥さんは、正常に戻り東北大震災の映像を旦那さんと、リビングのソファーに座って、じっと眺めていた。

 その晩は、まんじりともせずに過ごしたが佐野はソファーで寝てしまい、奥さんは不安で寝れないで夜を明かした。その後、東日本大震災の東北太平洋沿岸から、千葉の太平洋沿岸まで及ぶ広い範囲で、洪水による大規模な被害が判明した。

 それから最近はフンシャル花祭りが有名になり、おおくのDVDが売られていて、宣伝効果も大きいようで、プロダクション関係の派遣が多くなっているとも聞いたと言ったが、どれも、これも信憑性は薄いがねと笑った。その後は私の好みの女性はと言う話に終始して、いつもの様に飲んだくれ、0時過ぎに床についた。いよいよ、佐野夫妻にとって、フンシャル最終日4月25日になり、朝7時に沿道に行き、席を取り、美人さんのパレードと豪華絢爛のパレード車の花を眺めていた。

やがて11時半にホテルに戻りチェックアウトしてフロントの男がまた来いよと言う声を聞いて、ホテルを出て、帰りの混雑を避けるように早めにタクシーで空港に向かい16時過ぎの飛行機でリスボンに帰った。そして、その晩、ファドを鑑賞しに出かけ、ファドの独特の哀愁を帯びた歌声と、郷愁を誘う雰囲気を楽しんで、リスボン、ポルトガルの最後の夜を終えた。

 翌4月26日の朝、8時半にホテルを出て、リスボン空港のオランダ航空の登場口で手続きを取り、朝食をとり、11時過ぎの飛行機で、アムステルダム・スキポール空港に16時前について、2時間強の待ち時間で成田行きの飛行機に乗り換え出発、その後11時間の長いフライトで翌4月28日、正午に成田空港に着いた。そこから高速バスでみなとみらいに14時過ぎに着いて自宅で風呂に入りゆっくりした。

 今回の4月10日から28日の17日間にわたるスペイン、ポルトガル旅行で多くの収穫があったが、佐野夫妻にとって素朴であるが心落ち着くポルトガルの自然と人々の素朴さに見せられて、また、ポルトガルヘ癒やしの旅へ行きたい考えた。そして、4月30日に八王子の佐野の実家に旅行のお土産と土産話をもって出かけて、夕方に帰って来た。そして、奥さんの実家には5月1日に行き、旅行のお土産と土産話をもって出かけて、挨拶して帰って来た。

 そして夏は、この年も暑くてクーラの前でじっとしていた。秋になり、いつも通り、電動自転車で山下公園、港の見える丘公園、外人墓地を散策したり、中華街で昼食をとったりの生活になった。やがて2010年が終わり、2011年を迎えた。2011年、特にこれと言って初詣でに行った位で家の中で過ごし、日射しの良い日に電動自転車でサイクリングして、1月25日の春節を迎えると中華街の獅子舞が見られるので見学に出かけ中華料理店で、持ち帰りを料理を買って、自宅で食べた。

 やがて3月を迎え3月11日、午後2時47分、大きな地震があったとテレビで速報が入ると高層ビル特有の長周期地震動の共振で建物が大きく揺れた。こんな揺れは初めてで、佐野の奥さんは、生きた心地がしなかった。それでも20分程で揺れが止まった。しかし揺れが止まると奥さんは今度は気分が悪くなり船酔いのような感じで食べた物をもどした。そして床に入り静かに横になった。佐野は割れた食器や散乱した本やトイレが水浸しになりタオルや雑巾などで拭いた。

 夕方18時には電気、水道、ガスが正常に作動してテレビニュースで東北の太平洋岸の津波の放送や仙台空港の津波、夜19時頃に湾の対岸で火事が起きて、水面が燃えている映像が流れ、茫然自失の状態でテレビに釘付けになっていた。その頃には奥さんは、正常に戻り東北大震災の映像を旦那さんと、リビングのソファーに座って、じっと眺めていた。

 その晩は、まんじりともせずに過ごしたが佐野はソファーで寝てしまい、奥さんは不安で寝れないで夜を明かした。その後、東日本大震災の東北太平洋沿岸から、千葉の太平洋沿岸まで及ぶ広い範囲で、洪水による大規模な被害が判明した。
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