第14話:ヤフー株再度購入と縄夫婦旅行

文字数 3,071文字

朝起きて朝食を食べ子供達が学校に出かけた午前9時前ニューヨークの超高層ビルに何と大型旅客機が衝突した。続いて、その少し後9時過ぎに、もう一台の大型旅客機がもう一つ隣の超高層ビルに衝突し、数分後、その建物が崩壊して大きな、土煙が舞い上がった。この映像を見ていた文枝はショックのあまり涙を流した。まるで映画の1シーンのように思えたが多くの人々が逃げ惑う姿を見て背筋が凍る思いをした。

 9時半過ぎにバージニア州アーリントンにあるアメリカ国防総省本庁舎「ペンタゴン」に激突し、爆発炎上したと速報が入った。この日はリビングでテレビに釘付けになり昼食も忘れてテレビを見た。隣の家の両親もやってきて、このテレビ放送を見続けた。その日は、あまりのショックで両親も佐野の家で食事してに泊まった。翌日に、この事件で2000人以上の民間人の死者が出ただろうと発表された。

 その後、ブッシュ大統領がアルカイダの仕業だと断定して放送で演説して亡くなった人々に哀悼の意をあらわした。アメリカ国内の金融市場「株取引」は1週間中止となり、取引開始当日のNYダウ平均は9605ドルから8883ドルまで落ちた。米国同時多発テロで米国市場が機能停止したことで、ほぼ全業種の株価が下落した。翌9月12日(水)の朝、日本市場がスタート。あまりに想定外すぎる状況に、「え、本当にやるの?」「取引停止が妥当」「損するだけやん」という空気になった。

 更に、この日、値幅制限が半分という条件付きでの日本株の取引開始。ほとんどの銘柄がストップ安売り気配となった。それを見ていたN証券の担当者から佐野に電話が入り、こんなの証券会社に入って初めてだとしょげていた。9月16日、アルジャジーラ上でビンラディンによるビデオ声明が放送された。声明の中でビンラディンは、「私は攻撃を実行していないと強調し攻撃は別の個人により、彼自身の動機に基づいて実行されたように見える」と述べた。

 11月、アメリカ軍はアフガニスタン東部のジャラーラーバードで1本のビデオテープを回収した。このテープにはビンラディンと他のアルカイダ構成員との会話が記録されており、その中でビンラディンは同時多発テロを事前に知っていたことを認めていた。これによりアメリカ政府では米国多発テロの犯人はビンラディンと決めた。その後、アメリカはテロ事件の首謀組織であるアルカイダと
イラク政府がつながっていると考えるようになった。

 そして2002年を迎えた2002年、ブッシュ大統領が
「イラン、北朝鮮、そしてイラクは悪の枢軸、テロ支援国家である」という演説をした。しかし、ヤフー株は、こんな逆風にも負けず、順調に株価を上げていた。そして2002年3月26日にヤフー株は2分割し、同じ年の9月25日にも2分割し、合計4分割、つまり、佐野達が持っているヤフー株1株が4株になった。

 その後、アメリカ議会でイラクが大量兵器を持っていると言う話が噂されはじめた。そしてアメリカにとって屈辱の2001年が過ぎて2002年を迎えた。すると、ブッシュ大統領は2002年始めの一般教書演説で悪の枢軸発言を行い、イラク、イラン、北朝鮮は大量破壊兵器を保有するテロ支援国家であると名指しで非難した。特にイラクに対しては長年要求し続けた軍縮の進展の遅さと大量破壊兵器の拡散の危険を重視し2002年に入って政府関連施設などの査察を繰り返し要求した。

 以前からイラク・フセイン政権と対立したイスラエルは、2002年4月にネタニヤフ元首相が訪米して「フセイン大統領は核兵器を開発中である」とその脅威を訴えたのを皮切りに同年5月にシモン・ペレス外相がCNNの取材に対し、
「フセインは米同時多発テロ事件首謀者ビン・ラーディンと同じく危険」と答えた。アリエル・シャロン首相もイラクへの早期攻撃を求めた。

 ブセナテラスに2泊して、次に南下して日航アリビラに到着した。このホテルもホテル前が素敵であり、すぐ前の海も景色が良く、暖かい日に30分程、散歩すると汗をかいた。そして、ホテルに戻り、カフェでお茶をしてゆっくりした。しかし食事が今ひとつで前のブセナテラスに比べて、美味しくなかった。このホテルも2泊した。その後、沖縄の最南端、糸満の沖縄平和祈念館を見学すると旅行で浮ついていた気持ちが一変で奈落の底に突き落とされたような気がした。

 それというのも展示されている悲惨な写真や遺品の数々を見せられて、今の日本の繁栄は、こういった沖縄の人、日本の先人達の犠牲の上に成り立っているのだと痛感させられた。そして、この施設を出て、糸満港の景色の綺麗なサザンビーチホテルに入った。ホテルの前の公園も素晴らしいし夕食を取っているときに夕日を見ると鳥肌が立つほど感激した。そして翌日の晴れた昼間、ホテルの前の公園を散歩すると、この先に東シナ海が広がっていた。

 遠く、台湾、フィリピン、インドネシアまで続くと考えて見ると感動した。このホテルに2泊し、景色と散歩と食事の美味しさに感動した。その次の日に沖縄市街地のホテルにチェックインしてフロントで教えてもらったケントス・那覇へでかけた。そこでビールを飲みながら懐かしいアメリカンポップスを若くてきれいな女の子とリーゼントに決めた男性とギターのお兄さん達が何曲も歌い、演奏してくれ楽しくて夜0時過ぎまで楽しみホテルに着いたのは午前1時過ぎだった。

 翌日は9時に朝食をとり、首里城へ向かった。車を駐車場に止め、きつい坂道を上ると酒臭い息が自分でも感じられた。 いくつかの門をくぐって首里城公園に入り入場券を買って場内に入ると赤い立派な大きな城が見えた。屋根の上に左右にお互いを睨んでいるかのような龍の彫刻、装飾と彫刻の素晴らしい城の入り口と言いとにかく素晴らしいの一言。その後、いくつかの展示物を見てから外に外側に回ると城壁の上の高台を周り歩くと那覇の街並みが見えたり遠くの景色も一望できた。

 首里城を出て近くの沖縄そばの店で遅い昼食をとって那覇中心部のホテルに帰った。その後、車を置いて歩いてホテル近くのリューボーデパートに入り、沖縄土産を買い込んでホテルに帰ってきた。夕食後、早めに床についた。翌朝8時に起きて朝食後ホテルをチェックアウトしレンタカーで那覇空港へ行き、レンタカーを返して、12時過ぎの飛行機で羽田空港に14時過ぎに到着して、14時頃、実家に帰った。その後、両親と子供達、周りの親戚に人にも、沖縄土産を渡した。

 合計、7泊8日の人生初の沖縄旅行を楽しんできた。そして本田君のところに行き沖縄土産を渡した。2002年の進学塾の成績状況を聞くと合格率90%は確実に越えると思うと言われ受験が終了したら、結果を連絡しますと言った。やがて3月20日受験の全日程を終え、合格率94%、志望校合格率90%で終了したと報告があった。そして最近は月末締めで、利益を算出した。

 その後、学生さんのアルバイト料金、諸経費を抜いた純利益の合計を佐野と本田夫妻で半々にした。月に約90万円ずつ分け合った。そして4月になり新年度が始まった。4月4日の晩に奥さんの文代さんが佐野と寝る前に晩酌しながら今度は、できたらハワイ旅行に行きたいと言うので、近いうちに行こうと話した。やがて夏になり夏休みが終わったが9月に大事件で、突然、時計の針が止まった。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件である。
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