下描き

文字数 930文字

 三週目の生物の講義も、野本沙希は同じ席にいた。
「座っていいか?」
「うん・・・」
 野本沙希は椅子の教科書を机の右隅へどけた。彼女はメガネをかけていなかった。メガネは机の上にあった。また、イラストを描いているんだと思い、スケッチブックをのぞいた。メガネが描かれている。太い線と細い線で描かれたメガネは、なんの変哲もない野本沙希の黒縁メガネそのままだ。
「見えるんか」
「コンタクトしてる」
「イラストか?」
「イラストじゃない。メガネをデザインしてる」
 描かれたメガネはごくありふれた形で、特別にデザインしたようには思えない。
「そのメガネそのものだろう。どうデザインするんだ?市販のメガネを描いても、デザインにはならないだろう?」
 僕は机のメガネを指さし、椅子に座った。この程度なら誰でも書けそうだ。
「これは従来の形だ。これをデフォルメする。そのための下描きだ」
「そういうことなら、うまいもんだな・・・」
「そうか」
 野本沙希の顔に笑みが浮んだ。単なる実物の写しなら、まあまあのできばえだ。まもなく講義がはじまる。今日も教科書を開く気は無いらしい。
 野本沙希が自分のメガネを描いた下描きを「うまいもんだ」と話したのはお世辞ではなく、野本沙希の雰囲気がそういわせた気がした。野本沙希に、あんたのしていることは、あんたに適してない気がすると伝えても、本人は納得しないだろう。納得させるには、現在の行いを限界までさせる必要があるような気がした。そのために、ある程度は誉めねばならないだろう。
 野本沙希がペンを動かしたままつぶやいた。
「田村に訊いていいか?」 
「何だ?」
「田村は、大学出たら何する」
「化学関係の企業に勤めるしかないな・・・」
 教科書とノートを机に置いた。教室の最前部のドアが開き、教授が入ってきた。
「そうか・・・。あとでノート頼む」
「ああ、わかった」
 野本沙希はスケッチブックを見つめてペンを動かしたままだ。
 この女、みずみずしい感じがしない。乾きすぎた干物みたいだ。心の中に何が詰まっているのだろう。まだ二十歳前だろうな。現役で入学した学生ばかりではないから、もしかしたら、見た目よりずっと歳上かも知れない。そうなら乾きすぎた干物みたいな印象もうなずける・・・。
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