独断と偏見

文字数 1,306文字

 六週目。
「うまいな・・・」
 野本沙希は同じ机に座ってスケッチブックを拡げ、四コマ漫画らしい物を描いていた。スケッチブックの隣りに生物の教科書と資料集が積まれている。もうすぐ講義がはじまる。野本は教科書を開く気がないらしい。
 野本沙希の四コマ漫画はうまく描けているかと問われても答えようがない。これが本音だ。ではストーリーがおもしろいか?とてもそういう範疇からほど遠い。だが、僕は本人にそんなことをいわなかった。野本をからかっているのではない。野本沙希の雰囲気が僕にそうさせていた。
「あたしさ、漫画家になろうと思うんだ・・・」
 野本沙希がそんなことをつぶやいているうちに授業がはじまった。野本は、机の生物学の教科書を開かず。スケッチブックをのぞきこんだままだった。美術科の学生として野本沙希の描く絵がうまいかと問われても、答えようがなかった。素人目にもそうわかるのだから、
『よくぞこんな下手くそが、美術科に合格できたな!』
 といいたくなるが、今もってその言葉を、僕は心の中にとどめたままだ。

 その後。
 将来、何をしたいかを話す野本の話は、会うたびに変化した。自分自身を飽きっぽいと思っている僕でさえあきれたが、野本なりに何かを表現しようとする意志がどこかに感じられた。いつか野本がそのことに気づくだろうと思い、講義中は野本の小声に耳を傾け、講義がおわってからは学食で時間の許すかぎり野本の話を聞いた。
 絵が有りストーリーが有る四コマ漫画は、野本沙希が世相を独断と偏見で批判するのに適しているように思った。野本に不足しているのは、起承転結の転と結だ。野本なりにそれを導けるようになれば、四コマ漫画を描ける気がした。アニメのストーリーも書ける気がした。僕はそのことを野本に伝えた。
「わかった。努力する。金を稼いでパソコンとソフトを買わなきゃな・・・」
 野本沙希は僕の忠告を聞き入れたようだった。

 期末試験が近づいた。
 野本沙希は学食で、定食のトレイを持った僕を見つけ、テーブルに座らせた。
「なあ、先週のノート見せてくれ。あの回路の・・・」
「ああ、TCA回路だな。説明はここだ」
 僕はバッグから生物学のノートを取りだしてテーブルに置き、ページを開いた。回路図と科学反応式が書いてある。
「さっぱりわからん。田村はわかるんか?」
「いちおう高分子工学科だからな」
「そうだな・・・」
「入試の理科は何だった?」
「生物・・・。高校の生物にゃ、科学反応式なんかほとんど出てこなかったぞ」
「クエン酸回路があっただろう?」
「憶えてない・・・。憶えてたとしても、忘れた」
「じゃあ、ここを憶えとけ。ここで一番重要な箇所だ」
 TCA回路の反応式の化学式を示した。
「わかった・・・」
 こんな調子で、期末試験前に詰め込み学習し、野本沙希はなんとか無事に生物学の試験を終えた。生物学は教育学部の必修科目だが、野本沙希はさほど重要には考えていないようだった。

 試験後。
 大学で野本沙希の姿を見なくなった。美術科にも来ていないらしい。気になったが、恋人でもなく友人でもない顔見知り程度のつきあいと思っていたので、美術科の学生に野本のことを訊かなかった。
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