あとでノート見せてくれ

文字数 1,134文字

 大学は新学期がはじまったばかりで教室は満員だ。何週間かすれば、履修をあきらめる学生や講義をさぼる学生で、生物学の講義に出席する学生が減ると思いながら、階段教室の最後部から中に入った。四人掛けの机の列が教室最前部から最後部へ四列並んでいる。一列に二十脚の机があり、教室の定員は三百二十名だ。
 最後部右隅の机に空席がある。ジーンズにジージャン、赤いベレー帽をかぶった女子学生が左側の席に何冊もの教科書を置いたまま、机の右端でスケッチブックを拡げ、何か描いている。彼女は細面の顔に黒縁メガネをかけ、見るからに神経質そうな気配を漂わせ、椅子においた教科書は、自分の領域を守るバリケードのようだった。異様な雰囲気を感じたらしく、彼女が座る机は四人がけなのに、空席のままだ。
「ここ、座っていいか?」
「ああいいよ・・・」
 彼女はすぐさま、椅子に置いてある教科書のバリケードを机の右隅に移動した。
「僕は田村だ。理工学部高分子工学科だ」
 彼女の隣りに座り、バッグから生物の教科書とノートを出して机に置いた。
「野本沙希、美術科だ。あとでノート見せてくれ。忙しいんだ。
 今日中にデッサンを出さなきゃなんない。画家をめざしてる」
 そういったまま野本沙希はタブレットの石膏像を見ながらスケッチブックにデッサンを描いている。ここは芸大ではない。デッサンを提出するというのだから野本沙希は教育学部の美術科所属だろう。可能性は低いが、画家になるのもありうると思った。

 講義がはじまった。野本沙希をそのままにして抗議に熱中した。初日とあって、教授は自己紹介のあと授業予定を話し、十分ほど早めに講義がおわった。
 学生が席を立ちはじめた。野本沙希はスケッチブックに鉛筆を走らせている。
「今日の講義は、授業計画と教授の自己紹介だけだったよ」
 席を立ちながら野本沙希に伝えた。
「わかった。来週もたのむ・・・」
 野本沙希はスケッチブックを見たままだった。
「何を描いてる?」
「見てのとおりさ。アグリッパの石膏デッサンだ」
 アグリッパが何者か知らなかったので、その場で調べた。
 マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ、古代ローマの軍人、政治家でローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの腹心。のちにアウグストゥスの娘婿となる。 ガイウス・ユリウス・カエサルに見出され、軍略の弱いアウグストゥスの補佐的役割を果たした。また、パンテオンやポン・デュ・ガールなど多数の建築物を建造した。( ウィキペディアより)
 なるほど、あの石膏像はこういう人物だったか・・・。
 一つ知識が増えたなと思いながら、提出物がまにあわなくて生物学の時間に、専門の美術の作業か。画家は無理だろうなと思った。
「じゃあな・・・」
 野本沙希を残して席を立った。
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