第25話 鴻門の会 前編

文字数 2,516文字

秦王・子嬰が、劉邦軍に投降した(のち)、劉邦は咸陽に入った。
当初の考えでは、宮中に駐屯しようとしていたが樊噲(はんかい)と張良に説得され、宮中の財宝には一切、手を触れず宮室と府庫(蔵)に封印を施して、㶚水の岸まで引き返し項羽の到着を待つことに決めたのだった。
これは項羽を警戒し、略奪行為を自重させたのもあるが、関中に暮らす庶民のことも気にかけたうえでの判断であった。
劉邦は関中の長老たちを集め、秦の厳格な法律を廃止することを決めて『法三章』(ほうさんしょう)を宣言した。

一つ、人を殺生した者は死刑。
二つ、人を傷つけた者には罰を与える。
三つ、盗みを働いた者には罰を与える。

という至って簡潔な内容で、人々の支持を得ることに成功した。
咸陽が劉邦軍によって陥落したことなど、そのとき全く知らない項羽軍は、東方より攻め進み、秦軍を次々と撃滅させた。
その勢いは烈火のごとき凄まじさで、劉邦軍など足元にも及ばないほどであった。
ただ、逆に言うと劉邦軍は要領良く戦い、項羽軍のほうが馬鹿正直に戦っていたと推測される。
真面目に戦っていたが為に、項羽は劉邦より一ヶ月も遅れて関中に到着したのだ。
それゆえ函谷関は、劉邦軍によって閉ざされており、咸陽に入れない状況となっていた。
このときの項羽の心情とすれば、憤懣遣る方無い!であったことだろう。


「我らのほうが、一月(ひとつき)も先んじて関中に入ったのは間違いないないのだ!それなのに、実力の差は如何せん...目に見えて劣勢...どうやっても上将軍には敵わぬ。
約定など、気休めでしかないのは承知のうえだが、うーん...悔しいのぅ。」
劉邦は、携帯用の小さな床几(しょうぎ)に腰掛け、腕組をしつつ嘆いていた。自慢の髭も(しお)れたように見えなくもない。

「沛公、ご心情は、お察し致しますが、我らのほうが知恵を集結させ目的を達成する力が(まさ)っております。現状では確かに劣勢ですが、時が満ちれば追い風が必ず吹きまする!
それまでは、敵を油断させるに限ると思われませぬか?」
張良が、冷静に淡々と話した。
色白の端正な面立ちで、静かに説き伏せるように論じられると誰しもが納得してしまうのだった。高潔な人柄が滲み出ている張良が正論を言うと全く嫌味に聞こえないからであろうか...

「...わかっておる。わかってはおるが、一度手にしたものを手離すのは、骨の折れることよ。
それが人というものさ...」
劉邦は苦笑いしつつ、口髭を指先で(ひね)りながら呟くのであった。

とは、先に関中に入った者を関中王とするというもので、楚の懐王が発案決定したことであり、全員合意のうえではあったが、所詮は口約束。
戦乱の世では結局、強いものが弱いものから何もかも奪い取るのが常套手段なのである。
項羽は、楚の上将軍として反乱軍最高指揮官であり四十万の大軍を率いていた。
それに対して劉邦軍は十万の兵力であった。

項羽の謀臣である范増(はんぞう)は、(経歴は一切不明、陳勝呉広の乱をきっかけに項梁軍に志願し軍師として仕える。齢七十とされるがよくわかっていない。項羽に亜父(あふ)[父の次に大切な男性]とよばれ頼りにされたようだ)
付近の庶民たちに命じて、(たきぎ)を徴発した。焼き討ちの準備を急がせ、劉邦軍を壊滅させる計画を立てたのだった。

それを知った劉邦軍は、ただちに函谷関を開放した。
楚軍は、一挙に函谷関に雪崩れ込み、咸陽宮を襲った。
情け容赦は一切無く、囚われていた秦王・子嬰を殺し、諸公子と宗族(一族)を皆殺しにして、宮中に阿房宮、それに驪山陵の財宝を根こそぎ奪い取ると火を着けて全てを焼き払った。

栄耀栄華を誇った秦の都・咸陽は三ヶ月もの間、燃え続けたという...

そして、咸陽を焼き尽くした項羽軍は、その勢いで劉邦軍に止めを刺す準備に取りかかった。

劉邦軍が咸陽宮の宝物に手も触れず、更に人々に対して法三章を提案し、見事に人心を掌握したことなど、范増にすれば「天下を取るに価する人物、(すなわ)ち危険人物」となったわけである。

そのような計画を察知した項伯(こうはく)(項羽の叔父)は、劉邦の側近である張良と実は、旧知の間柄で親しくしていた。
張良を好ましく思っていただけに、死なせるには忍びないと心を痛めた項伯は、自分の身を危険に晒し、夜の闇にまぎれて劉邦軍の駐屯地まで馬を走らせた。

「うむっ、項伯殿。お礼を申し上げる。
こたびの危急を、よう報せてくださった。
さすれば上将軍に、このように
伝えていただきたいのだが...ゴッホン

函谷関を閉ざしたのは、賊どもが入れないようにするためであって、関中を手中に治めようなどと

考えておりませぬ!
この劉邦は自分の分際を存じておりますゆえ、上将軍を差し置いて、そんな出すぎた真似をするなど、針の先ほどもありはしない。
いやいや、砂粒程もない!
とまぁ...かように項伯殿の威厳に満ちた、その重厚な、声で説得していただければ助かるのですが...な?」

劉邦は、項伯を少々上目遣いで見つめつつ顔色を伺った。
劉邦の左側に控えていた張良は、劉邦のわざとらしい口上が可笑しくてたまらず、顔を下に向けて右の(こぶし)で唇を押さえた。

熱の入った演技に呆気に取られた項伯が、我にかえると答えた。

「沛公...
しかしながら、私にどれほどの説得ができるものやら...わかりかねますが...」

「いや、いやいや項伯殿!何をおっしゃるか?
謙遜なさらずとも叔父上である貴公が説得すれば、必ず首を縦に振ってくださること間違いなし!!」

「...ううむ。
承知するしかなさそうですな...仕方無い。
約束は出来ませぬが、やれるだけやってみましょう...」

「ほっ!さようですかな?
それは心強き、お言葉をいただいた!
のう、張良?」

「...はっ、項伯殿なら最善を尽くしてくださいますでしょう。」
張良は可笑しくて腹がよじれそうであった...
この寛容で独特な言動が、劉邦の強みであり人を惹き付ける魅力なのかもしれない。
と張良は思った。
この危機を、どうにか乗り越えねば我らに明日は無い....ひとまず項伯殿に託して成り行きを見定めよう。
冷静沈着、頭脳明晰な張良であっても先を見通すことは常に難しい。
最善を尽くして、駄目なら仕方がない。
天が味方するか、しないかは結局、運次第だ...
張良は、そう自分に言い聞かせた。
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