第5話 秦の始皇帝 前編

文字数 1,432文字

紀元前 二五九年 趙の都 邯鄲(かんたん)にて始皇帝は産声をあげた。 名を(せい)という。(正月生まれであったことから正とも言われているが史記では政とある)
父は秦王の荘襄王(そうじょうおう)
名を子楚(しそ)(父は、呂不韋であったとの説もあるが秦の太子と認知されたことが重要)
 母は、趙の踊り子であった趙姫(ちょうき) 姓名は不明
父である荘襄王が、即位してから三年でこの世を去ったため、紀元前二四七年 太子である政が十三歳で秦王を即位した。まだ子供であった政に代わり母である趙姫が摂政となって実権を握った。(呂不韋の後ろ楯があったからこそ)

趙姫は元々、大商人の呂不韋(りょふい)の妾であった。呂不韋は、趙で人質となっていた秦の公子である異人(いじん)(後に子楚と改名)と出会う。
異人を、秦王に即位させ権力者にのしあがろうと、この時画策したのだった。
異人は趙姫をとても気に入ったので、呂不韋に自分に譲って欲しいと頼んだ。
あまり気が進まなかった呂不韋ではあったが、計画が台無しになっては本末転倒であると判断し、趙姫を手離したのだった。

二人の間に誕生した政が秦王に即位し太后(たいこう)となった趙姫は、呂不韋にまた寄りを戻したいと誘った。
そして、呂不韋と趙姫は再び関係をもつようになるのだが、秦王を即位した政に発覚しては大変なことになるため、呂不韋は、嫪毐(ろうあい)という若者を宦官に仕立てて後宮に送り込むことにした。
自分の代わりに、太后の趙姫にあてがうためであった。
後に趙姫と嫪毐との間に二人の男子が誕生するが、秦王政によって処刑された。

だが嫪毐は、ただのあて馬ではなかった。徐々に力をつけ反乱を起こす気配があった。
政は、用心深い性格と合理的な考えの持ち主であったと思われる。
自分の成人の儀式に蜂起されては堪らないと考え、軍を差し向け不穏な動きを事前に封じ込めることにした。
昌平君(しょうへいくん)(楚の公子であり秦の武将)と昌文君(しょうぶんくん)(楚の公子であり秦の武将 昌平君は甥にあたる)が逃亡した嫪毐を成敗し、事は決着したのだった。
その後、嫪毐の後ろ楯である呂不韋と太后趙姫の関係が発覚してしまった。
政が秦王に即位できたのは呂不韋のおかげなのは明白であったし、呂不韋は相国(しょうこく)という王の次に権力のある位についていた。だが事態は、憂慮を許さなかった。
放っておいては王である自分が先に殺されてしまう。
政は、呂不韋に相国の位を罷免すると言い渡し(しょく)へ流すことにした。
蜀に流されると知った呂不韋は、紀元前二三五年 自身の命運が尽きたを悟り、服毒自殺を計るのだった。
そして母である趙姫は雍城(ようじょう)(紀元前六七七年~紀元前三八三年まで秦の都)に幽閉されていたが、紀元前二三六年 に咸陽へ戻された。
秦で開かれた酒宴の席で、斉の客人茅焦(ぼうしょう)という人物から「呂不韋とのことは、荘襄王がすでに亡くなっていたので、不義にはあたりませんし、天下を取ろうとする方が、ご自分の母君を幽閉なさっては、人心を集めることは難しいのではありませんか」と問われた政は、一理あると判断して母を都に連れ戻したのだった。
趙姫は、咸陽に戻り紀元前二二八年に亡くなっている。
後世に悪女として名高い趙姫であるが、後の人々によって脚色された可能性が高い。
当時の女性として、普通に男性を愛し依存することで自分の保身に懸命であっただけと考えるほうが自然である。
希代の悪女という肩書きは趙姫には、不釣り合いかもしれない。
ただし、息子である政にとっては良い母親であったのか?どちらかというと、悪いほうにはいるかと思うが、政は心から母親を嫌ってはいなかったと信じたいものだ。
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