第26話 鴻門の会 後編

文字数 3,621文字

()くして項伯は、項羽を説き伏せることに成功した。
楚軍が駐屯地としていた
鴻門(こうもん)西安市臨潼区(しいあんし りんどうく))にて酒宴を催す運びとなり、劉邦は手勢わずか百騎余りを従えて鴻門に赴いた。
劉邦の心中は、言わずもがな戦々恐々...
殺されるであろうことは疑いようもなかった。がしかし、赴かなくても殺されるため同じこと...
ならば、一縷の望みがあるほうに行かねばならない...

劉邦は宿舎に到着早々、項羽に目通りを願い出て、何とか挨拶を許された。
平身低頭の劉邦の態度に、流石の項羽も怒りが幾分おさまり、酒宴の席へと案内されることとなった。
幕舎(ばくしゃ)が設けられており、
部下たちが各々の手に、ぶら下げた薪へと火がつけられ、暗闇に宴席が浮かび上がった。

最上席の西側に項羽が着席し、隣に項伯が座した。
続いて年長者である范増が南側の席へ着くと、
客人である劉邦は北側の席へ静かに正座した。そして最下席の東側に張良が着席して、ようやく酒宴の始まりとなった。

幕舎の周囲からは、楚軍の臣下たちがヒソヒソと遠慮がちに会話をする声と、パチッパチッと薪の()ぜる音が聞こえていた。

陣中だというのに、酒、肉、魚料理が次々と卓上に並び、項伯の乾杯の音頭とともに各自、盃を飲み干した。
男盛りである項羽の食欲は凄まじく、目の前の料理を片っ端から平らげ、酒で腹に流し込んだ。
他の三人に至っては、料理をほんの少し口にしただけで、もっぱら酒をチビチビと舐めるように飲んでいた。

酒宴が穏やかに進行するなか、時を見計らった范増が、項羽に目配せして、劉邦・殺害の合図をおくった。
(かね)てからの打ち合わせでは、項羽が臣下たちに命じて劉邦を襲撃させることになっていたのだが、この范増の合図を、項羽は完全に無視したのだった。
此のときの
項羽の心情はどうであったか?
想像してみよう...

好物の酒と料理で腹が満たされ、怒りの感情がかなり抑えられていたうえ、不思議と気分が良かった。
久方ぶりに穏やかな心持ちで時を過ごせており、酒の酔いも手伝って猜疑心も薄れて開放的になっていた。
なのに、わざわざ人を殺して自身の気分を害したくはない...
尊敬する亜父・范増に対して無視を決め込んだ理由は、この酒宴の穏やかな雰囲気を故意に乱すことを避けたのと、他ならぬ項羽自身の勝手な我が儘だったのではないだろうか...

感情に流され、本来優先すべき責務を放棄したことは最高位の将軍として、あるまじき行動であり、後々の項羽の命運を暗示しているといっても過言ではない。

そんな態度の項羽に対して、范増は怒り心頭であったが、劉邦を殺害すると決意していた范増は、項羽に対する怒りを目的達成の執念に変えた。
知恵を絞れば、手段はいくらでも出てくるのだ...

項羽の従兄弟(いとこ)である項荘(こうそう)を呼び寄せて小声で命じた。
剣舞をこの場で披露し、頃合いを見て、あの沛公・劉邦を刺せ!と...

「カーン、カン、カッカッカカーン...」
(しょう)(金属の銅などでできた円盤状の楽器、槌で打奏する。元々、戦いの合図として鳴らした。)のカン高い音色が室内に響き渡り、項荘は、ゆるやかな動作で舞を披露し始めた。
鉦の音色に合わせ緩急をつけた見事な舞であった。
項羽も満足そうに、その剣舞を観賞しながら酒を(あお)っている。

その項羽とは対象的に、劉邦の表情からは何も読み取れず、頻繁に盃を口元に運んでいるの
だが、実際には酒を飲んでいる振りをしていただけであった...

項荘の剣舞も、中盤に差し掛かったようで機敏な動きで剣を自在に操っている。
眼球の動きで真意を悟られないように、伏し目がちに舞い続け、劉邦へと距離を縮めていく...

とその時、項伯が手にしていた盃を放り出し、側にいた臣下の剣を奪い取るとサッと中央の舞台へと躍り出た!

項荘から何やら殺気のようなものを敏感に感じ取った項伯は、あれこれと考える(いとま)もなく自然と体が動いてしまい、 項荘の動きを封じるために自らが盾になったのであった。

至近距離で、小気味よく打ち合ったかと思えばパッとお互いに離れ、間合いを取りながら牽制しあう。
鉦の音色と、剣を激しく打ち合う音が場内に反響した。
思いがけないことではあったが、身内同士による火花を散らす剣舞が繰り広げられた...

項伯の身を呈した行動に、張良は気転をきかせ
外で待機している樊噲(はんかい)に知らせに走り、劉邦を危機から救い出すように依頼したのだった。

突然、周囲が騒々しくなり罵声が響き渡った。

「どけ、どけぇーっ!!邪魔だてする者は容赦せぬぞ!」
「お待ちくだされ!」
「上将軍の陣中ですぞー!無礼な!」

「ガシャンッ!ドカッ、ドカッ...」

怒号の後に、物が倒れる音が続き、これはただ事ではないと察した宴席にいる全員が、動作をピタリと止めて耳をそばだてている。

バッ!!と勢いよく登場した樊噲は、鬼神のごとき形相であった。
顔面は真っ赤に紅潮し、眉毛を吊り上げ叫んだ!

「我は、沛公の臣下 樊噲である!
沛公の命を救いださんと参上いたしたー!
関を封鎖したるは、賊を侵入させんがため他意はありませぬ!
沛公の離反を疑うのは愚の骨頂。
上将軍ともあろう方が、宴席を利用して配下の将を謀殺しようなどとは、情けない限り!
沛公の忠義を何と思われるかっ!」

樊噲の屈強な体から放たれた全身全霊を込めた演説に圧倒される項羽であったが、そこは腹の据わった猛者(もさ)だけに男らしい振る舞いをした。

「...樊噲とやら、そなたの主君への忠誠心には、感心この上無い。
おい、樊噲に酒を!
肉も新たに切ったものを持って参れ!」
項羽は、よく通る低い声で、給士に命じた。

樊噲は立ったまま酒を一気に飲み干すと、ドカッとその場に座り、肉を自分の剣で器用に切り分けて豪快に食した。
樊噲は、もと屠狗者(とくしゃ)(犬を捕らえて、その肉を捌いて商いをする者)で、肉を切り分けるのは得意であった。
項羽は、樊噲の、その豪傑振りを楽しそうに眺めている...
劉邦軍は、こうした身分が低いけれども、志の高いものを積極的に仲間に入れることで大軍に成長していったのだった。

この項羽と樊噲の、やり取りを尻目に劉邦は厠に行くと嘘をついて、そそくさと席を空けた。

衛兵たちの死角を縫って逃走した劉邦は、無事に駐屯地である㶚上(はじょう)(㶚水の南に位置しており、咸陽を見通すことのできる高台、鴻門が北東にある)に辿り着くことに成功した。
仲間たちの気転に助けらたのは間違いないが、殺されてしまう条件は完璧に揃っていた。
だが、目に見えない何かに導かれるかのように命拾いした劉邦は、強運の持ち主であるとしか言いようがない。

酒宴が、お開きとなり張良は、項羽と范増の前に膝まずき、酒宴のお礼と劉邦が酒に悪酔いしてしまい中座したことを陳謝した。

「この品は沛公より仰せつかりましたものですが、上将軍様に白璧(はくへき)(白色の美しい玉)を一対。范増様には玉斗(ぎょくと)(玉で作られた酒を酌む柄杓)一対を献上致すようにと....」

「うむ、さようか...
張良よ、大儀であった。
沛公にも、そのように申し伝えるがよいぞ!」

「はっ!身に余る御言葉をいただき光栄にございます!」

項羽が立ち去り、張良が退室した(のち)に、范増が一人残っていた。

項荘が使っていた剣をグッと握ったかと思うと、それを頭上に高々と振り上げ渾身の力を込めて玉斗を打ち砕いた!
劉邦が献上した玉斗は、砕けて見るも無残な姿を変わり果ててしまったのだった。

「あの青二才め(項荘)!
しくじりおって!!」
范増が憎々しげに言いはなった。

~あの劉邦は、恐るべき男。
我らが、負けるとすれば奴しかおらぬ...
はぁ...絶好の機会を逃してしまったわい。
項羽様の詰めの甘さも懸念されるが...あぁ、この虚しさを如何(いかん)ともし難い。
もう、この老いぼれに出来ることは、ため息をつくことのみか?...

その後、秦を壊滅させた項羽は、自身を『西楚の覇王』(せいそのはおう)と称し、都を彭城(ほうじょう)(故郷の江蘇省 徐州市)に定め統治を始めた。
推戴(すいたい)してきた楚の懐王に義帝(ぎてい)の尊称を与え、功績のある将には、王とし各地を分封したのだった。
十八王を任命したのが紀元前二0六年四月
劉邦は、咸陽から南に位置する漢水の上流の地域(陝西省の南部)である漢中に『漢中王』として封じられ、他の王たちと同じく封国に赴いたのだった。

しかし項羽が統治したのも束の間、翌月の五月には、十八王から徐封された将たちが、これを不服として反乱を起こした。
勿論、劉邦も僻地である漢中に飛ばされたことを不満を持っていたわけで、この反乱に乗じて関中に進行した。関中は三分割されて秦の降将である章邯、(しょうかん)司馬欽(しばきん)董翳(とうえい)を攻撃すると、次々と勝利を治めた。ついで河南王の甲陽(しんよう)も降伏したため、関中の地を併合、統治していく。
漢王朝の誕生であった...

この後も、反乱は頻発して項羽は対応に追われて国を統治するどころでは無くなる。
その間に劉邦は、着々と力を蓄えていた。
やがて、覇王項羽が、楚の義帝を弑逆したことが口火となり『楚軍』と『漢軍』の抗争へと移行していくのだった...













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