第18話 天空の龍
文字数 2,889文字
「琳曄様!
絶対に下を見ては、いけませぬぞ!」
瑛成は自分の背中に必死で、しがみついている琳曄に向かって強い語気で注意をした。
「...わっ、わかった。」
琳曄は辛うじて返事をしたが、額には脂汗 が滲 み顔色は蒼白であった。
恐怖で瞼を開けることも出来ないのだ。
下を見るなんて、とんでもない!という心境なのである。
崋山に入山したと告げられても、最初は良くわからずにいた。
今までの道中と、さして変わらないではないか?
などと悠長なことを考えていたのだ。
...だが今は、そんな甘い考えは吹き飛んでしまい跡形もない。
瑛成が先頭を、最後尾は秀慧が務め、琳曄を挟んだ格好で一行は先を急いだ。
山の北側から登り始め、中腹に近づくにつれ急勾配となり岩場に一歩を踏み込むのも、琳曄は苦労した。
まだ年端も行かぬ琳曄の体格と体力で登れるのは、この地点が限界のようである。
琳曄は、やがて目前に迫った光景に度肝を抜いた。
ほぼ垂直に見える絶壁が天に向かって聳 え立ち、来るもの全てを拒んでいるようだった。
あまりの迫力に固唾を呑み込み、両手をギュッと握り締めた。爪が手のひらに食い込んだ痛みさえ、全く気付かなかった。
「え、瑛成、ここを登るのか?」
このような岩壁を、人が登れるなど出来るはずがない...と琳曄は思った。
「はい。私の住まいは、この岩壁の上まで登り、更にその先にございますので」
「それは、まことか?!」
想像を絶する事態に、琳曄の思考は混乱した。
「瑛成、私には無理だ!」
「ですが、ここを登るのが一番の近道。
遠回りすれば日が暮れて、今日中には辿り着けませぬ。
琳曄様は、私が背負って登ります。
この綱で縛 り、互いの身体が離れぬよう頑丈に固定すれば大丈夫でございます。」
と腰に巻き付けてある綱に手を添えなから言った。
綱で縛る?
琳曄は、ますます困惑した。
背後を振り返り、助けを求めるように秀慧を見つめたのだが、その手には瑛成から受け取った綱が既に握られていた。
しっかりと縒 った麻の綱は、しなやかで強度もなかなかである。劣化しやすいのが難点だが、秀慧が手にしているものは縒って間もない新品のようだった。
長さは四歩 ほど(約5メートル)、太さは琳曄の手首くらいあるだろうか。
「琳曄様、気が進まないのは重々承知しておりますが、叔父上を信頼なさってくださいませ。」
秀慧は諭すように訴えた。
琳曄は無言で下を向いている。
「さあ、琳曄様。よろしいですか?
綱をお掛けしますので叔父上の背後に立っていただけますでしょうか。」
秀慧に促され、渋々と瑛成の後ろへと移動した。
綱は、琳曄の両脇の下から通され、瑛成の肩の上に置かれた。
瑛成は、それを胸の前で交差させ、後ろへと回しながら前屈 みになり琳曄をおぶった。
そして秀慧が、琳曄の太股 の下から通した綱を、臀部 の下で交差させて再び瑛成に手渡す。
ググッと綱を絞め直し、みぞおちの前で固く結んだ。
...こうして、瑛成に背負われた琳曄は恐怖で生きた心地もせずに岩壁を登っているのである。
正確に表現すれば、登ってはいないのだが...
実際に、よじ登っている二人よりも必死であったことは間違い無かった。
瑛成の背中で小さく縮こまり、平らな地面に早く着いて欲しい...そればかり考えていた。
時が過ぎるのを、これほど長く長く感じたのは生まれて初めてのことで、本当に時が止まったのではないか?
と考えてしまうほどであった。
琳曄の目線では垂直に見えた絶壁も、瑛成と秀慧にとって、これしきの傾斜は大したことではないのである。
二人は、まるで蜘蛛がスイスイと壁を這うように岩壁を登っている。が相当の鍛練を積んだであろうことは想像にかたくない。
やがて一行は、北峰頂上に無事に到着した。
「琳曄様、もう目を開けても構いませぬぞ。」
と言って瑛成は胸元の綱をほどき始めた。
琳曄はギュッと閉じた瞼を弛 め、静かに目を開けた。
最初は、ぼんやりと霞んで見えた景色も瞬きを数回すると焦点が合い、一気に視界が広がった。
起伏にとんだ美しい姿の峰々がどこまでも続き、ノミで彫ったかのように鋭く尖った岩壁が切り立ち、花崗岩の黄土色が太陽に照らされ白く反射している。
緑の木々は、苔が生えているかのように不規則に点在し、山から平野に下降するにつれ緑が濃く茂っている。
極度の緊張状態から解放された琳曄にとって、その目に映った雄大な景色は本当に素晴らしかった。
琳曄は、身中に溜まった余計な澱 のようなものが、頭の天辺 からスーッと抜けて、体と心が羽毛のように軽くなっていくのを実感するのだった。
~あぁ...なんて気持ちが良いのだろう。
と琳曄は思った。
先程までの恐怖心が嘘のように消えてしまい、清々しい気分に浸っている様子である。
「琳曄様?さて、そろそろ下ろしますぞ...」
瑛成が声を掛けた。
「あっ、キャッ!!」
景色に心酔していた琳曄は、地面に落ちてズテンと尻餅をついてしまった。
「痛ったーい!」
「やっ! これは御無礼を致しました!」
心配した瑛成が慌てて、しゃがみこんだ。
「イタタタッ...」
臀部を摩 りながら、ゆっくり立ち上がろうとする琳曄を瑛成は手助けした。
「琳曄様、大丈夫ですか?」
「う、うん。痛むけれど平気...」
眉間にシワをよせて苦笑いの表情を見せた。
「お怪我が無いようで安堵致しました。」
瑛成は笑顔で言った。
秀慧は琳曄の服に着いた汚れを、はらいながら、ここまで無事でこれたことを天に感謝していた。
~もう安心して大丈夫...
もはや、誰も追ってはこれまい。
長い道中であったが、琳曄様は、あのように健気にも笑顔を見せてくださっている。
...欣怡様、無事に崋山に着くことが出来ました。どうぞ、ご安心なさってください。
秀慧の目頭からは、一滴 の涙が落ちた。
「琳曄様、あの尾根を渡れば我が住まいは間近にございます。」
と瑛成は告げた。
「えっ!あそこを歩く?!」
琳曄は、またしても胃の府がひっくり返りそうなほど驚いた。
瑛成が指差した尾根は、かなり婉曲しており
その幅に至っては四尺(92センチメートル)少々あるだろうか...
一歩間違えば確実に奈落の底に真っ逆さまである。
あたかも、躍動しながら天空へと昇る龍の背中に見えた。
その時、秀慧が琳曄の肩を抱き寄せ、励ますように言った。
「大丈夫です。
わたくしが後ろに付いておりますから、必ずや御守り致します!
琳曄様は前だけを向いて、お進みください。」
「ん、わかった。」
琳曄は素直にうなずくのであった。
逃げだしたい気持ちでいっぱいであったが、この場所に留 まっていても、瑛成の住まう処に着くはずも無い。
秀慧が付いてくれてるのだから、平気だ。
と自分に言い聞かせた。
瑛成が、先ほどの綱を自身の腰に巻き、わざと余剰が出るように結び目をつくった。その先方を琳曄の腰に巻き付けて固く結んだ。
「さて、龍の背中に乗りますかな!」
と瑛成は、さも愉 しい遊びを今からするのだ!と言わんばかりに琳曄に笑顔を向けた。
琳曄には笑顔を返す余裕など、もちろん無かったが、しっかりと前を向いて頷 いて応えた。
いま、琳曄の瞳に映っているのは、尾根の先に続く自身の未来なのかもしれない...
絶対に下を見ては、いけませぬぞ!」
瑛成は自分の背中に必死で、しがみついている琳曄に向かって強い語気で注意をした。
「...わっ、わかった。」
琳曄は辛うじて返事をしたが、額には
恐怖で瞼を開けることも出来ないのだ。
下を見るなんて、とんでもない!という心境なのである。
崋山に入山したと告げられても、最初は良くわからずにいた。
今までの道中と、さして変わらないではないか?
などと悠長なことを考えていたのだ。
...だが今は、そんな甘い考えは吹き飛んでしまい跡形もない。
瑛成が先頭を、最後尾は秀慧が務め、琳曄を挟んだ格好で一行は先を急いだ。
山の北側から登り始め、中腹に近づくにつれ急勾配となり岩場に一歩を踏み込むのも、琳曄は苦労した。
まだ年端も行かぬ琳曄の体格と体力で登れるのは、この地点が限界のようである。
琳曄は、やがて目前に迫った光景に度肝を抜いた。
ほぼ垂直に見える絶壁が天に向かって
あまりの迫力に固唾を呑み込み、両手をギュッと握り締めた。爪が手のひらに食い込んだ痛みさえ、全く気付かなかった。
「え、瑛成、ここを登るのか?」
このような岩壁を、人が登れるなど出来るはずがない...と琳曄は思った。
「はい。私の住まいは、この岩壁の上まで登り、更にその先にございますので」
「それは、まことか?!」
想像を絶する事態に、琳曄の思考は混乱した。
「瑛成、私には無理だ!」
「ですが、ここを登るのが一番の近道。
遠回りすれば日が暮れて、今日中には辿り着けませぬ。
琳曄様は、私が背負って登ります。
この綱で
と腰に巻き付けてある綱に手を添えなから言った。
綱で縛る?
琳曄は、ますます困惑した。
背後を振り返り、助けを求めるように秀慧を見つめたのだが、その手には瑛成から受け取った綱が既に握られていた。
しっかりと
長さは
「琳曄様、気が進まないのは重々承知しておりますが、叔父上を信頼なさってくださいませ。」
秀慧は諭すように訴えた。
琳曄は無言で下を向いている。
「さあ、琳曄様。よろしいですか?
綱をお掛けしますので叔父上の背後に立っていただけますでしょうか。」
秀慧に促され、渋々と瑛成の後ろへと移動した。
綱は、琳曄の両脇の下から通され、瑛成の肩の上に置かれた。
瑛成は、それを胸の前で交差させ、後ろへと回しながら
そして秀慧が、琳曄の
ググッと綱を絞め直し、みぞおちの前で固く結んだ。
...こうして、瑛成に背負われた琳曄は恐怖で生きた心地もせずに岩壁を登っているのである。
正確に表現すれば、登ってはいないのだが...
実際に、よじ登っている二人よりも必死であったことは間違い無かった。
瑛成の背中で小さく縮こまり、平らな地面に早く着いて欲しい...そればかり考えていた。
時が過ぎるのを、これほど長く長く感じたのは生まれて初めてのことで、本当に時が止まったのではないか?
と考えてしまうほどであった。
琳曄の目線では垂直に見えた絶壁も、瑛成と秀慧にとって、これしきの傾斜は大したことではないのである。
二人は、まるで蜘蛛がスイスイと壁を這うように岩壁を登っている。が相当の鍛練を積んだであろうことは想像にかたくない。
やがて一行は、北峰頂上に無事に到着した。
「琳曄様、もう目を開けても構いませぬぞ。」
と言って瑛成は胸元の綱をほどき始めた。
琳曄はギュッと閉じた瞼を
最初は、ぼんやりと霞んで見えた景色も瞬きを数回すると焦点が合い、一気に視界が広がった。
起伏にとんだ美しい姿の峰々がどこまでも続き、ノミで彫ったかのように鋭く尖った岩壁が切り立ち、花崗岩の黄土色が太陽に照らされ白く反射している。
緑の木々は、苔が生えているかのように不規則に点在し、山から平野に下降するにつれ緑が濃く茂っている。
極度の緊張状態から解放された琳曄にとって、その目に映った雄大な景色は本当に素晴らしかった。
琳曄は、身中に溜まった余計な
~あぁ...なんて気持ちが良いのだろう。
と琳曄は思った。
先程までの恐怖心が嘘のように消えてしまい、清々しい気分に浸っている様子である。
「琳曄様?さて、そろそろ下ろしますぞ...」
瑛成が声を掛けた。
「あっ、キャッ!!」
景色に心酔していた琳曄は、地面に落ちてズテンと尻餅をついてしまった。
「痛ったーい!」
「やっ! これは御無礼を致しました!」
心配した瑛成が慌てて、しゃがみこんだ。
「イタタタッ...」
臀部を
「琳曄様、大丈夫ですか?」
「う、うん。痛むけれど平気...」
眉間にシワをよせて苦笑いの表情を見せた。
「お怪我が無いようで安堵致しました。」
瑛成は笑顔で言った。
秀慧は琳曄の服に着いた汚れを、はらいながら、ここまで無事でこれたことを天に感謝していた。
~もう安心して大丈夫...
もはや、誰も追ってはこれまい。
長い道中であったが、琳曄様は、あのように健気にも笑顔を見せてくださっている。
...欣怡様、無事に崋山に着くことが出来ました。どうぞ、ご安心なさってください。
秀慧の目頭からは、
「琳曄様、あの尾根を渡れば我が住まいは間近にございます。」
と瑛成は告げた。
「えっ!あそこを歩く?!」
琳曄は、またしても胃の府がひっくり返りそうなほど驚いた。
瑛成が指差した尾根は、かなり婉曲しており
その幅に至っては四尺(92センチメートル)少々あるだろうか...
一歩間違えば確実に奈落の底に真っ逆さまである。
あたかも、躍動しながら天空へと昇る龍の背中に見えた。
その時、秀慧が琳曄の肩を抱き寄せ、励ますように言った。
「大丈夫です。
わたくしが後ろに付いておりますから、必ずや御守り致します!
琳曄様は前だけを向いて、お進みください。」
「ん、わかった。」
琳曄は素直にうなずくのであった。
逃げだしたい気持ちでいっぱいであったが、この場所に
秀慧が付いてくれてるのだから、平気だ。
と自分に言い聞かせた。
瑛成が、先ほどの綱を自身の腰に巻き、わざと余剰が出るように結び目をつくった。その先方を琳曄の腰に巻き付けて固く結んだ。
「さて、龍の背中に乗りますかな!」
と瑛成は、さも
琳曄には笑顔を返す余裕など、もちろん無かったが、しっかりと前を向いて
いま、琳曄の瞳に映っているのは、尾根の先に続く自身の未来なのかもしれない...