第12話 決心
文字数 2,587文字
始皇帝の妻の存在が記されたものは見つかっていないようだが、司馬遷 の「史記」のなかで「始皇本紀」と「季斯列伝」に子供たちは公子が二十人、公主が十人との記述がある。
そして、公子十二人と公主十人が二世皇帝の命令で殺された...と記されている。
紀元前 二 0九年 五月
琳曄は、ある日の夕刻に母の欣怡と秀慧が肩を寄せあって泣いている姿を見た。
母の涙を見たのは父上が亡くなったときだけで、直感的に琳曄は誰か死んでしまったのだとわかった。
「母上...」琳曄は呼びかけた。
欣怡は指先で涙をぬぐい感情を落ち着かせようと呼吸を整えている。
「琳曄...こちらへ」と欣怡は呼び寄せた。
琳曄は、母のふっくらとして柔らかな腰のあたりにそっと抱きついた。
「今日、陛下のご命令であなたの兄上と姉上の多くが亡くなりました。本当に酷 い仕打ちです。」と琳曄に告げた。
琳曄は、自身の左胸から『ドックン』という強い拍動を感じた。
目の前がチカチカと点滅し視界がぐにゃりと歪んだ。脳裏には、かつて夢で見た悲惨な光景が鮮やかによみがえり気を失いそうになった。
母にギュッと抱きついて、かろうじて堪 えることができた。
「...亡くなった? 陛下は、なぜそんな酷 いことをしたの?」
「ご自分の立場を守るためでしょう。おそらく郎中令(趙高)が、裏で糸を引いてるはずです。」
幼い娘には理解できないと思ったが、誤魔化すよりも事実を伝えたほうが、娘の将来のためには良いのではないかと咄嗟 に考慮したのであった。
「家族なのに、変です。仲良く...できないのですか?」
欣怡は、悲しみを湛 えた眼差 しを娘に向けた。
「琳曄...家族ゆえに仲良くできないのですよ。いつか、わかるときがきます。」
「はい...」と琳曄は答えただけであった。
親子の様子を見守っていた秀慧は、嗚咽を漏らすまいと右手で口元をしっかりと押さえた。
公子公主達の処刑が執行されたこの日、欣怡は決心した。
自分の命にかえても娘を絶対に守る。
人は、心が決まるとスッと揺らぎがおさまり不思議と知恵が湧きはじめる...
「いよいよ差し迫った状況になりました。いつ刃 を向けられてもおかしくはない...
秀慧、わたくしの願いを聴いて欲しい。
あなたに琳曄を託したいのです。わたくしが共に参れば足手まとい、逃げ切ることは到底かなわないでしょう。
あなたが自分の生い立ちを話してくれたときのことを思い返していました。
秀慧、あなたが本当は私生子であること。そして育ててくれた叔父上から様々な教えを受けたことを...」
秀慧は、主人である欣怡を真摯に見つめて沈着に答えた。
「はい、確かにそのように申し上げました。」
秀慧の一族である張 家は、秦国第二十五代の孝公 (紀元前三八一年~三三八年)の時代に、魏の国から商鞅 (法家)とともに仕官した。
この頃の秦国は、穆公 (紀元前六五九年~六二一年)以来の勢いが少しずつ衰え国力が弱体化しきっていた。
孝公が即位し、国を建てなおすために他国からも優秀な人材を求めたのだった。
孝公が望んだ『富国強兵』
商鞅が推し進めた『中央集権』が成功し、法治国家としての秦国の礎をつくった。
張一族は武芸に大変優れていたため、この時の活躍が攻を奏して大夫 の称号を賜ったのであった。
秀慧の母は、歳が四つ離れた兄の孟成 と二つ下の弟瑛成 の間に長女として生まれた。
名を春慧 といい、手先が器用で裁縫が得意な娘であった。
生まれつき体があまり丈夫ではなく、屋内で過ごすことが多かったため自然と裁縫をするようになったようだ。太陽の下で長いこと過ごしたことがないため、肌は白く、蕾がひらいたばかりの透き通った花弁のようであった。髪と瞳は漆黒と言ってよいほどの艶やかで深みのある黒色。
年頃になった春慧は、母方の従兄弟 で二歳年上の鄭 啓丹 と恋仲になった。
幼い時分から仲が良く、二人でいると話さなくても何故か通じ合うものを感じた。しばらく会わない年月もあったが、再び啓丹が訪ねてくるようになって間もなく、どちらからともなく恋に落ちた。二人は、お気に入りの裏山で逢い引きを重ね、心と体も一つに重ねた。
啓丹は、明るい性格で笑顔が爽やかな好青年であった。弩 (機械仕掛けの弓)を得意とし遠征にも従軍していた。
啓丹が遠征に出発するときに必ず持参していたのは、春慧が白木蓮 の刺繍をほどこした匂袋であった。彼女と同じく甘く香 しい匂いがした。
未来は希望に満ちていたに違いない...
だが運命は、若い恋人たちを非情な結末に導いたのだった。
啓丹は、趙での激しい戦闘の最中に二十歳という若さで命を落とした。
啓丹の幼なじみで、同じく趙での戦いに従軍していた青年が訃報を知らせてくれた。
そして青年が帰り際に、懐から取り出したのは
春慧が作ったあの匂袋であった。
春慧は、その匂袋をずっと握りしめて涙が枯れるまで泣いていたという...
訃報を承けてから数日が過ぎたころに
春慧の懐妊がわかった。
やがで臨月を迎え、珠のような女の赤ん坊を無事に出産したのものの元々、体が丈夫ではなかったこともあり産後の肥立ちが悪く、春慧はあっというまに亡くなってしまった。
享年二十歳であった...
生まれた娘は、秀慧 と名付けられた。
この子は、これからの生涯を母の顔も愛情も知ることなく生きていかなくてはならないのかと伯父の孟成 夫妻は心から不憫に思った。
夫妻は、まだ子供を授かっていなかったのもあり妹の忘れ形見である秀慧を養女として迎え入れ大切に育てた。
秀慧は物心がつくころから読み書きを孟成に教わり、家事全般を伯母に仕込まれた。
叔父の瑛成は少し風変わりな人物で、姪である秀慧に剣術や槍、武芸、馬術、瞑想など身体と心の鍛錬を教授したのであった。
瑛成は物心がついた頃より好んで道家思想を学び自己の修練を積み重ねて、一種独特の世界観の中で生きていた。
秀慧は、そのような叔父に影響を受けて育ち柔軟な生きかたを学んだといえる。
「秀慧、どうか...叔父上の瑛成殿に協力を願います。琳曄が助かるには是非ともあなた方の力が必要なのです!」
欣怡は、秀慧の両手を強く握りしめ必死に訴えた。
「欣怡様...承知致しました。
お役にたてるのであれば、これほど名誉なことはございません!」
秀慧は、心の中枢にしっかりと要 が刺ささるのを感じた。
魔物が牙を剥いて襲いかかってくるのは、もう時間の問題であった。
そして、公子十二人と公主十人が二世皇帝の命令で殺された...と記されている。
紀元前 二 0九年 五月
琳曄は、ある日の夕刻に母の欣怡と秀慧が肩を寄せあって泣いている姿を見た。
母の涙を見たのは父上が亡くなったときだけで、直感的に琳曄は誰か死んでしまったのだとわかった。
「母上...」琳曄は呼びかけた。
欣怡は指先で涙をぬぐい感情を落ち着かせようと呼吸を整えている。
「琳曄...こちらへ」と欣怡は呼び寄せた。
琳曄は、母のふっくらとして柔らかな腰のあたりにそっと抱きついた。
「今日、陛下のご命令であなたの兄上と姉上の多くが亡くなりました。本当に
琳曄は、自身の左胸から『ドックン』という強い拍動を感じた。
目の前がチカチカと点滅し視界がぐにゃりと歪んだ。脳裏には、かつて夢で見た悲惨な光景が鮮やかによみがえり気を失いそうになった。
母にギュッと抱きついて、かろうじて
「...亡くなった? 陛下は、なぜそんな
「ご自分の立場を守るためでしょう。おそらく郎中令(趙高)が、裏で糸を引いてるはずです。」
幼い娘には理解できないと思ったが、誤魔化すよりも事実を伝えたほうが、娘の将来のためには良いのではないかと
「家族なのに、変です。仲良く...できないのですか?」
欣怡は、悲しみを
「琳曄...家族ゆえに仲良くできないのですよ。いつか、わかるときがきます。」
「はい...」と琳曄は答えただけであった。
親子の様子を見守っていた秀慧は、嗚咽を漏らすまいと右手で口元をしっかりと押さえた。
公子公主達の処刑が執行されたこの日、欣怡は決心した。
自分の命にかえても娘を絶対に守る。
人は、心が決まるとスッと揺らぎがおさまり不思議と知恵が湧きはじめる...
「いよいよ差し迫った状況になりました。いつ
秀慧、わたくしの願いを聴いて欲しい。
あなたに琳曄を託したいのです。わたくしが共に参れば足手まとい、逃げ切ることは到底かなわないでしょう。
あなたが自分の生い立ちを話してくれたときのことを思い返していました。
秀慧、あなたが本当は私生子であること。そして育ててくれた叔父上から様々な教えを受けたことを...」
秀慧は、主人である欣怡を真摯に見つめて沈着に答えた。
「はい、確かにそのように申し上げました。」
秀慧の一族である
この頃の秦国は、
孝公が即位し、国を建てなおすために他国からも優秀な人材を求めたのだった。
孝公が望んだ『富国強兵』
商鞅が推し進めた『中央集権』が成功し、法治国家としての秦国の礎をつくった。
張一族は武芸に大変優れていたため、この時の活躍が攻を奏して
秀慧の母は、歳が四つ離れた兄の
名を
生まれつき体があまり丈夫ではなく、屋内で過ごすことが多かったため自然と裁縫をするようになったようだ。太陽の下で長いこと過ごしたことがないため、肌は白く、蕾がひらいたばかりの透き通った花弁のようであった。髪と瞳は漆黒と言ってよいほどの艶やかで深みのある黒色。
年頃になった春慧は、母方の
幼い時分から仲が良く、二人でいると話さなくても何故か通じ合うものを感じた。しばらく会わない年月もあったが、再び啓丹が訪ねてくるようになって間もなく、どちらからともなく恋に落ちた。二人は、お気に入りの裏山で逢い引きを重ね、心と体も一つに重ねた。
啓丹は、明るい性格で笑顔が爽やかな好青年であった。
啓丹が遠征に出発するときに必ず持参していたのは、春慧が
未来は希望に満ちていたに違いない...
だが運命は、若い恋人たちを非情な結末に導いたのだった。
啓丹は、趙での激しい戦闘の最中に二十歳という若さで命を落とした。
啓丹の幼なじみで、同じく趙での戦いに従軍していた青年が訃報を知らせてくれた。
そして青年が帰り際に、懐から取り出したのは
春慧が作ったあの匂袋であった。
春慧は、その匂袋をずっと握りしめて涙が枯れるまで泣いていたという...
訃報を承けてから数日が過ぎたころに
春慧の懐妊がわかった。
やがで臨月を迎え、珠のような女の赤ん坊を無事に出産したのものの元々、体が丈夫ではなかったこともあり産後の肥立ちが悪く、春慧はあっというまに亡くなってしまった。
享年二十歳であった...
生まれた娘は、
この子は、これからの生涯を母の顔も愛情も知ることなく生きていかなくてはならないのかと伯父の
夫妻は、まだ子供を授かっていなかったのもあり妹の忘れ形見である秀慧を養女として迎え入れ大切に育てた。
秀慧は物心がつくころから読み書きを孟成に教わり、家事全般を伯母に仕込まれた。
叔父の瑛成は少し風変わりな人物で、姪である秀慧に剣術や槍、武芸、馬術、瞑想など身体と心の鍛錬を教授したのであった。
瑛成は物心がついた頃より好んで道家思想を学び自己の修練を積み重ねて、一種独特の世界観の中で生きていた。
秀慧は、そのような叔父に影響を受けて育ち柔軟な生きかたを学んだといえる。
「秀慧、どうか...叔父上の瑛成殿に協力を願います。琳曄が助かるには是非ともあなた方の力が必要なのです!」
欣怡は、秀慧の両手を強く握りしめ必死に訴えた。
「欣怡様...承知致しました。
お役にたてるのであれば、これほど名誉なことはございません!」
秀慧は、心の中枢にしっかりと
魔物が牙を剥いて襲いかかってくるのは、もう時間の問題であった。