第5話「カレイの中華レンジ蒸し」

文字数 10,888文字

 香織は目の前の光景に戦慄していた。頭の中はパニック状態で、ぐるぐると色んな考えが駆け巡った。
 一体、どうしてこんなことになってしまったのだろう。どこで道を間違えてしまったのだろう。いや、これは夢だ。こんなことがあるはずがない。
 それでもやっとのことで、落ち着きを取り戻してきて、香織は指で眼鏡の位置を直した。もう一度、しっかりとよく見て確認してみたが、やはり状況は変わらなかった。
 乗っている体重計の針が、通常よりもプラス五キロの数値を指していた。
「う~そ~で~しょ~、これ~!?」
 香織は深い闇の中に引きずり込まれる気分がした。呼吸も乱れて苦しく、吐き気さえしてくる。
 その時、「どうしたの、香織ちゃん?」とモモ子が洗面所に入ってきた。 
「べ、別に……!」
 香織は慌てて体重計を下りる。
 モモ子は目を細め、口の端を上げていやらしい笑みを浮かべた。
「香織ちゃん、あんたやっちまったね?」
「やってないやってない。ふつー、ふつー」
 香織は小刻みに首を横に振った。
「うそばっかり。猫の目は騙せないよ。さあ、白状してごらん? 何キロ増えたの?」
 モモ子の瞳が輝いている。完全にからかいモードに入っている目だ。
「どいて! 遅刻しちゃう!」
 香織はモモ子を押しのけて、階段を駆け上がった。部屋に戻って、急いで着替えて出勤用のバッグを手に取った。ダウンジャケットを羽織りながら、階段を駆け下りて玄関へと向かう。
 するとモモ子がニンマリと笑みを浮かべて待ち構えていた。
「香織ちゃ~ん、どのくらい太っちゃったの~? 教えて~」
「うるさいっての!」
 香織はモモ子の横をすり抜けて、勢いよくドアを開けて、外へと出た。
 冬の朝の陽ざしは穏やかで、凛とした冷たい空気が肌を刺した。中学生たちが寒そうに肩をすくめながら登校している。
 香織は大股で進み、すぐにバス停へと着いた。腹の辺りを触り、つまんでみると、やはりかなり肉がついている。最近、座った時とか、腹部に感じる圧が強くなってきていて、ヤバいなとは思っていた。が、怖くて体重計の乗るのを避けていたのだ。
 太ったのはこの前の失恋のせいで、酒の量が増えたからだろう。クリスマス、お正月もモモ子と誠也と家の中でゴロゴロしながら、飲んだり食ったりしているだけだった。太らないほうがおかしい。お肌も相変わらずカサカサだ。全く、最近、悪いことばかりが続いている……。香織はため息をついた。

 重たい気持ちを引きずったまま、午前の仕事を終えて、お昼休憩をとった後、香織は児童書コーナーへと出た。絵本の棚は本が逆さまに入っていたり、子供がいたずらで入れた文庫本や雑誌があったりして、しっちゃかめっちゃかになっていた。
「ったく……どうなってんのこれ」
 香織はげんなりとして、肩を落とした。
 児童書コーナーは子供たちが使うので、本棚がすぐに荒れる。さらに絵本はサイズが小さいものから大きなもの、形も長細く四角いものや楕円形のものもあったりして、整理が難しくて、作業が大変だ。棚の位置も低いので、腰に負担もかかる。だから、他の司書たちはあまり児童書コーナーの書架整理をやりたがらない。長い時間放置されたままになっていることが多いのだ。
「マジでふざけんなって……こうなる前に誰かやってよ」
香織はぼやきながらも、一番端の『あ』行の作家から本を揃えていった。本を一つ一つ取り出して、向きを変えたりしながら丁寧に収めていく。ページが取れてしまったりしているものは、後で修理するためによけておく。
 その時、後ろから「倉田さん」と声がした。振り返ると、チーフの白石さんがいた。白石さんは身長百八十センチを越えるひょろっと痩せ型の男性だ。おっとりとした目で、見下ろしてくる。ちなみに、白石さんは風邪予防の白いマスクをいつも着用しており、滅多に外さないので、どんな口をしているのか香織は知らない。
それはともかく、「何ですか?」と返事をした。
「ちょっと、狩野さんが来てまして。倉田さんに用があるんだそうです」
「え? 何でしょうか?」
「さあ……。事務室にいますので」
 「わかりました」と言って香織は立ち上がり、貸し出しカウンターの裏を抜けて、事務室へと向かった。
狩野さんというのは、さいたま市の浦和のエリアを担当している地域マネージャーだ。いわば各館をまとめるトップで、バリバリのやり手。どんなに小さなミスも見逃さない眼力は各館のスタッフたちから畏れられており、実際に会うとなると緊張してしまう。
それにしても、一体何の用件だろう? 地域マネージャーからの話となると、どこか別の館で人が足りていないのかもしれない。地域内でのスタッフの異動というのは、よくある話だ。
 事務室のドアをノックし、「失礼します」と入ると、長椅子に狩野さんが座っていた。
「どうぞ」と言われ、香織は向かいに座った。
 狩野さんは灰色にストライプの入ったスーツを着ていた。長い髪を後ろで一つにまとめ、凛とした雰囲気を纏っている。切れ長の瞳は目力がハンパない。
 狩野さんはメタルフレームの眼鏡の位置を指先で直し、ギラっと鋭い視線をこちらへと向けてきた。香織は思わず背筋が伸びてしまう。
「すいません、お忙しいのに呼び出してしまいまして」
 狩野さんが座ったままお辞儀をした。
 「いえ。大丈夫です」と香織はお辞儀を返す。
「ちょっとお話したいことがあるんです」
「はい……」
「単刀直入にお伝えします。実は本社で、倉田さんのチーフ昇進の話が上がっています」
「え……?」
 香織はポカンと口を開けてしまった。まだサブチーフになって、二年ほどしか経っていない。最低でも五年はサブを経験しないと、その上にはあがれないと聞いたことがある。
「あの……お話は嬉しいんですが、まだ早いんじゃ……」
「はい。しかし、最近わが社の請け負う図書館がどんどん増えています。人が足りないというのが現状でして」
 狩野さんは淡々と続けた。
「倉田さんは仕事のミスも少なく、接客も丁寧でしっかりとしています。スタッフに信頼されていて、利用者さんからも好かれています。本社には、常に良い報告がきているんですよ。まあ、ちょっと怒りっぽいところがたまに傷ではありますが……私はあなたを高く評価しています」
 香織は黙って聞いていた。
「それに、仕事に対する姿勢や熱意が、とても素晴らしいと思っています。今も私は見ていました。皆の嫌がる児童書コーナーの書架整理をスタッフには投げずに、自ら率先してやっていたのを。そういう心がけは、人の上に立つ者にとって、重要な事だと考えます。あなたのそういうところを、私だけでなく、他の本社の社員たちも非常に評価しているんです」
「そ、そうですか……ありがとうございます」
 香織は心の奥がぽっと温かくなった気がした。ここのところいいことがなかったけど、仕事を評価してもらえたので嬉しい。人生、山あり谷ありとはよく言ったものだ。
「問題は……チーフになった場合の担当する館なんです」
「え……?」
「四月から新しく委託を受けることになった地域なのですが、ちょっとここからだと遠くて……」
「どこですか? 都内ですか? もしかすると三郷とかそっちの方ですか? 多少遠くても、無理して通いますけど」
「いえ……」
 狩野さんは言いづらそうに口をつぐんでしまった。そして一呼吸あけてから、くいっと眼鏡のフレームを上げて口を開いた。
「三重県です」

 チーフになれば、契約社員から正社員になることができる。そうすれば、給料も上がるし手当も厚くなる。ゆくゆくは館長や地域マネージャーに昇進という可能性も出てくる。自分が仕事で評価されて出世するなんて、ちょっと前までは考えられなかった。
 もともと香織は職を転々としていた。最初は小さな広告会社の事務、その次は歯医者の受付、その次はスーパーのお総菜コーナー。映画館のスタッフ、給食のおばちゃんなんていうのもやった。しかし、どれも長続きしなかった。仕事のやり方などで上司ともめて、ついカッとなって暴言を吐いてしまい、人間関係がズタボロになってしまうというのがお決まりのパターンだった。
 ようやく落ち着いたのが、図書館の仕事。 今度は摩擦を起こさないようにしよう、同じような失敗はしないようにしよう、そう心がけた。それに、そもそも図書館に勤めている人たちはわりと穏やかな人たちが多かった。だからキレることも少なく、何とか円滑に人との関係を築くことができた。しかも、本棚の整理や本の修理、データの管理など、こまごまとした仕事も性に合っていた。利用者さんから直接感謝されると嬉しくて、やりがいも日に日に増していった。頑張ればそれだけ評価もされて、大きくなっていく充実感。それが香織の心を支える大きな柱となっていた。仕事が命というのは大げさかもしれないが、自分の中ではかけがえのない大事なものだ。
 だから、昇進の話は素直に嬉しかった。
 ……しかし、場所があまりにも遠過ぎる。
三重県て、静岡よりも西だっただろうか? 帰りのバスに揺られながら、香織はスマホで『三重』と打ち込んで検索してみる。静岡より先、愛知県の隣だった。飛行機とか使うレベルだ。狩野さんは四、五年したらこっちへ帰ってくることも可能だと話していたが、あまり当てにならない気がする。見知らぬ土地で、上手くやっていけるかどうか不安だ。
 狩野さんは自分のことを期待してくれているというようなことを言っていたが、結局、独身で身軽だし、会社からの命令を何でも素直に聞くから、いいように使われてるだけなんじゃないだろうか? それに、モモ子と誠也と別れるのは寂しい。
「いやあ……微妙だなあ……」
 バスを降りて、香織はぽつりと呟いた。悶々としながら歩いていると、腹の虫が鳴り、足元も少しふらついた。太ってしまったので、今日から食べる量を控えることにしたのだ。しかし、がっつり食べないと、ストレスもた溜まるし力も出ない……。

 家に着き、「ただいま」と居間に入ると、モモ子と誠也が「おかえり~」、「おかえりなさい」と返してきた。二人は居間のテーブルで一緒に雑誌を読んでいた。
 モモ子は尻尾を立てて、目を輝かせながら、ニヤニヤと笑みを浮かべてくる。
 まだ、太ったことをからかおうとしているみたいだ。面倒臭い奴だなあ、と香織は思って、そそくさと二階へと上がろうとした。
 すると、モモ子が通せんぼした。
「香織ちゃん、今度ここ行かない?」
 モモ子は雑誌を見せてきた。それは旅行雑誌で、表紙には山や川の写真と『秩父・奥多摩』と大きい表記。
「なんでこんなとこ? あたしたち、アウトドアってがらじゃないでしょ」
「もちろん、山登りとかカヌーとか、そういうのじゃなくて……じゃーん!」
 モモ子は神社の写真がでかでかと載っているページを開いた。『三峯神社でパワーチャージ!』というコピーが目に飛び込んでくる。
「え、何? 神社?」
「そう! ここってね、すごいんだよ! 関東一のパワースポットなんだって!」
「はあ……」
「お参りすると、必ずいいことがあるらしいの! 山川さんもここ行ったら、すぐに彼氏できたんだって!」
「え! マジで!?」
 香織は目を見開いた。
「しかも、そこそこイケメン! IT企業の高給取り! ねえ、すごいでしょ?」
 モモ子は興奮している様子で、ヒゲを揺らしている。
「アイドルやお笑い芸人でも、ここにお参りに行ってブレイクした人たちって、結構いるらしいんですよ」
 誠也が美顔ローラーで頬をマッサージしながら付け足した。
「ボクはどっちかっていうと、この近くの温泉に興味があるんですけどね。美肌の湯で、お肌ツルツルになるんですって」
 香織は「へえ」と三峯神社のページをまじまじと見た。本殿は赤や緑、金色といった艶やかな色で彩られ、龍や虎のような生き物の彫刻で装飾されている。階段の両脇にはとんでもなく太い杉の木。確かにパワーが満ち溢れている感じがする。
 簡単なマップも描かれており、山奥の中だが、神社全体はかなり広大な敷地だ。縁結びのおみくじがあったり、お寺を改装した喫茶店もあるらしい。車で少し行けば、誠也が言ったように温泉施設や地ワインの醸造所もある。
「秩父かあ。なかなか面白そうな場所だね」
「香織ちゃんさあ、最近いいことないじゃん?」
 モモ子が含み笑いして聞いてきた。
「余計なお世話だよ」
 香織は眉間に皺を寄せて突っ込んだ。
 モモ子は睨まれても全く憶することもなく、ケラケラと笑う。
「だからさ、三峯神社でいい運気をもらおうよ。これで人生、もらったも同然だよ」
 「うん、アリかも」と香織は腕を組んで頷いた。
「それに、日帰り旅行だったら、私がお弁当作るからさ」
「え? ホント!? モモ子のお弁当って、どんなの? 食べてみたい!」
 香織はそこに一番食いついた。
「期待しててね! 私のとっておきレシピだから。もちろん魚料理ね」
「へえ~、楽しみです!」
誠也も目を輝かせて、口元が緩んで今にも
よだれが出そうだ。
「じゃあ、いつ行く?」
 香織も俄然その気になってきた。
「そうだね、暖かくなってからがいいよね。私、冬の山とか絶対に嫌だし。三月後半とかがいいと思う」
 もし転勤を引き受ければ、春先にはもう向こうに引っ越しているな……と香織が思っていると、モモ子がずいと顔を近付けてきた。
「どうかな? 香織ちゃん?」
 香織は我に返った。
「え、あ、うん……そうだね。いいと思うよ」
「ボクも大丈夫です」
「じゃあ決まりねー」
 モモ子は気分良さそうに「ニャ~」と鳴いた。
 香織は会話を切り上げて、二階へと上がった。コートをハンガーにかけると、ベッドにごろんと横になって天井を見つめた。もし三重に行ってしまえば、この共同生活は終わってしまう。モモ子が迷惑をかけてきたり、泣いてしまった誠也をなぐさめたりするのが面倒だったりするが、それも含めてこの生活は楽しいと感じている。皆でワイワイ騒ぎ、バカをやり、時には喧嘩したりしつつも、陽気な日々。この一年間で、三人ともかけがえのない家族のような存在になっている。ずっとこうして暮らせていけたらとさえ思ってしまう。とはいえ、自分の将来のことを考えると、遠くても転勤した方が良い気がする。
 悩ましいところだが、心の天秤は今の生活を続ける方に傾いているのを香織は感じていた。

 一週間後、また狩野さんが中央図書館に来て、事務室で面談となった。
「どうでしょうか? 三重行き、引き受けてもらえますでしょうか?」
「……い、色々考えたんですけど、何ていいますか……やっぱり、慣れない土地っていうのは不安ですし……自信もないので」
 香織は口ごもりながら、やんわりと断ろうとした。
 すると、狩野さんが香織の言葉を遮り、
「では、こういうのはどうでしょうか?」
 と切り出してきた。
「五年……五年で館長に昇進できることを約束します」
「ええ……!?」
 香織は驚きのあまり声が上ずってしまった。
「もう本社からは、この条件を認めてもらっています。それに、館長になった場合の担当する場所は、もっと大きな都市にしてもらうよう交渉もしています」
「ホ、ホントですか……!?」
 意外な申し出に、香織は鼓動が高鳴ってしまう。館長になれば、購入する本の選定やイベントの考案など図書館全体の運営を任され、利用者に喜んでもらえるサービスを提案できる。とても魅力のある仕事だし、司書のキャリアとしてはこれ以上のものはない。給料も今の倍はもらえるようになるだろう。
「でも、どうしてそんな条件を出してくれるんですか?」
「実は……」
 狩野さんは事情を話してくれた。現在、三重県の他にも地方の委託地域が増えているが、香織が思っている以上に、人手が足りなくて困っているのだそうだ。現地で求人を出してもなかなか人が集まらない。ましてやスタッフに会社の方針を4月までに浸透させ、サービスを開始するのは至難の業で、本社も切羽詰まっているとのことだった。だが、市町村から任せられる以上は、何としてもやり遂げなければならない。だから、優秀な人材をチーフとし派遣して、急ピッチで基盤を築きたいのだそうだ。
「正直、藁にもすがる気持ちなんです。倉田さんなら、きっと立ち上げを成功させてくれると期待しているんです」
 狩野さんの目はいつにも増してギラリと光り、気迫と熱意が満ち満ちていた。ここで絶対に説得してみせるという覚悟のようなものをビリビリと感じる。
「いかがでしょうか? キャリアアップとしても申し分ない話だとは思いますし。私たちを助けては頂けないでしょうか?」
 香織はしばらく黙ってしまった。正直、微妙だと思っていた転勤の話だが、こうなってくると話は変わる。ここまで自分を必要としてくれるのなら、その期待に応えて頑張ってみたいという気持ちがふつふつと沸き上がってきた。
 香織は狩野さんに負けないようなしっかりとした眼差しを返した。
「はい、お願いします。三重に行かせて下さい」

 仕事を終えた香織は駅へと歩きながら、今後の段取りを考えていた。
運営準備の時間がないし土地にも早く慣れたいから、なるべく早く引っ越した方がいい。三月半ばぐらいがいいだろう。向こうで住むアパートやマンションは、会社が探すのを手伝ってくれるとのことだから助かる。
 それにしても、仕事で頼りにされるというのはやはり嬉しいものだ。今まで転職を繰り返していた時は、仕事でこれほど必要とされることなどなかった。自分が誇らしくなってきて、香織はいつもより胸を張って歩いてみた。
 しかし……モモ子たちにはどうやって話を切り出そうか。モモ子は怒ってふてくされて、誠也は泣いてしまうだろうか。
 それに、モモ子たちとの生活が終わるとなると、とても寂しいし、悲しいし、つらい。別れを考えると、憂鬱な気分になり、足取りも重くなってしまった。
 結局、家に着いても言い出せず、そのまま何日も過ぎてしまった。

 ある日、仕事から帰った香織が居間に入ると、エプロン姿のモモ子がキッチンで鼻歌を歌っていた。
「♪カレイ、カレイ、華麗なるカレイ~。ヒラメと違って安い安い。一切れだいたい二百円~」
 モモ子はカレイの切り身に塩をふった。三切れとも身が厚く、白く艶々していて、新鮮そうだ。
「もしかして、晩御飯作ってくれてんの?」
 香織が目を輝かせて問いかけた。
「そうだよ~。香織ちゃん、太っちゃって困ってるみたいだからさ、カロリー低いけど、がっつり食べられる中華を作ってあげるよ」
「ホントに? やりぃ」
 香織はガッツポーズをした。
「あ、そうだ。誠也くん、そこの鮭缶とフランスパン、棚の上に置いといて。それはまた今度使うやつだから」
 「わかりました」と料理の様子を見守っていた誠也が、言われたように誠也が買い物袋を取って、フランスパンと鮭缶をキッチン脇の棚に移した。
 モモ子は「サンキュ~」と言うと、冷蔵庫からチンゲン菜とねぎを取り出した。
 チンゲン菜を一枚ずつはがして、きれいに水で洗う。それを耐熱皿にのせて、ラップをふわっとかけて、レンジへと入れた。
「五百ワットで二分と」
 モモ子はレンジのボタンを操作して、過熱を開始した。
「♪その間に白髪ねぎを作りしましょ~」
 歌いながら、ねぎをまな板の上に用意した。
「白髪ねぎって、すごく細く切らなきゃいけないじゃん。モモ子の料理にしては、結構大変なことするね」
 香織が指摘すると、モモ子は、チッチッチと舌を鳴らして、人指し指を横に振った。
「それが簡単なんだな~。これを使えば!」
 モモ子はフォークを刀のように構えて、ポーズをとった。
 香織は訳が分からず、きょとんとしてしまった。
「フォークをどうするんですか?」
 誠也も首をかしげている。
「まあ見ててよ」
 モモ子は意気揚々と笑みを浮かべると、フォークをねぎの端、五センチくらいのところに浅く突き刺し、繊維に沿って引いた。それを何度も繰り返す。そのうち、ねぎの端の部分がほぐれてきて、フォークの歯が深くまで刺さるようになり、続けて引いていく。ねぎの端の部分がとても細くばらけて、モモ子は最後に包丁で根元からその部分を切った。すると、極細切りの白髪ねぎとなった。
「ええ!? これ超裏技じゃない!?」
 香織は度肝を抜かれて、できあがった白髪ねぎを覗き込んでしまった。
 誠也も「信じられないです」と感心して唸っている。
「へへ~、どうだまいったか」
 モモ子は機嫌良さそうに尻尾を立てて、温め終わったチンゲン菜を四、五センチくらいの長さに切り分けた。葉は青々として、太い茎はいい感じで熱が通って柔らかそうだ。
 続けて、醤油、料理酒、ごま油を大さじ一杯ずつとってかき混ぜ、耐熱皿のカレイの切り身にかけた。ラップをかけて、レンジにいれる。
「はい、あとは五百ワットで四分~」 
 モモ子はレンジのボタンを押した。

 その間にまな板を洗ったりして、手際よく後片付け。盛り皿を用意した。しなやかで迅速な動きに、香織は感嘆してしまう。
 チン!と音が鳴り、両手に鍋掴みをしたモモ子がレンジを開けた。ごま油の香りがぶわっと広がって、鼻を刺激する。香ばしい香りが食欲をもの凄くかきたてる。香織の口の中で、よだれが溢れてきた。
 モモ子は耐熱皿を取り出すと、ラップが白く曇っていて、全貌が見えない。
 モモ子が「それ~」とラップを外すと、湯気が勢いよく立ち上がり、蒸し上がったカレイの身が顔を出した。身が透き通るように白く、ふっくらとしている。
 モモ子はカレイを皿に盛り、チンゲン菜と白髪ねぎをのせて、最後に耐熱皿に残っているタレをかけた。
「カレイの中華レンジ蒸し、完成~」

 香織はモモ子誠也と一緒に「いただきまーす」と声を合わせて、合掌した。
 カレイの身はどっしりとして存在感があり、瑞々しいチンゲン菜と白髪ねぎが主役を彩っている。ごま油の香ばしい香りは漂い続け、レンジでチンした料理とは思えないほどの迫力。見た目はしっかりとした中華だ。
 香織はまず、カレイを食べようと箸を伸ばした。柔らかく、力を入れなくても箸がすっと入った。一口大に身を取り、白髪ねぎをのせて頬張る。
 香織は目をカッと開いた。
「んん! 美味しい!」
 白身が口の中でほろりととけて、ごま油を使った香ばしいタレの味が口の中に広がった。そこに白髪ねぎの辛みが合わさって、味全体を引き締めてまとめ上げる。カレイの身は舌触りも良く、絶妙な火の通り加減だ。
 香織は「最高~!」と叫ぶと、ご飯を口へと運んだ。
「これだけ美味しい中華料理が、あんなに簡単にできるなんて。モモ子さんはやっぱり天才ですよ!」
 誠也も箸が止まらない様子だ。
「よかった~。そうだよね、自分でも天才だと思うよ、うん。あ、ちゃんとチンゲン菜も食べてね」
 香織は言われたように、カレイとチンゲン菜を一緒に口の中へと運んだ。白身の柔らかい歯ごたえと、チンゲン菜のしゃきしゃきとした茎の食感が絶妙だ。エンドレスで噛んでいられるような気さえしてくる。白身だけを食べた時とはまた一味違う旨さを感じさせてくれる。
「このカレイの中華レンジ蒸しはね、だいたい百六十キロカロリーくらいにおさえてあるんだ。ヘルシーでしょ?」
 モモ子が得意気に胸を張った。
「ええ!? そんなに低いの?」
 香織はあまりの衝撃にむせてしまった。
 モモ子が「大丈夫?」と声をかけ、誠也がティッシュを差し出してくれる。
 これだけパンチの効いた味付けで、ボリューミーでありながらも、百六十キロカロリーとは……。太った自分を気づかって、こんなメニューを作ってくれるなんて……。
香織は嬉しくて涙がちょちょ切れそうになった。
「ありがとう~、モモ子~!」
「いいのいいの。まあ持つべきものは親友ってことで」
 モモ子はカレイの大きな骨をしゃぶった。
 香織は中華蒸しを黙々と食べた。カレイの身とチンゲン菜にしっかりとタレを纏わせて味わう。
 しょっちゅうこんな料理が食べられて幸せだ。モモ子と一緒に生活してて、よかったな、と香織は思った。
 しかし、ふと心の中に灰色の靄のようなものがかかるのを感じた。
そうだ、もう来月にでも、三重に引っ越さなければならないのだ。さすがにそろそろ、言わなければならない。あまり遅くなると、モモ子にも誠也にもとても迷惑になってしまう……。今、言ってしまおうか。いや、やっぱりもう数日待って、心の整理がついてからにしようか。
香織は思考を巡らせていると、
「あたしさ……三重に行くことになったんだ」
 ふと勝手に口から言葉が出ていた。
「へえ~、何しに行くの?」
 モモ子はあっけらかんと答えた。
「伊勢参りですか?」
 誠也がチンゲン菜を食べながら聞く。
「いや、仕事でその……転勤てやつ」
「え……」
 誠也は食事の手を止めて、目を見張った。
「じゃあ三重まで通うんだ。大変だね~」
 モモ子はまだよく分かっていない様子だ。
「いや、通うのとか無理だから」
「あれ? 三重ってどこにあるんだっけ?」
 「関西の方ですよ」と誠也が答えた。
 モモ子は目を丸くしたまま黙ってしまった。
 つけっぱなしだった換気扇の音だけが、しばらく響いていた。
「……うそ。じゃあ、香織ちゃん、遠くに引っ越しちゃうってわけ?」
 香織はゆっくりと頷いた。
「え、じゃあ……この生活はどうなるの? まさか、終わり……?」
「ごめん……」
 香織は頭を下げた。そして、事のあらましを話しはじめた。理解してもらおうと、しっかりと説明する。二人は静かに聞いていた。
 香織は、モモ子が怒ってふてくされるんじゃないかと思っていたが、
「そうなんだ……。じゃあしょうがないね。昇進おめでとう、よかったね」
 と意外にも落ち着いて、優しい返事をしてくれた。
「一緒に暮らせなくなるのは残念ですけど……ホント、おめでとうございます」
 誠也も目を潤ませながら言う。
「ありがとう……急にこんなことになって、ホントにごめんね」
 香織はまた頭を下げた。申し訳なさと悲しさで、しばらく頭を上げられなかった。

 重い気分を紛らわすために、香織は部屋に戻らず、十二時過ぎまで酒を飲んでいた。三重に移り住む決意をしたものの、やはりモモ子たちと別れるのは寂しい……。心にぽっかりと穴が開き、冷たい風が吹き抜けていくような気がする。
 その時、二階からドタドタと駆け下りてくる音がして、誠也が居間に入ってきた。顔が少し青ざめている。
「香織さん、モモ子さん外に出て行ったりしました?」
 香織は首を横に振った。
「ううん、何で?」
「おかしいなあ…いないんですよ!?」
「え……!?」
 香織は思わず立ち上がった。
                (つづく)







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