第6話「鮭缶のスタッフドバケット」

文字数 12,033文字

 香織は階段を駆け上がり、モモ子の部屋へと向かった。ドアは開いており、照明はつきっぱなしだった。誠也が言っていた通り、モモ子の姿はない。開けっ放しになっているクローゼットには服が散乱しているだけだった。
「トイレに入ってるんじゃなくて?」
 香織が後ろからついてきた誠也に聞いた。
「はい……見たんですけど」
 誠也は眉の端を下げ困惑した表情で、声を震わせながら答えた。
 開いた窓から冷たい空気が吹き込んできて、カーテンが揺れていた。香織は窓から顔を出してみるが、ベランダにもいない。身を乗り出して下も覗いたが、モモ子の姿は見当たらなかった。
「あたしの部屋にいるとか?」
 香織は廊下に出て、自分の部屋の中を確認したが、モモ子はいなかった。次第に平静さを失い、酔いがさめてきた。
「お風呂か……?」
 言いながら香織は部屋を出て、階段を猛然と駆け下りた。洗面所を抜けると風呂場の扉は閉まっており、浴室内は暗かった。香織は電気のスイッチを入れて中を見るが、モモ子はいない。念のため、浴槽の蓋をめくるが、冷たそうな水が溜まっているだけだった。
「どこ行っちゃったんだろう……」
 香織は首を傾げながら蓋を元に戻した。
「おかしいですよね……」
 誠也が弱々しい声で呟いた。
「もしかしたら、玄関から出て行ってたのかなあ……。あたしが気が付かなかっただけで……」
「外に探しに行ってみましょうか?」
「そうだね」
 その時、どこからか「ミャ~」という猫の鳴き声がした。
「あれ、今のモモ子じゃない?」
 香織はハッとなって、誠也の顔を見た。誠也も目を見開いて頷いた。
「ええ……聞こえましたよね。でも、どこから?」
 香織と誠也は黙って、聞き耳を立てた。
 するとまた、「ミャ~」という声。
「あっちかな……」
 香織は鳴き声がする方へと歩き出した。「ミャ~」という声は玄関の外から聞こえてくる。
 香織はサンダルを履き、玄関のドアを開けると、鳴き声は大きくてはっきり聞こえるが、出所がよく分からない。
 香織が「モモ子~?」と辺りを見回した。その時、
「あっ! 香織さん! 見て下さい!」
 誠也が香織の肩を手の平で連打した。香織が振り返ると、誠也は空の方を指さしている。
 視線を向けると、モモ子が屋根の三角部分に跨って座り、「ミャ~、ミャ~」と遠吠えのように鳴いていた。
「モモ子! 何してんの!?」
 香織は大声で呼びかけた。
 モモ子は気づいていないようで、「ミャ~、ミャ~、ミャ~」と繰り返している。街灯の光を浴びて、かなり不気味な雰囲気を放っていたが、その鳴き声はとても悲しそうで、目からぽろぽろと涙がこぼれていた。
「モモ子! どうしたの!?」
 香織は両手をメガホンのように口の周りに当てて叫んだ。
「モモ子さん、危ないですよ! 下りましょう!」
 誠也も一生懸命声をかける。
 しかし、モモ子の耳には入っていないようだ。
 香織は家の中へと勢いよく駆け戻り、二階へと階段を上がった。誠也もついてくる。モモ子の部屋を抜けて窓を開け、ベランダへと出た。
 屋根の上を見上げ、
「モモ子! 下りてきなって!」
 手を叩いて注意を引こうとする。が、モモ子は涙を流しながら、「ミャ~、ミャ~」と鳴くのを止めない。
「どうしちゃったの……」
 香織は呆気にとられてしまった。すると、脇にいる誠也がぽつりと言った。
「そういえば、猫って寂しくなると、遠吠えのように鳴くって聞いたことがあります」
「え……?」
「モモ子さん、さっきは昇進おめでとうなんて言っていたけど……ホントは香織さんと離れるのがものすごく悲しいんじゃ……」
「……」
 香織は黙ってしまった。
 夜空にモモ子の鳴き声が響き渡った。
 しばらく経つと、モモ子は「……あ、香織ちゃん」と気が付いた。
「モモ子、大丈夫?」
「うん……」
 モモ子は鼻水を啜った。泣きはらし、落ち着きを取り戻しているようだった。
「ほら、下りてきなよ」
 と香織が促すが、モモ子は身じろぎせず、震えている。
 「どうしたんですか?」と誠也が聞いた。
「……なんか……あ、足がすくんじゃって……」
「は……?」
 香織は口をポカンと開けてしまった。そういえば、猫は高い所に登って、下りられなくなってしまうことがよくある。あれと同じ状況のようだ。
 モモ子の尻尾の毛は逆立ち、膨らんでいる。
「ど、どうしよう……香織ちゃん……!」
「そのままじっとしてて!」
 香織は室外機の上に乗ろうとした。ここから屋根の上に登っていける。
「香織さん、危ないですよ。ボクがいきます」
 誠也が香織の腕を掴んで止めた。
「え? あんた大丈夫?」
「はい、やってみます」
 誠也は香織と入れ替わると、室外機の上に足をかけた。しかし、踏み外して、脛を強打した。「いたた……」
「全く……」
 香織は呆れて頭を掻きむしった。
 しかし、誠也は立ち上がると、今度はちゃんと室外機の上に乗った。そのまま、屋根の上へと手をかける。
「大丈夫? 無理しないでね」
 香織は青ざめながら見守った。空っ風が吹き抜けるが、今は寒さなど感じる余裕もない。
 薄い電灯の光を浴びながら、誠也が必死で身をくねらせ、よじ登った。モモ子の座る屋根のてっぺんまでは、まだ三、四メートルくらいある。
「モモ子さん、少しこっちに下りて来られますか?」
「う、うん……やってみる」
 モモ子は跨いでいた三角部分からゆっくり片脚を外すと、屋根の上に腹ばいになった。そのまま、少しずつずり落ちてきた。その体を誠也が腕を伸ばして支えた。
「で、こっからどうするの?」
 モモ子が震える声で聞く。
「えーと……ど、どうしましょう……すいません、あんまり考えてませんでした……」
 誠也がか細い声で答えた。
 香織は脳みそをフル回転させた。
││何か方法はないだろうか? そうだ、確か物置の脇に脚立が置いてあったはずだ! あれが使える!
 思いつくと、香織は脱兎のごとく駆け出し、庭で脚立を抱えると、すぐさまベランダまで持ってきた。脚立の脚を開いてセットする。高さは香織の身長と同じくらいある。これなら、屋根の端から足を伸ばせば届くだろう。
「この上に乗って!」
 香織は大声で指示した。
 誠也が顔を上げてこちらを覗いて、確認した。
「わ、わかりました……モモ子さん、ちょっとずつ下りられます?」
「う、うん……」
 モモ子が腹ばいのまま、少しずつ下りて来る。
「大丈夫? 気を付けて!」
 香織は脚立を手で抑えながら、息を詰める。
 モモ子は何とか脚立の天板につま先を伸ばし、着地することに成功した。ゆっくりと下りて来る。
 ホッとしたその時、モモ子がバランスを崩した。香織が「あっ!」と声を上げた時にはもう、目の前にモモ子の背中が迫ってきていた。
 香織はモモ子の下敷きになってしまい、呻いた。
「香織ちゃん、大丈夫……!?」
 モモ子が起き上がって、香織の体を心配そうに手を当てた。誠也も屋根の上から「ケガはないですか!?」と声をかけてくる。
「いてて……」
と香織は声を漏らしながら、上半身を起こした。
「う、うん……まあ、何とか平気」

 モモ子の救出を終えて、香織たちは居間のテーブルでココアを飲んで一息ついていた。もう深夜の二時を回っていた。
「みんな、ホントにごめんね。すごい迷惑かけちゃって」
 モモ子がぺたんと耳を下げて謝る。
「香織ちゃんが転勤するって聞いて、祝福しなきゃって思って。頑張って大人な対応とったんだけどさ。やっぱり寂しくて……」
 モモ子は恥ずかしそうに、頭を掻いた。
「気が付いたら、あんなとこで大泣きしてて……自分でもビックリだよ」
「モモ子さんは、香織さんのことがホントに好きなんですねえ」
 誠也が頷きながら呟いた。
「……あたしやっぱり、三重に行くの止めようかな」
 香織がぽつりと言った。
 「え!?」とモモ子は声が裏返った。
「だって、心配じゃん。あんな風になっちゃうなんて」
「いいのいいの! 香織ちゃん! 私、そんな風に香織ちゃんの人生の重荷になりたくないから! ね?」
「大丈夫なの、あんた?」
「うん、もう心の整理はついたって」
 モモ子は自分の胸をポンと叩いた。
「香織ちゃんは私のことは構わず、思う存分出世してよ!」
「何その言い方」
 香織は思わず噴き出してしまった。モモ子と誠也もつられて笑った。
「それにしても、一緒に暮らしてから一年ですか。あっという間でしたね」
 言うと、誠也は背筋をピンと伸ばして、
「香織さん、モモ子さん。ボク、お二人には本当に感謝してるんですよ」
 と真剣な目で言った。
「え、何、急に?」
 香織が目をぱちくりさせた。モモ子もきょとんとしている。
「前に田舎に帰ろうとした時、お二人に支えてもらったじゃないですか……すごく恩を感じてるんです。あれから、会社でも順調にやれてます」
 誠也は淡々と話し続けた。
「それに、お二人に揉まれているうちに、強くなったっていうか、たくましくなったっていうか……そんな気がするんです。自分で言うのも恥ずかしいんですけど」
 香織はふと、先ほどモモ子を助け出した時のことを思い出した。
「あー、そういえばあんた、屋根に上がっていったよね。結構男らしかったかも。意外だったっていうか、ちょっと前の誠也だったら考えられなかったよ。室外機に脛をぶつけた時点で撤収してたよね、たぶん」
「そうそう、頼もしかったー。ありがとうー」
 モモ子が尻尾を立てながら手を叩いた。
 誠也は頬を赤らめて、「い、いやあ……」と照れ笑いを浮かべた。
 すると、モモ子が「ハイ、ハイ! それなら私も!」と挙手した。
 香織が「何が?」と聞く。
 モモ子は胸を張り、指でヒゲを撫でて言い放った。
「私もどこか変わったと思わない?」 
 「え?」と香織は首を傾げた。誠也も分からない様子で黙っている。
「ほら、分かるでしょ?」
 モモ子が目を大きくして言い寄ってきた。
「う~ん……どこだろ?」
「毛が全体的に短くなりました?」
「違~う! じゃあヒントね。私もあるものを身に付けたの。成長したの」
「う~ん……ますます分かんない」
 香織が顔をしかめた。
「み、右に同じです……」
 誠也も苦笑いを浮かべている。
「もう~! 二人とも鈍感なんだから!」
 モモ子はプリプリと怒って毛を逆立てていたが、ため息をついた。
「仕方ないなあ、じゃあ答えね。私が身に付けたのは……」
 モモ子はじっくりと間を溜めてから、
「協・調・性♡」
 と言い放ち、ドヤ顔を決めた。
 香織も誠也もいまいちピンとこず、一瞬場が静まった。
しかし、誠也はハッと気が付いた様子で、壁にかかっている共同生活ルールの書かれたホワイトボードを指した。
「確かに最近、あれをちゃんと守ってますよね。人のお菓子とか盗まなくなったし、ゲームも使ったらちゃんと返してくれますし。当番もわりと守ってくれてる気がします」
 「でしょ?」とモモ子が前のめりになる。
「でもそれ、人としてフツーだから。まあ、人じゃなくて、猫か……」
 香織が冷静に突っ込んだ。
「無粋なこと言わないでよ~、香織ちゃん」
 モモ子は腕を組んで、顔をしかめた。
 そこへ誠也が微笑みながら割って入って、話を続けた。
「でも何より、ボクたちが辛い時や困った時に、魚料理を食べさせてくれるじゃないですか。ああいうの、温かいな~って感じますよ」
「でしょでしょ? いや~、さすが誠也くん。できる子だよね~、君は」
 モモ子が目を輝かせ、何度も頷いた。
 言われてみればそうだな、と香織は思った。自分が恋に落ちた時も、太ってしまった時も、得意の料理を振る舞ってくれた。長い付き合いだが、昔はそんなふうに思いやって何かをしてくれることなんてなかった気がする。
「確かに、モモ子変わったかも」
「香織ちゃん、やっと分かってくれたか。これも香織ちゃんと誠也くんと一緒に暮らしたおかげだよ~」
 嬉しそうに話すモモ子を香織は微笑んで眺めた。
「そういう香織ちゃんも丸くなったよね」
 「え……?」と香織は聞き返した。
「あ、ボクもそう思いますよ」
 誠也がモモ子に同調した。
「そう?」
 香織は眉をひそめた。
「だって前はすぐにカッとなってさ~」
「最近は優しいですよね」
 香織はふと我が身を振り返ってみた。確かに昔の自分だったら、誠也が引きこもった時、ドアを蹴破って罵ったかもしれない。モモ子に恋愛でからかわれた時も、逆上したかもしれない。さっきも、モモ子が屋根の上で遠吠えしてた時点で、ブチ切れて罵倒してただろう。誠也が一回室外機を踏み外して目を潤ませたとき、「何してんだ、ボケ!」の一言ぐらいかましていたに違いない。
 思えば、喧嘩したり仲直りしたり、ヘンテコで騒がしい日々を送りながら、自分もモモ子も誠也も、お互い影響しあってちょっとずつ成長していたのかもしれない。いや、成長していたんだ。そのおかげで、自分は仕事面でも上手くいき、昇進することができたんだ。二人には、本当に感謝しかない。香織はしみじみとそう感じた。
 棚の上の置時計の針が三時を指し、静かにメロディが流れた。
「あ、もうこんな時間か……てゆーか、あたし明日休もうかな、体調悪いとか言って。なんか仕事に行く気しないよ」
 香織が伸びをしながら言った。明日は日曜日だが、図書館は土日開館しているので、司書は普通に出勤だ。
「休んじゃえ休んじゃえ。私はもともとオフだけど」
「ボクもシフト入ってないです」
 香織はしばらく、う~んと頭を抱えていたが、
「よし、サボタージュ決定!」
 高らかに宣言した。そしてニヤリと笑みを浮かべて続けた。
「で、いいこと思いついちゃったんだけど」
「何なに?」
 モモ子が興味を示して両耳をたてる。
「三峯神社に行かない?」
 提案すると、モモ子が「おっ、いいね~!」と叫んだ。
「なるほど、アリですね。もう一緒に行けないかなと思ってたんですけど。思い出作りになりますし」
 誠也もパッと笑顔になった。
「じゃあ、明日は関東一のパワースポットで、お願いごとをしよう!」
 香織が意気揚々と拳を上げた。モモ子と誠也が「賛成~」と拍手をする。すると、
「じゃあ、私がお弁当を作るよ。朝は眠くて大変だから、今の内にやっちゃおうっと」
 モモ子がキッチンへと入って、エプロン姿に着替えた。
「いや、よかったよ~。試しに一回作っておこうと思って、材料を買ってたんだよ」
「え! ホント!? ラッキー!」
 深夜に一騒動終えて、疲れて体がだるくなっていたのだが、それも一瞬で吹っ飛んだ。モモ子の料理を想像するだけで胸が躍る。
「どんなお弁当なんでしょう」
 誠也も期待が顔に出ており、目がキラキラと輝いている。
「まあできてからのお楽しみってことで」 
 モモ子は鼻歌を歌いながら、先ほど誠也が置いたフランスパンと鮭缶を一つ棚から取り出した。
「♪鮭缶、鮭缶、みんなの味方~。色んな料理に使えるの~。一缶だいたい、四百円~。安売りの時に買うのがベターだよ~」
 続けてモモ子は冷蔵庫を開け、タマネギとパセリ、クリームチーズを手に取った。材料を作業台の上に並べる。
 モモ子はまず、フランスパンを半分に切った。その切り口から、テーブルフォークで中身を掻きだしていった。パンの白い部分が縁として五ミリくらい残るように穴を開けていく。
 モモ子はくりぬいたパン屑をボールの中に入れ、もう半分のフランスパンも同じように処理した。
 穴の開いたフランスパンは、小麦とバターのいい香りを漂わせている。
「♪あとは具材を作るだけ~」
 モモ子はタマネギの皮をむき、まな板の上で半分に切った。二分の一個をスライサーで薄切りにした。それを一か所に集め、包丁で大まかに刻んでいく。
「ホントはみじん切りがいいんだけどね。大変だから、これで大丈夫」
 モモ子は解説しながら刻んだタマネギをボールに入れた。続けて鮭缶を開け、艶やかに光る薄ピンクの身をボールに投入。パセリも摘まんで入れて、最後にクリームチーズの箱を開け、まるまる一個ぶっこんだ。
 毎度のように、モモ子は魚料理となると目つきが鋭くなり、凛としたオーラを放つ。動きは滑らかで、エレガントだ。香織は本当に舌を巻いてしまう。
 モモ子はゴムベラでボールの中をかき混ぜ始めた。パンの柔らかい部分と鮭の身、タマネギとクリームチーズが一体となっていく。鮭缶の脂の香りとタマネギのつんとする香りが混ざり合って、香織は思わず食欲をそそられる。
 混ぜ続けていると、ねっとりとした優しい色合いの具ができ上がった。それをゴムベラで穴の開いたフランスパンに詰める。作業台に具材入りのフランスパンが二つ並んだ。
「鮭缶のスタッフドバケット、完成~!」
 モモ子は声高に言ったが、
「と、いいたいところだけど……実は最後に隠し味があるんだよね~」
 「へえ~、何々?」と香織は気になって聞く。
「それはナ・イ・ショ。食べる時、教えてあげるよ」
 モモ子はニンマリと笑みを浮かべた。

 その後、香織たちは仮眠をとってから車で出発し、お昼前に三峯神社へと到着した。車は香織が実家から借りたボロいセダンだ。香織が運転してきたのだが、うねる山道は一苦労だった。ちなみに、助手席の誠也はナビをしてくれたのだが、地図がちゃんと読めずに何度も遠回りをし、モモ子は後部座席でずっと爆睡していた。
 香織たちは駐車場を出ると、大きな鳥居を抜けて鬱蒼と茂る樹々に囲まれた坂道を進んだ。さすがは関東屈指のパワースポットというだけあって、静かで神秘的な空気が満ちている。
 三峯神社の拝殿が見えてきた。写真で見たよりもずっと荘厳で、迫力のある建物に香織は目を見張った。色彩は目が覚めるほど鮮やかで、龍や鳳凰の彫刻は力強く活き活きとして今にも動き出しそうだ。
 真冬だというのに、拝殿の前の階段には参拝客の行列ができている。香織は首をすくめてダウンジャケットの襟に顔をうずめ、寒さをやり過ごす。誠也は持ってきたホッカイロを顔に当てたりしていた。モモ子はまだちゃんと目が覚めておらず、立ちながらうとうとしていた。
 やっと順番がきた。香織は財布を開けると、五百円玉を取り出して賽銭箱に投げた。お賽銭にはちょっと多いかもしれないが、今日は特別だと奮発した。
 香織は手を合わせて目をつむり、お願いごとをする。
 集中して自分の世界に入ると、この三峯神社の神様から霊的なパワーが注ぎ込まれていくような気がした。
 お祈りを終えると、ゆっくり目を開けて、モモ子たちと階段を下りた。
「ねえ、香織ちゃん。どんなお願いしたの?」
 モモ子が聞いてきた。
「うん、まあやっぱり仕事だよ。しっかりチーフを勤めあげて、立派な館長になれますようにって」
「やっぱりー。そうだと思った。誠也くんは?」
 誠也は、恥ずかしそうに少し口ごもりながら、
「ボ、ボクは……介護福祉士の資格が取れますようにって」
 と答えた。
「へえ~。誠也、資格取りたいんだ。知らなかった」
 香織は後ろの誠也を振り返った。
「まあ、少し仕事の幅が増えるといいますか。ステップアップになると思いまして」
「偉いねえ、みんな将来を見据えて。感心感心」
 モモ子が腕を組んで、うんうんと頷いた。
「あと、もっと美肌になれますようにって、お願いしました」
「そこはブレないね」
と香織は突っ込みを入れた。
モモ子も「あはは」と苦笑いした。
「で、モモ子は何をお願いしたの?」
 香織が切り替えてモモ子に振った。
 すると、モモ子は尻尾を立てて答えた。
「私はもちろん、二人の幸せだよー」
「え? いやいや真面目に答えてよ」
「ホントだってば」
「は? 何? 好感度上げようとしてるの?」
 誠也は「モモ子さん、嬉しいです」と目を潤ませている。
「でもそれだけじゃないよ。あとねー、高級煮干しをたくさん食べられますように、大間のクロマグロを丸ごと一匹食べられますように、宝くじが当たりますように、一日中寝て暮らせますように、イケメンの彼氏ができますように、百歳まで生きられますようにとか、他にも色々」
「……どんだけ願いごとあんの。そんなにたくさん、叶えてくれるわけないじゃん」
「いや~、大丈夫でしょ。ここの神様は大物なんだし。やってくれるよ」
 「あんたねえ……」と香織は二の句が継げなかった。誠也も呆れて言葉がない様子だ。
 その時、モモ子のお腹がグ~と鳴った。
「そろそろ、お昼ご飯にする?」
 モモ子が提案した。
「いいね! そうしよう!」
 楽しみだったお弁当タイムに、香織はテンションが上がってきた。

 外は寒いので、香織たちは車の中でお弁当を食べることにした。駐車場は、三峯神社をバックに茶色の山々が広がっており、遠くの高い山はうっすらと白い雪を纏っている。眺めが良くて、お弁当を食べるにはなかなかの場所だった。
 後部座席のモモ子がリュックから布の包みを取り出し、「じゃじゃーん!」と膝の上で開いた。ラップにくるまれたスタッフドバケットが顔を出した。食べやすいサイズにカットされている。
 モモ子はラップを外し、スタッフドバケットを紙皿に二個ずつ乗せて、運転席に座っている香織に手渡してくれた。バケットの断面を見ると、薄くピンクがかった肌色の具が隙間なく詰まっていた。ちらほらとパセリの緑が色のアクセントになっている。
「へえ~、オシャレですね」
 助手席の誠也がまじまじと見つめた。
「一人四個はあるけど、足りなかったらサラダとフルーツも持ってきあるから。ちなみにこれは、ただ切っただけだけど。あ、あとスープも持ってきてあるから。コーンポタージュ、インスタントだけど」
 とモモ子がスープジャーを見せたが、香織はこの鮭缶のスタッフドバケッドに気を奪われて、あまり耳に入ってこなかった。
 スタッフドバケッドが全員にいきわたって、「いただきまーす!」と声を合わせて実食。
 香織は頬張ると、脳天に電気が走ったような衝撃を受けた。「美味しい!」と思わず叫ぶ。
 歯応えの良いフランスパンの皮と、柔らかくてねっとりとした鮭缶の具が絡み合う。鮭の身とクリームチーズは濃厚でコクが溢れていて、ともするとしつこくなりすぎてしまいそうになるが、それをタマネギの爽やかさがおさえている。混ざり合ったバケットの白い部分が舌触りを優しくしていた。絶妙なまとまりを見せる具と、噛むほどに口の中でほぐれる香ばしいフランスパンが相まって、頬っぺたが溶け落ちてしまいそうな感覚にとらわれた。
 誠也も「幸せです~」と目をつむって恍惚の表情を浮かべている。
「うん、バッチリだね。冷蔵庫で数時間寝かすのがポイントなんだよ。そうすると、具とバケットがよくなじむんだ」
 モモ子も自分の料理にご満悦という感じで食べていた。
 香織はもう一口バケットを頬張って、コーンポタージュを啜った。
「ん~、たまんない!」
 香織は自分でもどこから出たんだろうと思ってしまうほど、甲高い声を放ってしまった。 
ポタージュの優しい甘みとスタッフドバケットの濃厚な味は相性が抜群だった。インスタントだが、加える一味としては十分だった。この鮭缶のスタッフドバケットのポテンシャルが高いからこそだろう。
 よくもあれだけ手間をかけずに、このクオリティを出せるものだ。魚料理に関しては、やはりモモ子は天才だ。間違いない。香織はつくづく感心してしまった。
 その時、香織はふとあることを思い出した。
「あ、そういえば隠し味があるとか言ってなかったっけ? あれって何だったの?」
 モモ子は食べながら解説する。
「スタッフドバケットの『スタッフド』って、詰めるっていう意味なのね」
 「うん……」と香織は相槌を打った。
「鮭缶の具と一緒に……」
 モモ子は人指し指を立てて、
「思い出もいっぱい詰めといたの!」
 ニコッと笑顔で言い放った。
「ええ!? なに上手いこと言ってんの!」
 香織は突っ込みながらも、嬉しさで心がいっぱいになった。
 誠也は「素敵です~」と涙している。
 皆でゲラゲラ笑い合い、至福の時が流れた。
 モモ子の魚料理は美味しいだけではない。生活を、日々を、楽しませてくれた。喜びを与えてくれた。豊かにしてくれた。もう食べられなくなるのは寂しい……。香織は胸がしめつけられるような切なさがこみあげてきて、黙ってモモ子を見つめてしまった。
 モモ子は「ん? どうしたの」と無邪気に笑って返す。「ううん」と首を横に振って、香織は鮭缶のスタッフドバケットを頬張った。

 あっという間に三月も半ばになり、香織が引っ越しをする日になってしまった。
 香織は椅子に座って、居間の中を眺めていた。テレビや真っ赤なソファ、冷蔵庫、キッチン、ルールが書いてあるボード、モモ子が爪を研いで傷ついた壁紙、どれも愛おしくて、これでこの家ともお別れかと思うと切ない気持ちになった。
 ここで、三人で喧嘩したり笑ったり、泣いたり、モモ子の魚料理を食べたり、色々あったなあ、と香織はしみじみ感じ入った。
 時計を見ると、八時五分を指していた。バスの出発時間は五分後だ。もう行かないと間に合わない。
 その時、階段を急いで下りる音がして、誠也がドアを開けて入ってきた。
「モモ子さん、まだ準備に時間がかかってるみたいで。先にバス停に行っててほしいそうです」
「ったく、しょうがないなあ……」
 香織はぼやきながら、荷物の入った大きなバッグを持った。玄関を出ると、寒さは少し和らぎ、温かい陽ざしが降り注いでいた。
 歩き出したが、立ち止まって家を振り返った。一年という短い期間だったが、お世話になった。たくさん思い出がある。
 香織は心の中で、ありがとうと言った。
 それから香織は誠也と並んで歩いた。
「誠也はいつごろ出るの?」
「そうですね、五月に入ってからです」
 香織が出たあと、結局、モモ子も誠也も引っ越すことにしたのだ。モモ子は都内で一人暮らし、誠也も浦和のアパートに越す予定だ。
 話しながらバス停に着いた。
「香織さん、今まで色々とお世話になりました。ありがとうございました」
 誠也が目を潤ませて、深々と頭を下げた。
「いやいや、こちらこそ。ありがとう」
「仕事、頑張って下さいね」
「うん、誠也も。資格とれるといいね」
「はい」
まだモモ子は現れなかった。もう大通りには、遠くからバスが来てしまっていた。
「モモ子さん、どうしたのかなあ……」
 誠也はやきもきして、頭を掻いた。
 その時、「香織ちゃ~ん!」と声がした。ふと振り返ると、走って来るモモ子の姿が見えた。腕を大きく振って、必死の形相だ。運動嫌いなモモ子がこれだけ一生懸命走っているのを、香織は見たことがなかった。
「モモ子!」
 香織は手を振って呼びかける。
 モモ子は香織のもとへとたどり着くと、苦しそうに肩で息をした。
「大丈夫、モモ子?」
「う、うん……。ごめんね。これ作ってたら遅くなっちゃって」
 香織は赤いリボンでラッピングされた、薄くて四角い包みを差し出した。
「はい、これ餞別」
 「ありがとう」と香織は包みを受け取る。
「香織ちゃん、今までありがとう。短かったけど、楽しかったよ」
「うん、あたしも。モモ子もありがとうね」
 バスが到着し、ドアが開いた。
 「じゃあね」と香織はステップへと上がる。
「元気でね!」とモモ子が声をかける。
「さようなら」
 気がつくと誠也は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
 香織が手を振り、ビーッ!と音が鳴ってドアが閉まろうとしていた。
 その瞬間、モモ子がいきなり「ニャ~!」と叫んで、バスの中へと飛び込んできた。その勢いで、香織に抱き着いた。
「え、ちょっと!? どうしたの、モモ子!?」
「香織ちゃ~ん! 体に気をつけてね~! 嫌になったら、すぐ戻って来ていいからね~! 大好きだよ~! ニャ~! ニャ~! ニャ~!」
 モモ子は号泣しながら、力強く香織を抱きしめてきた。
 香織も思わず目から涙が溢れてきた。
「うん、うん……あたしも大好きだよ」
 誠也もバスに入って来て、脇で見守っている。
 香織はモモ子とじっとハグしたままだった。
 しばらくそのままでいると、バスの運転手に軽くクラクションを鳴らされてしまった。
 頭を下げて謝り、モモ子は誠也とバスを降り、香織は後ろの方の座席に座る。
 バスが発進し、モモ子と誠也から離れていく。二人は大きく両手を振っている。
 香織も一生懸命手を振って応えた。
 モモ子と誠也の姿は小さくなり、見えなくなった。
 香織は座り直し、ハンカチで目頭をおさえた。これだけ泣いたのは、いつぶりだろう。周りの乗客の視線も気にする余裕もないほどだった。
 しばらくすると、香織は落ち着きを取り戻してきた。ふと手元の包みを見て、リボンを外して開けてみる。すると、一冊のノートが出てきた。パラパラとめくると、手書きの字や絵。
 それはレシピだった。『タラとあさりのアクアパッツァ』と大きく見出しの出ているページでは、材料や工程だけでなく、ワンポイントとして、『あさりの五十度洗い』の方法が分かりやすく書かれている。
 他にも『鯖サンド』、『金目の煮つけ』など、色々ある。全部、モモ子が作ってくれた魚料理だった。
 きっと香織でも作れるように、得意のレシピをまとめてくれたのだ。香織は胸がいっぱいになった。
 ふと表紙を見ると、マジックで『猫が作る魚料理』と大きく書いてあった。
 香織はまた涙がこぼれてきた。
 モモ子と誠也と一緒に暮らした日々は絶対に忘れない。モモ子の作ってくれた魚料理の味も忘れない。
 香織は涙をハンカチで拭って、窓の外へ視線を向けた。
 空は雲が一つもなく、青く澄んでいた。

               (おわり)






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