第4話「ちゃんちゃん焼き」

文字数 12,917文字

「ねえ香織ちゃん、合コンしない?」
 仕事の帰りにバス停で一緒になったモモ子が誘ってきた。十一月になり、木枯らしも吹きはじめ、顔の肌がやたらカサカサして気になっている香織に向かって、モモ子はペラペラと用件を話してきた。
「もう来月はクリスマスだしさ。彼氏とか欲しいじゃん? 同僚が幹事やってくれるんだけど、あと一人足りなくて。だから、香織ちゃん、行こうよ!」
 ……合コン。
 香織には、とんとゆかりの薄いイベントだ。自分は恋愛体質ではない。男性と付き合ったことが全くないとは言わないが、色恋の波に長いこと乗れず、浅瀬でくすぶっているうちに、すっかり縁遠くなってしまっていた。もちろん、イケメンは好きだし、恋愛をしたいという気持ちはあるけど、なかなかエネルギーが沸き上がってこない。合コンなんて、見ず知らずの男性と一体何を話せばいいのだろうか。自己紹介をするとか、考えただけでも面倒くさい。気疲れをするだけだ。
「遠慮しとくよ。他当たって。あたし合コンとか苦手だから」
 香織が断ると、モモ子が絶句した。
「なんで!? 香織ちゃん、そういうのよくないと思うよ? もっとポジティブに、貪欲にいかないと!」
「でも今、仕事も忙しいし」
 実際 、最近は任される仕事も増えている。通常業務に加えて、チーフの補佐を頼まれており、スタッフのシフト管理や毎月行われる企画展の運営、書棚の配置換えなども執り行って、多忙を極めている。館長が残業を認めない方針なので、残業にはならないが、時間内に仕事をやり切らなければならない。猛然と機関車のように働き、終わるとどっと疲れが出てしまうのだ。肌荒れはそのせいでもある。
「そんなこと言わないでさ。相手の人達、みんないいところに勤めてるらしいよ」
 モモ子が食い下がってくるが、「ごめん無理」と香織は言い切った。
 するとモモ子は、両耳をぺたんと下げて、困惑顔で目を泳がせた。
「えー、どうしよう。先方にはもうOKだしちゃったのに」
「は!? あんた何でそういう勝手なことするわけ!?」
 香織が思わず声を荒げる。
「だってー。まさか香織ちゃんが断るなんて思わなかったし。三十過ぎて彼氏全然いないのに、焦りとかないの?」
 香織は返す言葉に詰まってしまった。もちろん、焦りは、あるといえばある……。だが今は、モチベーションが上がらない。
 モモ子はハッと何かを思い出した様子で、付け足してきた。
「あ、そうそう。お店は日本酒がたくさん置いてあるんだって。高くて珍しいやつも飲めるよ。香織ちゃん、日本酒好きでしょ? 男性陣が全部奢ってくれるらしいよ」
 話を聞いて香織は「え」と反応してしまった。ただでおいしい日本酒が飲めるとなると、気持ちは変わってくる。そんな機会、なかなかない。色恋よりも酒にそそられてしまう自分を呪いつつ、行こうか行くまいか、しばらく考え込んだ。
「それっていつなの?」
 してやったりという感じで、モモ子は口元に笑みを浮かべ、ヒゲをひくひくと動かした。
「来週の金曜日」
「……あたしは人数合わせ要員てことで」
「OK、OK。じゃあ決まりね!」
 モモ子は親指を立てた。

 飲み会は新宿で行われた。駅の東南口を出て少し歩いた所にあるお店だった。お洒落で落ち着いた空間の広がる和風の店で、奥の個室席に合コンメンバーが集まった。女性陣は幹事役の山川さんが一番入り口に近い席に座り、隣にモモ子、香織の順で並ぶ。山川さんは長い黒髪をしていて、細い目に薄い唇。上品でかわいらしい顔立ちをしている。男性側の幹事が山川さんの向かいに座り、横に二人並んで座った。特別イケメンという人はいなかったが、みんなスーツを着こなし、お洒落だ。優しそうな雰囲気も感じられる。
 香織は合コン自体には興味がなかったが、いざ初対面の人達と向き合うと、緊張してしまった。ニットにパンツという地味な服装で来てしまったことを後悔した。モモ子は紺色のVブラウスにコットンパールのネックレスを合わせ、白と黒のチェックのスカートを履いている。あのゴミ屋敷のような部屋のどこにこんなかわいい服があったのだろうか。山川さんはグレーのニットワンピースで、こちらも素敵な格好だ。自分ももっと見た目に気を遣うべきだった。
「みんな飲み物は?」
 山川さんがドリンクのメニューを開いて、男性側と女性側に配る。香織はモモ子と一緒にメニューを見た。聞いていたように、日本酒の品揃えがいい。日本の北から南まで、様々な銘柄を取り揃えており、定番のお酒からこんなものまで置いてあるのかという通好みの品まである。ちなみに、香織は自宅近くの酒屋で日本酒をよく買うのだが、店員さんにいろいろ質問するうちに、かなり詳しくなっていた。
 「俺、ビールで」、「ボクも」と男性陣たちがビールを注文すると、「私、ピーチスカッシュ」とモモ子が手を上げた。モモ子は飲めないから、ノンアルコールだ。
「あたしはカシスオレンジ」
 山川さんもすぐに決めた。
「香織ちゃんは?」
 モモ子が聞いてきた。
 香織も最初はビールにしようかと思ったが、
「あたし、利き酒セットで」
 と答えた。
 すると、モモ子が驚いた様子で目を丸くし、小声で注意してくる。
「え……香織ちゃん、いきなりそういうのいっちゃうの?」
「何で? ダメ?」
「一応、合コンなんだからさ。山川さんみたいに、女子力高めの注文しといたほうがいいと思うよ?」
 確かに、男性陣も若干引いているようには見えるが、利き酒セットは新潟の純米酒、山形の大吟醸酒、会津のにごり酒の三種類を少しずつ味わうことができる。どれも興味を惹く逸品で、センスの良さを感じるメニューだ。豪快に筆で書かれた字からも、『まずはこれをどうぞ』と言わんばかりの強い想いを感じる。頼まなければ悔いが残るだろう。カシスオレンジがなんだ。香織は注文を貫き通すことにした。

 乾杯をして各メンバーの簡単な自己紹介が終わり、飲み会は和やかに進んだ。香織はほどほどに会話を受け答えしながら、日本酒を味わった。純米酒のふくよかな香り、大吟醸酒のフルーティーな味わい、にごり酒のとろみのある甘さ。どれも素晴らしく、期待を裏切らなかった。
 モモ子は男性陣との会話が弾み、手を叩きながら「うける~!」とか「ニャ~?」という言葉を連発して、とても楽しそうにしていた。手の平は肉球なので、叩くたびにポフポフという音が響く。
 香織がメニューに手を伸ばし、次は何を頼もうかと考えていると、
「香織ちゃん、あの話してー」
 モモ子が振ってきた。
 「え、あの話って?」と香織が聞き返す。
「ほら、飲みすぎて目が覚めたら、なぜか大きな道路の中央分離帯で、仰向けで寝てたってやつ」
 モモ子の無神経さに、香織はカチンときた。確かに若い頃、香織はそういうおイタをしてしまった経験がある。だからって、その話を今するのはどうなのか。いくら香織が合コンに対してモチベーションが低いからといって、さすがにそこまで女を捨てたくはない。しかも、話の落ちを言ってしまっている。猫は悪魔の化身という説があるが、本当かもしれない。
「え、なんのこと?」
 などと言って香織ははぐらかすが、
「とぼけないでよー。ほら、お願いー」
 とモモ子はしつこくせがんでくる。
 香織はモモ子から視線を外して無視した。心の中で、もうやめてくれ、と叫んでいた。
 そんな時、香織の向かいに座っている春日井さんという人が、
「あのう、僕も日本酒飲んでみたいんですけど。何かオススメありますか?」
 と香織に尋ねてきた。
「え? まあ……好みにもよりますけど。辛口とか甘口とか」
「辛口がいいかな」
「じゃあ」
 香織は日本酒のメニューをめくった。香織の失敗談の話は流れて、モモ子はもう既に他の男性たちと別の話題を繰り広げている。困っている様子を見て、春日井さんは助け舟を出してくれたのだろうか。だとすると、なんて優しい紳士なのだろう。
 香織は日本酒を吟味しながら、ちらっと春日井さんの顔を見た。眉が太く穏やかそうな目だが、黒い瞳には力があって頭が良さそうだ。顔はかなりでかいが、鼻筋はしっかりと通っていて、よく見るといい男と言えなくもない。思わずじろじろと見つめてしまうと、ふと目が合って、慌ててメニュー表に視線を戻した。
「これとか、いいと思います」
 香織は秋田の吟醸酒を勧めた。全国的にも有名な酒蔵で作られているもので、かなり鉄板だ。
 春日井さんは店員さんを呼ぶと、その銘柄を注文した。香織が「私も」と店員さんに告げた。
 お酒がすぐに来て、春日井さんは一口飲む。
「うん、おいしい! すっきりしてて、こういうの好きだな」
 春日井さんがパッと笑顔になったのを見て、香織は「そうですか、よかった」と安心した。思えば、こうやって男性と会話するなんて、いつぶりだろうか? 合コンを毛嫌いしていたが、意外と悪くない。酔いも回ってきて、次第に楽しい気分になってきた。
「吟醸って、どういう意味なの?」
 春日井さんが質問してきた。
「精米歩合六十パーセント……まあ簡単に言うと、外側を半分近く削った米を醸造するっていうことで、一般的に淡麗な味わい、かつフルーティーな香りが特徴なんです」
「へえ~、そうなんだ。じゃあ、『大』が付くとどうなるの?」
「大吟醸っていうのは、吟醸酒に比べてさらにお米を削るので、より雑味が少なくなるんですよ」
 その後も日本酒トークが弾み、香織は居心地の悪さがなくなってきた。
 そんな時、春日井さんの隣の友人が、ふと気になることを言った。
「こいつさー、ついこないだ彼女と別れたばっかりなんだよ。な?」
 春日井さんの肩にバシッと手を置く。
「えー、そうなの!?」とモモ子が食いついた。
「振られちゃってさ、すっげえ落ち込んでたんだよ。でも、今日は元気出たみたいで、よかったな?」
 友人は春日井さんと香織を見て、ニヤニヤしている。 
「なんか二人、さっきからいい感じだよね?」
 山川さんがからかうように言った。 
「香織ちゃん、チャンスだよ! ヒューヒュー、ニャーニャー!」
 モモ子が囃し立てる。
 香織が「ちょっと、何言ってんの」と慌てて言い返すが、春日井さんは冷やかしの相手をせず、いなすように鼻先で笑みを浮かべていた。
 そのまま和やかに飲み会は続き、気がつくともう三時間ほど経っていた。香織はもう少し春日井さんと話がしたいと思ったが、時間も遅くて香織たちの家も遠いので、二次会は開催されずお開きとなった。

 夜中の十一時を回った頃、香織とモモ子は家に戻った。誠也がまだ起きて居間にいたので、飲み会の報告をした。
「じゃあ、モモ子さんはあんまり収穫なかったんですね」
 誠也は美顔ローラーで頬をマッサージしながら言った。
「うん、不発ー。結局、鼻息荒くない人がうまく持ってったりするんだよねー、合コンて」
 モモ子はお茶をすすって「ぷはー」とため息をついた。
「で、どうなんです、春日井さんて人? もっと詳しく教えて下さいよ」
 誠也が目を輝かせて、聞いてくる。
「だからそういうんじゃないって。連絡先も聞かれなかったんだし」
 香織は否定したが、モモ子は首を横に振る。
「大丈夫、大丈夫。今回は幹事が全員の連絡先を後でまとめて伝えてくれるスタイルなんだから」
 モモ子と香織のスマホからメールの着信音が鳴り、画面を見たモモ子が「ほら、来た」と言う。
 山川さんからメールで、香織は受信トレイを開いて見る。『今日はお疲れさまでしたー』と始まる絵文字がいっぱいのかわいらしい文章が書かれており、男性陣の名前と連絡先も記載されていた。
 すると五分もしないうちに、また香織のスマホの着信音が鳴った。メールを見ると、『今日はありがとうございました! 春日井です!』という件名が目に飛び込んだ。
 香織は思わずドキッとしてしまう。
「あ、早速きたじゃん!」
 モモ子が大きな声を上げて、画面を覗き込んできた。
 メールの文章は今日のお礼から始まり、日本酒についていろいろと香織から教えてもらえておもしろかったこと、お店のおいしかった料理のこと、お互い仕事忙しいけどがんばりましょうということが、とても丁寧に長い文で書かれ、最後には『またぜひ飲みましょう!』と締めくくられていた。
 続けてモモ子のスマホが鳴って、「あ、私にもきた」と春日井さんからのメールを開く。
 『今日はありがとうございました! 猫と飲む機会はあまりないので、楽しかったです』という短い文章。
「ずいぶんあっさりしてますね……」と誠也が苦笑いした。
「まあ、興味のない相手にはこんなもんだよ。これぐらいの方がわかりやすくていいしね」
 モモ子は香織の肩を力強くつかんだ。
「香織ちゃん、がんばってね! なんだったら私、一緒に返事考えてあげようか?」
「え、いいよ別に。明日適当に返しとくから」
「ダメだよ、そんなの! こういうのは即レスが肝心なんだから!」
「そうですよ、鉄は熱いうちに打て、ですよ」
 誠也も一緒にけしかけてくる。二人の勢いに香織は気圧されてしまい、何だか面倒くさくなってしまって、
「わ、わかったから! 大丈夫だから!」
 と言い捨てて、さっさと居間を出た。
 香織は部屋に戻ると、ベッドの上にどっかと座った。スマホを手に、どういう文章で返したらいいのか悩んだ。が、結局うまくまとまらずに、返事をせず寝てしまった。

 二日後、香織は図書館のカウンターで仕事をしていた。お昼時なので、利用客はあまり多くない。スキャナーを手に、たまに来る貸し出しや返却本の処理を機械的にこなしていく。
 あれから春日井とメールのやり取りはない。やはりすぐ返事しなかったのがまずかったのだろうか。メールを返したのは翌日の昼だ。しかも、気の利いた言葉が思いつかず、三、四行の淡々とした文章を送ってしまった。愛想のないやつだと思われたかもしれない。やはり恋愛の筋力が弱すぎて、肝心な時に踏ん張りがきかない。
 ボーっと考えながら、返却本のバーコードをスキャンしていると、「香織さん」と声がした。男性のスタッフに呼ばれたのかと思って、何の気なしに視線を手元の本から上げると、思わず目を見張ってしまった。
なんと、スーツ姿で鞄を手にした春日井の姿があったのだ。
「春日井さん!」
 発した大きな声に利用者たちの視線がこちらに集まり、香織は「失礼しました」と頭を下げる。春日井は太い眉を下げて、苦笑いを浮かべた。
「ゴメンゴメン、驚かせちゃって。ちょうど営業でこのあたりに来たもんだから。ちょっと挨拶でもしていこうかなって思って」
「あ、ええ……そ、そうだったんですか」
 香織は慌ててしまって、何を言えばいいのか思いつかないでいると、春日井さんの方からまた話しはじめた。
「いやあ、しかし広い図書館だね。ビックリしたよ」
「ええ……一応、県内でトップクラスの大きさです」
 大型 デパートの最上階にあるこの館は、ワンフロアぶち抜きの広大なスペースで、所蔵はおよそ五十万冊。ずっと遠くの方まで本棚が広がっている。
「本がどこにあるか覚えるだけでも大変そうだね」
「はい……まあ、慣れちゃえばそうでもないですけど」
 などと他愛もない会話をしばらくの間繰り広げた。
 春日井さんは腕時計を見て、「あ、そろそろ行くね」と去ろうとした時、立ち止まり、踵を返して言った。
「今度、飯でも食べに行かない?」

「キター! 香織ちゃん、恋のビッグウェーブ!」
 モモ子が椅子の上に乗って、波乗りのポーズをしながら叫んだ。
 誠也もうらやましそうな顔つきで、腰をくねらせる。
「いいなー、ボクも恋したいです~!」
 香織が家に帰り、春日井さんに誘われたことを告げたら、二人は大はしゃぎしたのだ。
「香織ちゃん、どうする? 付き合ってほしいっていきなり言われたら?」
「いやいや、あり得ないって。普通にご飯食べるだけだから」
「でもわかんないよ? 春日井さんは行動が早いから」
 確かにモモ子の言う通り、初っ端のメールもソッコーで送ってきたし、デートの約束もスピーディーに取りつけてきた。香織は返事に困り、黙ってしまった。
「もしかすると、いきなりこ~んなことされちゃうかも」
 椅子を下りたモモ子が香織の肩に手を回し、キスするように顔を近づけた。
「ああ、ええ……いや、ええ……?」
 香織は頭がクラクラとした。酔っているわけでもないのに、少し目が回り、頬が熱をおびている。
「あれ? 香織ちゃん、いつもの鋭い突っ込みはどうしたの? そんなわけないでしょ! みたいな」
「香織さん、かわいいです~。なんか乙女~」
 誠也がうっとりとした眼差しで香織を眺める。
 香織は「うるさい!」と怒鳴りたいところなのだが、どういうわけか言葉がうまく口から出てこない。胸が高鳴り、春日井さんのことを好きになりはじめていることに気づいた。
 モモ子は香織の様子をおもしろがって、
「よし! 香織ちゃんの恋を成就させるために、私が一肌脱いであげる!」
 と言い放つと、突然、スキップしながらキッチンへと入った。
 エプロンを着て、冷蔵庫から鮭の切り身が三枚入ったパックを取り出した。
「♪鮭、鮭、鮭~、ラブリー鮭~。サーモンピンクは恋の色~。ちなみに三切れ五百円、チリ産けっこうオススメよ~」
 香織はきょとんとしてしまった。
「モモ子さん、どうして料理なんか作り始めたんです?」
 誠也も首をかしげて聞いた。
「まあ、理由は後で説明するからさ」
 モモ子は鼻歌を歌いながら作業を進める。 鮭の切り身を一口大に切って、塩コショウを軽くふった。まな板を布巾で拭くと、いつものように大家さんが持ってきてくれていた野菜を手に取る。タマネギ一個を半分に切り、くし形にカットした。続けてキャベツ半分を豪快にざく切りにしていく。包丁の使い方はどれも大雑把で簡単な切り方なので、香織でもすぐにマネすることができそうだ。
「ホントはえのきとかもあるといいんだけどね~。まあこれでも充分だから」
 切った野菜を置いておき、続けて調味料を用意する。しょうゆと砂糖を小さじ一杯、みりんを大さじ一杯、最後に味噌と料理酒を大さじ三杯小さい器に入れてかき混ぜて、合わせ調味料を作った。相変わらず無駄のない動きは優雅さすら感じるほどで、香織は舌を巻いてしまう。
 モモ子はフライパンを温めて油をしき、鮭を身から焼いた。こんがりと色目がつくと、裏返した。
「さーて、こっから一気にいくよー!」
 切ったキャベツ、タマネギに加えてもやしをひとつかみ、次々とフライパンにぶっこむ。
「うわ~、なんか今日は豪快な料理ですね。素敵です~」
 誠也が両手を組んで、ほれぼれしている。
 モモ子はヘラを使ってサッと炒め、合わせ調味料を全体にかけて蓋をした。コンロを弱火に調節する。
「あとは六、七分待つだけ!」
 モモ子は盛り付ける食器の用意をはじめた。
 蓋がカタカタと動くたびに、味噌の甘い香りが漂ってくる。フライパンの中で、どんな味のマリアージュが起こっているのだろうか。香織はわくわくをおさえられない。
「よし、そろそろかな」
 時間が経って、モモ子がフライパンの蓋を取る。湯気が勢いよく立ち上り、蒸し焼きになった鮭と野菜が現われた。
 しんなりと火の通ったキャベツとタマネギは薄く味噌の色に染まっている。ごろごろと交ざっている鮭の身が柔らかそうだ。味噌だれが焼ける、ジュージューという音がたまらない。耳の奥まで響いてきて、食欲を刺激する。全体からは味噌の香りがとめどなくあふれ、ご飯、もしくはビールのお供にしたら最適だろう。
 モモ子が作った料理と自分の恋路に一体何の関係があるのか、香織にはさっぱり見当がつかないが、思わずよだれが出てきて、ゴクリと飲み込んでしまう。胃も激しく動いている。早く食べたい!
 モモ子は最後にレモン汁を少しふりかけ、小さじ二杯ほどのバターをのせた。お皿に素早く盛り付けて、尻尾を立てて言い放った。
「ちゃんちゃん焼きの完成~!」
 香織は『ちゃんちゃん焼き』は知っていたが、作っているのを見るのは初めてだった。

① 鮭に塩コショウをふり、タマネギはくし切り、キャベツはざく切りにする。
② しょうゆと砂糖を小さじ一杯、みりんを大さじ一杯、味噌と料理酒を大さじ三杯を合わせ調味料を作る。
③ 鮭を身から焼き、こんがりしたら裏返す。野菜を入れ、合わせ調味料をかける。
④ 蓋をして六、七分蒸し焼きにしたらレモン汁を少しふり、バターをのせる。

いつものように簡単だが、見栄えも良く、とても美味しそうだ。香織は早く
食べてみたいという気持ちにかられた。

「いただきまーす!」
 という声が居間に響き渡った。いつものように三人でテーブルを囲んでの実食。
 香織は早速、皿に取り分けたちゃんちゃん焼きに箸をのばす。まずはやっぱり鮭から。一口大に切られているので、頬張りやすい。口に入れると、熱々の身はプリっとした食感でありつつも柔らかく、軽く噛んだだけで口の中でほぐれていく。脂がのっていて、甘辛い味噌との相性も抜群だ。
モモ子が「うん、おいしいニャ~!」とヒゲを立てた。
「ホント、最高ニャ~!」と香織は大きな声で言い、誠也も「感動ですニャ~!」と舌を鳴らしている。語尾に『ニャ~』が付くのは、いつものことだ。
 香織は鮭を飲み込んだところで、キャベツとタマネギを口の中へと運んだ。キャベツはしなっと優しい舌触りだが、噛むとしゃっきり感も少し残っており、歯ごたえが堪らない。タマネギも甘みがあって絶妙の食感。更に味噌だれの味が染み込んでいて、食べるごとにどんどん食欲が増していく。
 さすがはモモ子だ。あれだけ手間がかからない簡単な工程なのに、見た目も味も素晴らしい料理を作り上げるとは。香織はいつものことながら、驚いてしまう。
「ちゃんちゃん焼きっていうのはね、北海道の郷土料理なの。ちゃっちゃと作れるから、ちゃんちゃん焼きっていう説もあるんだよ」
 モモ子は解説すると、大皿から香織の皿へ鮭の身だけを取りわけていき、
「ほら、どんどん食べて。香織ちゃんは、特に鮭をね」
「え、どうして?」
 香織は食べる手を止めずに聞いた。
「鮭にはね、『アスタキサンチン』ていう成分が多く含まれてるの。それがね、すっごい抗酸化力を持ってて、美肌効果がとってもあるんだよ。野菜もたっぷり摂れるし、ちゃんちゃん焼きを食べればお肌プリプリだよ」
「え、ホントですか!?」
 美肌効果と聞いて、誠也が食いついた。
 香織は「へえ~」と感心してしまったが、
「ん? 待って。どういう意味?」
「さっきキスするマネした時にね、香織ちゃんの顔をアップで見たら、肌カッサカサだったからさー。これはヤバイなって思って……」
 香織は「え……」と食べる手が止まる。
 モモ子は立ち上がって、香織の手を取った。
「香織ちゃん、美しくなって、デートに挑もう! そんな荒れた肌じゃ、うまくいくものも失敗しちゃうよ!」
「余計なお世話だっての!」
 香織は怒鳴って、モモ子の手を振りほどいた。
 だが、痛いところを突かれた。確かにここのところ、肌カッサカサだ。なんとかしなければとは思っていた……。
「香織さん、ボクももう少し鮭欲しいんですけど……いいですか?」
 誠也が上目づかいで頼んできた。
 香織は誠也を睨んで「ダメ!」と怒鳴り、鮭をパクパクと口に放り込み、誠也の皿からも奪って食べた。
「ああっ! ちょっと! やめてくださいよ!」
 誠也はショックを受けた様子で、瞳を潤ませた。
 香織は鮭を飲み込んで誠也に言い捨てる。
「ごめんね誠也。こっちは必死だから」
 横でモモ子が「香織ちゃん、その意気!」と手を叩いた。

 同じ週の金曜日。香織は春日井さんと目白にあるベルギー料理のお店に来ていた。店内はさほど広くはなく、年季が入り飴色になった木製のテーブルや椅子が並んでいる。お洒落でシックだが、どこか気取らずカジュアルな雰囲気が漂っている。入口に近い席で、香織は春日井さんと黒ビールを飲みながら、ムール貝の酒蒸しやフライドポテトを食べていた。
 ちゃんちゃん焼きのおかげか、香織の肌荒れは良くなっていた。頬の感じが軽くて気持ちよくて、指先で触れるとハリが戻っている。これなら至近距離で見られても大丈夫。心の中で「ありがとう、モモ子!」と何度も叫ぶのだが……なにしろ男性とのマンツーマンデートに慣れていない。春日井さんと待ち合わせてからというもの、頭の中に白い靄がかかったようで、普段の脳内瞬発力を発揮できなくなっていた。
「香織さんて、休みの日は何してるの?」
「そ、そうですねえ……本読んだりとか」
「本好きなんだね」
「あ、いや……ていっても、最近は全然読んでないかな……旅行雑誌とかなら、たまにちらっと」
「ふーん……」
 いけない、なんていう受け答えだ。会話が全然噛み合っていない。落ち着け、落ち着け、リラックス、リラックス……と念じるほどに、香織は緊張が増していき、ビールを少し口に運んではフライドポテトをつまむ、というのを繰り返してしまう。
「何か料理追加する?」
 春日井さんがメニューを開いて見せてくれる。
 香織は「じゃあ」と言って、料理名の文字をいろいろ眺めるが、食べ慣れていない料理なのでどんなものか見当がつかない。塩辛とかはないのかな? あるわけないか、などと考えながら、二、三分固まってしまい、「あ、やっぱりいいです……」とメニューを返した。
 無言の春日井さんは、困っている感じで瞳が細かく動き、気まずい空気が流れた。
突然、春日井さんのケータイが鳴った。どうやらメールが来たらしい。春日井さんはスマホを操作し、メールの返事を打ちはじめた。すぐ返事が返って来て、またメールをする。しばらくそれを繰り返していた。
春日井さんは、もう自分への興味が薄れてしまったのだろうか、と香織は不安になった。
 このままではいけない。微妙な感じの場を何とかしないと! と気ばっかり焦っても、どうにもならない。
「猫さんとは付き合い長いの?」
 ふいに春日井さんが話題を振ってきた。
「……そうですね、六年くらいになります。一緒に住んでからはもうすぐ一年かな」
「あんな着ぐるみみたいな猫が家にいるなんて、楽しそうだよね」
「いやいや全然。もう大変なんですよ、家の中はめちゃくちゃに散らかすし、壁で爪を研いでボロボロにしちゃうし、人のもの勝手に食べるし」
 春日井さんが「ははは」と笑った。
「ホントにマイペースなんですよねえ、猫って。先月なんか仮病で三日も会社休んだんですよ。それで何してたと思います? ずっとゴロゴロ寝てたんですよ。たまに起きてゲームして、また寝てを繰り返して」
 香織は喋りながら、あれ? と感じた。するすると言葉が出てきている。
「ホント最低の人間、いや猫ですよ。ただ、料理の腕は凄くて。魚料理だけなんですけどね。猫は怠け者だから、簡単なお手軽料理。でも、どれも美味しくて」 
 春日井さんは香織の話がおもしろいようで、目を輝かせながら「へえ~」と相づちを入れ、聞き役に回っている。
「あともう一人同居人がいて、前の飲み会でも話しましたっけ。誠也っていう男の子。男のくせに、すぐ泣くんですよ」
 香織はペラペラと喋り続ける。
「『男だろー!』って怒鳴りたくなるんです。いや、怒鳴ってるな」
 不思議だ。
モモ子と誠也のことだったら、どんどん話題が出てきて、いつものように自然に喋れる。春日井さんも楽しんでいるようだ。さっきまでの凍てつく空気に陽が射し、緑が芽吹き小鳥がさえずりだしたような気がした。

 話は盛り上がって、気が付くと十時を過ぎていた。香織たちはそろそろ帰ることにした。店を出て駅へと向かう。
 ひんやりとした空気に触れて、香織は次第に気持ちが落ち着いてきた。空にはオリオン座が広がっていて、もう冬なんだと改めて感じる。
 横目でちらっと春日井さんを見た。何か考えごとをしているような様子で、黙って道を進んでいる。
 またモモ子たちの話をするのも興ざめな気がするので、話題を考えるが思いつかない。
 沈黙が続く。
 香織は「どうする? いきなり付き合ってくれって言われたら?」というモモ子の言葉が脳裏をよぎった。モモ子の見立てでは、彼女と別れたばっかりだが、春日井さんは段取りが早いので、クリスマスまでにはまた恋人をしっかり作ろうとしているはずだということだった。
 一回目のデートでそんなことはないと思うが、もし万が一、今、告白なんかされたらどうしよう。いやいや、有り得ない。有り得ないけど……。
 あれこれ考えて勝手に舞い上がってしまい、歩くのが遅れた香織を春日井さんが振り返り「どうしたの?」と声をかけてくる。
 思わずドキッとしてしまう。
「あっ、いえ……別に……」
 その時、春日井さんのスマホが鳴り、「もしもし」と電話に出た。
 香織は早歩きで春日井さんに追いつく。
 ふと、電話口の向こうから、若い女性の声が聞こえたような気がした。
 春日井さんは「え? 大丈夫? うん、わかった。今から行くよ」と言って電話を切った。
 香織がきょとんとして、
「……何かあったんですか? お姉さん? 妹さん?」
 と聞いた。
 すると春日井さんは、太い眉を下げて頭を掻いた。
「……いや、元カノ。というか、彼女か。つい一昨日、よりが戻ってさ」
「え……?」
「なんか、風邪こじらせちゃったみたいで、すごい熱出ちゃったんだって。心配だから、いかないと」
 香織は一瞬、何を言われたのかよく理解できなかった。サーっと音を立てて、周りの景色が霞んでいくような気がした。音も消えていき、キーン……と耳鳴りがする。
 そうか、そうだったのか。元カノと、よりが戻っていたのか……。ご飯の最中に来ていたメールも彼女からのものだったのか。
 後のことは、香織はあまりよく覚えていない。気が付くと北浦和駅の改札を出ていた。週末の夜は仕事帰りの人が多く、肩がぶつかったりしながらも、ボーっと階段を下りた。

「チキショー!」
 香織は居間でほえた。
「あの野郎ー! バカにしやがってー!」
 モモ子も怒鳴って、ソファのクッションを猫パンチで殴る。
「許せないです! 香織さんをこんな目にあわせるなんて! くぅ~!」
 誠也もハンカチを噛んで大泣き状態。
「彼女ができてたんなら、さっさとそう言えよ! 変に期待もたせやがって!」
 香織はモモ子のお腹に抱き着いて、わんわん泣いた。
「よしよし、思いっきり泣きなさい」
 モモ子は香織の頭を撫でる。
「よし! 香織ちゃん! 今日は飲みな!」
「そうですよ、飲んでパーっと忘れちゃいましょう!」
「うん!」
久しぶりの恋はあっさりと終わった……。しかし、こういう時に一緒に悲しんだり慰めてくれるモモ子と誠也がいて、ホントによかった。香織はモモ子がコップに注いでくれた日本酒を一気にあおった。

 結局、何日か飲み明かす日が続いた。ある朝、香織は洗面所の鏡で自分の顔を見ると、また肌がガッサガサになってしまっていた。
さすがにこのままではまずい。モモ子にまたちゃんちゃん焼きを作ってもらおう……。
 香織は着替えて家を出て、二日酔いによる頭痛をこらえながら、鮭を買いにスーパーへと向かった 。







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