第3話「金目の煮つけ」

文字数 11,540文字

 九月のある夜、帰宅した誠也は居間に入って来るなり、突然、「ううっ」と涙をこぼしはじめた。顔をくしゃくしゃにしながら床に横座りして、乙女のように、よよと泣いた。
 テーブルでモモ子と一緒にプリンを食べていた香織は、何事かと目を丸くした。モモ子が「どうしたのー?」と尋ねながら、誠也にティッシュ箱を差し出した。
「ほらほら、せっかくエステで磨いてる美しい顔が台無しだよ」
 皮肉なのか本音なのかわからないが、モモ子は気遣いの言葉をかける。
 誠也はティッシュを一枚取ると、勢いよく鼻をかんだ。もう一枚取って、目元に当てて「ひっく、ひっく」としゃくりあげた。
 「大丈夫?」と香織が聞くが、誠也は肩を震わせながら、泣き続けている。
「失恋でもした?」
 とモモ子が誠也の顔を心配そうに覗き込んで言った。
「そ、そんなんじゃないんです……」
「じゃあ友達と喧嘩した? わかった! お肌のトラブルでしょ? シミがたくさんできちゃったとか?」
 モモ子が続けて質問を浴びせたが、誠也は首を小さく横に振るだけだ。
 男だろ、しっかりしろって! と言いたくなる香織だが、ここで声を荒げたら、誠也の傷が更に深くなりそうなので、そっと言葉を飲み込んだ。
 どうしたものかと香織が困っていると、モモ子が冷蔵庫からプリンを一つ取ってきて、
「ほら誠也くん、一緒に食べよ。甘い物でも食べれば、気分も晴れるよ」
 ヒゲをピンと立てて、誠也に差し出した。
 コンビニの秋の新作、かぼちゃプリンだ。香織がどうしても食べたくて買ってきたのだ。しかも人数分。お給料が入ったから、大盤振る舞いだ。
「これ、めちゃくちゃおいしいよ? すごく濃厚でさ! 普通のより、値段もちょっと高めなんだから!」
 人が買ってきたプリンを得意げに勧めるモモ子を見て、香織は若干イラっとしたが、目くじらを立てるのも大人げないと思い、そのまま流した。
 それにしても、誠也は一向に表情が浮かないままだ。プリンにはまったく手を付ける様子もなく、すっと立ち上がると、
「二人とも、すいませんでした。ご心配かけちゃって。今日はボク……もう寝ます」
 と小声で言って、二階へと上がっていった
 いつも些細なことでベソをかく誠也だが、あそこまで号泣するのを香織は見たことがなかった。きっと酷く傷つくことがあったのだろう。すぐに立ち直ってくれればいいのだけれど……。

 翌日の朝、出勤の時間になっても誠也は部屋から出てこなかった。
 心配になった香織は誠也の部屋のドアをコンコンと叩く。
「誠也、もう仕事の時間でしょ? そろそろ起きないとヤバいんじゃない?」
 しかし、中から返事はない。
「まだ寝てるのかな?」
 横にいるモモ子が、豆腐の味噌汁にご飯をぶっこんだ猫まんまをスプーンで食べながら、首を傾げた。昨日の残り物を朝ご飯に使ったようだ。ズズッ、ズズッ、と啜る音がさっきから耳障りだ。
 立ちながら音を立てて食べるなんて、行儀が悪過ぎる……。
 香織はあきれたが、面倒なので指摘はせず、もう一度、「誠也~、お~い」とドアを叩いてみる。
 すると、微かに返事が聞こえた。
「今日は休みます~……体調悪いんで……」
「大丈夫? 熱とかある?」
 香織は聞いてみるが、またしんと部屋の中は静かになった。そっとしておこうと思い、香織は階段を下りていく。モモ子も猫まんまを食べながらついてくる。
 誠也はいつも美容に気を使っていて、規則正しい生活に加えて栄養もしっかり摂っているので、風邪を引くことはめったにないと、香織は本人から聞いたことがあった。やっぱり、昨日落ち込んだことを引きずってるんだろうか……。
「何があったんだろう?」
 香織がつぶやく。
「香織ちゃん、私はわかったよ。あれはね、恋わずらいだよ」
 モモ子が長い尻尾をビシッと立てながら豪語した。
「え、でも昨日、失恋とかじゃないって言ってたじゃん」
「そこは誠也くん乙女だからさー、正直になれなかったんだよ、きっと」
「そうかなあ……」
「猫の勘は鋭いんだから。たぶん、片想いの相手にふられちゃったんだよ。ただ、ここで気になるのは、誠也くんの好きな人が女性なのか、男性なのかってとこだよね~。でもやっぱり、男性だろうね。誠也くんは男らしい人がタイプだと思うから~、体がおっきくて筋肉バキバキで、髪はベリーショート、目が切れ長のクールな感じで……」
 などと、モモ子が勝手に妄想を膨らませて喋るのを香織は適当に聞き流した。
誠也は正直だから、図星をつかれればすぐに認めるはず。やっぱり恋の悩みなんかではない、と香織は考えながら居間に戻ると、棚の置時計を見てギョッとした。もう八時を回っていた。
「ヤバイ! 遅刻だ!」
 香織は慌ててバッグを手に取る。
 モモ子も焦りはじめた様子で、耳をぺたんと寝かせて、「あ~、どうしよ、どうしよ!」と声を上げていた。が、あきらめたのかすぐにソファにどっかと座った。
「もう絶対に間に合わない。今日はズル休みしちゃおーっと」
 そんなモモ子を置いて、香織は猛然と玄関を出た。

 夜になって、香織が帰宅すると、モモ子が居間のソファでいびきをかいていた。仰向けになり両腕を上げて万歳をしているという寝相で、シャツがはだけてお腹が丸見えになっている。毛に覆われた腹部は寝息のたびに大きく膨らんだり、へっこんだりを繰り返していた。
 香織はモモ子を手で揺すって、「ほら、風邪ひくよ」と声をかけた。
「う、う~ん……にぼしが半額で売ってるから、三袋ぐらい買っておこうか……むにゃむにゃ」
モモ子は寝言を返してきた。
 「まったく……」と香織が呆れると、モモ子はあくびをしながら起き上がった。
「あ、香織ちゃん、お帰り。てゆーか私、ずっと寝ちゃってたんだ」
「え、いつから?」
「朝から。お昼ご飯で一回起きたけど、すぐまた寝た」
「寝すぎでしょ!」
「でもね、猫は寝るのも仕事っていうかさ。もともと、ねこっていう字は寝る子って書いて、『寝子』だったらしいよ」
 意外な豆知識に、香織は思わず「へえ~」と声を上げた。しかしまあ、そんなことは別にどうでもいい。
 香織は帰りにコンビニで買ってきた唐揚げ弁当をテーブルに出すと、冷蔵庫を開けて日本酒の瓶を取った。今日は仕事が忙しかったから、晩酌しようと決めていた。仕事の疲れを癒すのはお酒にかぎる。お気に入りの山形の純米酒だが、モモ子は日本酒を飲まないから盗まれることはない。堂々と冷蔵庫に置いても大丈夫だ。
冷蔵庫の中はほとんど空だったが、新聞紙にくるまった三つ葉があった。いつものように大家さんが作って分けてくれたものだ。
 香織はお弁当を食べながら、日本酒をおちょこに注いで飲んだ。キリリと冷えたお酒が喉を通り、ふくよかな香りが鼻から抜けた。二口、三口と飲み進めていくうちに、幸せな気分が体を包み込み、ふうと息をつく。
 しかし、どうも悶々としたものが心に張りついている。やはり誠也のことが気になっていた。
「誠也はどうしてる? って、一日中寝てたからわからないか」
「そうだねえ……たぶん、ずっと部屋にいたんだと思うんだけど」
「大丈夫かなあ……」
 その時ちょうど、「美肌菌を増やして、ツルツルお肌になりましょう!」という声がテレビから聞こえてきた。
 香織はテレビに視線を向けると、生活情報バラエティの番組が流れており、美肌になる方法が取り上げられていた。
なんでも、人の肌には『美肌菌』という細菌がいるらしく、増やせば肌の調子が上がるのだそうだ。そのためには、朝は洗顔フォームを使わずに、水だけで顔を洗うのがいいそうだ。
 そんなこと全く知らなかった香織は、ふとモモ子に提案をした。
「これ、誠也にも観せてあげようよ」
「そうだね、元気出るかも」
 モモ子はポンと手を打って賛同した。
 香織はモモ子と一緒に居間を出て、階段を上がった。誠也の部屋のドアをノックして、声をかける。
「誠也~、今テレビで面白いのやってるよ。お肌ツルツルになる方法なんだけどさ!」
「下に来て、一緒にテレビ観ないー?」
 モモ子も大きな声で呼びかけた。
 しかし、返事はなく、しんと静まったままだ。
「『美肌菌』ていうのがあるんだけどね、増やすといいんだって。知ってる?」
 香織が問いかけた。
 すると、誠也のか細い声が返ってきた。
「……いや、聞いたことないです」
 「あ、食いついたみたいだね」とモモ子がささやき、香織はうなずいた。
「ほら、部屋から出て来てさ。下で観ようよ。早くしないと終わっちゃうよ!」
 香織はさらに声を大きくして、誘い出そうとした。
「……すいません。今、そういう気分じゃないんで……」
 香織はモモ子と顔を見合わせ、肩を落とした。
「まるで天の岩戸状態だね」
 モモ子が溜息まじりに呟いた。
 美肌になるための方法をちらつかせても効果がないなんて……香織は誠也のことがますます心配になってきた。
 次の日も、誠也は「体調が悪いです」と言って部屋にこもってしまい、仕事を休んだ。食事もろくに摂っていないようなので、香織は会社帰りに北浦和の商店街のお肉屋さんに寄って、コロッケとメンチカツを買うことにした。ここのコロッケとメンチは具がたっぷりでソースが合う、昔懐かしい味だ。値段も安く、香織はちょいちょいおかずにするのだ。
 香織は家に着いて玄関で靴を脱ぐと、居間には明りが点いており、アップテンポのテクノ系音楽が聞こえた。きっと、先に帰って来たモモ子がテレビでも見ているのだろう。ドアを開けて入ると、香織は目の前の光景に絶句した。
 なぜか、ストライプのワンピースや水色のフレアブラウス、花柄のミニスカート、デニム地のロングスカート、スクウェアネックのキャミソール、フリルの付いたビキニ、厚底パンプス、赤い皮のハンドバッグ等、色んな服や小物が床やソファの上に散乱していた。
 そしてど真ん中で、紫色のパーティードレスに黒のボレロを羽織った誠也が鏡で自分の姿を見ていた。
「な、な、な、何してんの、あんた!?」
 誠也がハッと気が付いて、こちらを振り向いた。
 香織はあまりの衝撃に、もう一度、同じ言葉を叫んでしまった。
「何してんの、あんた!?」
 誠也はテンパった様子で、言葉が途切れ途切れになりながら答える。
「す、すいません……ちょっと……い、いろいろありまして……」
「いろいろって何!?」
 誠也は言葉に詰まり、しばらく黙った。ノリノリのテクノサウンドがうるさい。誠也のスマホと無線LANでつながったスピーカーから大音量で流れていた。香織はスマホの画面をタップして音を止めた。
「ボク……実家に帰ることにしようかと思って……それで、その……」
││え? 何、どういうこと? さっぱり意味がわかんない。実家に帰ることと女装と、一体どんな関係があるっていうの?
ほんの数秒の間、香織の頭の中は高速で回転し、答えに行きつこうと必死になったが、まるで道筋が見えなかった。結局、眉をひそめたまま、身動きできないという状況に陥ってしまった。
 その時、「ただいま~」とモモ子が居間に入ってきて、状況を見るなり「何これー、ウケるー!」とはしゃいで、スマホで写メを撮り始めた。
 パシャ、パシャと撮影音が響き、「誠也くん、カワイー。似合ってるよ」とカメラマンのようにシャッターを切りまくった。
 誠也は思いつめた顔でただ立ち尽くすだけで、突然両手で顔を覆うと、ワッと泣き出した。
「誠也、大丈夫? 一旦落ち着こうか?」
 香織は誠也の肩に手を回し、なだめようとする。
「誠也くん、ごめーん。あんまり着てる服が気に入ってなかったのかな? 撮られたくなかった? ほら、そっちのワンピースの方が似合うかもよ」
 モモ子は空気を全然察しておらず、素っ頓狂な事ばかり言っている。
「モモ子、ちょっと黙ってて!」
香織は怒鳴り、むせび泣く誠也の肩を揉んであげたりしてリラックスさせようとした。

 ニ十分ほどして、落ち着きを取り戻した誠也が事の次第を話しはじめた。まずは順序だてて、ここ数日、部屋にこもりっきりだった理由から説明してくれた。
「実は、職場の人間関係がつらくて……。主任に暴言吐かれまくるんです。それで仕事に行きたくなくなっちゃって。まあ、ミスばかりするボクも悪いんですけど……」
 誠也は老人介護デイサービスで、利用者の送り迎えをする仕事をしている。最近は従業員の人手が足りないので、施設内の掃除をしたり、食材を買い出ししたり、レクリエーションの準備をしたり、他のお手伝いもしているのだとか。それで、覚えることも多く、要領の悪い誠也は主任から目を付けられてしまったらしい。
 誠也は話を続ける。
「帰って来て泣いた時あったじゃないですか。あの日、仕事の送迎車をぶつけちゃったんですよ」
「え、ホント!? けっこう派手にやっちゃったわけ? ケガ人とかでなかったの?」
 香織が質問を投げると、
「いえ、少し後ろの部分をこすった程度です。車庫入れの時だったんで、乗ってたのはボク一人ですし、誰もケガはしてません」
「じゃあ、そんなに大したことないじゃない。会社だって保険入ってるんだろうから、修理代は出るんだろうし」
「でも、毎月の保険料が少し高くなっちゃうんです」
 誠也はまたポロポロと大粒の涙をこぼしはじめ、モモ子がそっとティッシュを手渡していた。
「だいぶ怒られたわけ?」
と香織が聞くと、誠也はティッシュで目頭を押さえながら頷いた。
「最近はどこの会社も、少しでも経費は押さえたいですからね。主任も鬼のように怒っちゃって。給湯室に連れてかれて、二時間くらいくどくど説教されました。最後は……ダメ人間、クズってののしられて……ボク、もう苦しくて、目の前が真っ暗になっちゃったんです」
 話を聞いて、香織はその主任とやらにカチンときた。
 確かに、誠也はドン臭い。家事だって、いつも遅々として進まない。洗濯ものを干しはじめたら、いつまでもやっているし、洗い物をしていても食器をよく割ってしまう。仕事だってできないかもしれない。
 でも、だからって、ダメ人間やクズはないんじゃないか? 誠也は不器用だけど、根は真面目だ。誠也なりにがんばってやっているはず。まあ、いつも美顔ローラーで顔をマッサージしたり、お肌の事ばかり気にしてて、ボーっとしているところはあるが……。
 とにかく、打たれ弱い誠也にそんな言葉を浴びせたら、深く傷つくのはわかっているんだろう。
「その主任、根性悪いねえ……!」
 香織が声を荒げると、
「でも、香織ちゃんだって、怒るとそれくらい口悪くなるじゃん」
 モモ子が鬼の首を取ったかのように、笑いながら突っ込んだ。
 痛いとこをつくんじゃないよ、と香織は心の中で叫んだ。そう、香織もキレると、暴言を吐いてしまう癖がある。でも、三十を過ぎてからは、過ちを犯さないように心がけてはいるのだ。
 香織はモモ子になんと言い返したらいいかわからなくて唇を噛んだが、モモ子も誠也の話には憤りを感じていたようで、「パワハラってやつだね。許せない」と口を尖らせていた。
 誠也は蚊の鳴くような声で話し続けた。
「もう、何もかも嫌になっちゃって。仕事辞めて実家に帰ることにしたんです。それで最後に何か、自分の好きなことをパーっとやってやろうって思って。だから気に入った服を買いまくって、一人でファッションショーをしたんです……」
 香織はようやっと合点がいった。だから女装をしていたのか……。でも、誠也はやっぱりそっち系なんだな、と香織は改めて確信したが、あえて口にしないことにした。
「てゆーか、お金はどうしたの? こんなにたくさん、どれもブランド物でしょ? 何十万もしたんじゃない?」
 香織が問いかけた。
「……カードで買っちゃいました」
 誠也は指で頬を掻きながら答えた。
 香織は「ええ!?」と立ち上がってしまい、「どうするの!? あんたそんなに貯金ないでしょ!」と声を荒げた。ふと横に座っているモモ子を見ると、瞳孔が開いて黒目が大きくなっている。ちなみに、猫は驚いたり怒ったりして興奮状態になった時、こういう目をするらしい。
「ぶっちゃけ、どうやって払うかとか、何も考えてません。最悪、パパに何とかしてもらおうかと思います……」
 誠也が肩を落としながら言った。
 もしかして、それはお洋服とかをプレゼントしてくれるパトロン的なアレだろうか? という考えが香織の脳裏をよぎり、恐る恐る聞いてみる。
「パパって、誠也のお父さんのこと?」
「はい、そうですけど?」
 香織は少しほっとした。どうやら、考えすぎだったようだ。そういう関係の男性がいるのかと思ってしまった。
 モモ子はニヤニヤと笑っており、誠也の背中をポンと叩いた。
「いや~、誠也くん、思い切ったことしたね。後先考えないそういう感じ、私、嫌いじゃないよ」
「でも、全然心が晴れないっていうか……楽しめなくて……ううっ」
 誠也はまたおえつしだし、パーティードレスの袖を涙で濡らした。
「それにしても、実家に帰るなんて寂しいこと言わないでよ。せっかくこうやって、同居生活も楽しくやってるんだしさ。そんな嫌な奴のことなんか気にしないで、もっと図太くいかなきゃ」
 香織が説得を試みる。
「そうだよ、もっとがんばろうよー」
 とモモ子も鼓舞した。が、誠也は首を振る。
「主任は蛇のようにしつこいですから……それに、主任がどうこうっていうよりも、そもそもボクなんか、都会にいたって何の意味もないんですよ。まあ、ここは埼玉の外れで、都会ってわけじゃないですけど」
 それから誠也は身の上をいろいろと話してくれた。
 もともと誠也はファッションデザイナーを夢見て、下田から出てきたのだそうだ。期待に胸を膨らませて、デザインの専門学校に通いはじめた。しかし、周りの生徒たちのセンスに圧倒された。課題を出すたび、皆のレベルの高さを見せつけられ、落ち込んだ。何よりも皆はファッションデザイナーを目指す意識が高かった。常に流行を学び、必死で技術を身に付けようとしていた。自分はちょっと服が好きなだけで、専門学校に入ってしまった。同じように頑張れる根性がない。中途半端な気持ちで飛び込んでしまったことを痛感した。結局、ファッションデザイナーになるのは無理だと感じ、あっさりと挫折。専門学校も休みがちになり、卒業はしたものの、ファッション関係の仕事は諦めた。ぼーっと生きるだけの毎日が続いた。しかし、実家に帰るのもはずかしかったので、結局、ネットで今の仕事の求人情報を見かけて何の気なしに応募したのだそうだ。住まいも高円寺だったが、職場に近いところにしようとネットで探していたところ、この家のことを知り、こちらもまた何の気なしに申し込んで入居を決めたのだとか。
 何としまりのない、情けない人生だろうか、と聞いた人は思うかもしれない。しかし、誠也は心がとても繊細だ。だから、きっと誠也の周りには、香織にはわからない苦しみやストレスの大海が広がっているのだろう。そう考えると、同情してしまう。
「帰って、お婆ちゃんの金目の煮つけを食べたいな……。下田って金目鯛が名物で、お婆ちゃんの得意料理なんです。いつもボクが落ち込んでる時に、元気づけるために作ってくれたんですよ。これがおいしくて、おいしくて」
 誠也は話しながら、また「うう……」と泣き出した。
 すると、モモ子が突然立ち上がり、尻尾をビーンと立てた。
「よし! わかった!」
「え、どうしたの、モモ子?」
 香織が聞くが、モモ子はろくに答えず、ハンドバッグから財布を取り出した。
「まだスーパー開いてるよね!」
 と言うと、風のように玄関を出て行った。

 モモ子はすぐに帰って来た。手にはビニール袋を下げている。
「あったよー、よかったー」
 ビニールから買って来たものをテーブルの上に取り出すと、金目鯛の切り身だった。パックに三切れ入っており、ラベルには『1800円』と表示されている。
「いやー、奮発しちゃったよー。でも誠也くんのためだからさー」
「え? ボクのため……ですか……?」
 誠也がきょとんとした。
「あんたまさか、金目の煮つけ作ってあげようとしてるの?」
「正解ー。お婆ちゃんに代わって、誠也くんを元気づけてあげようと思って」
「でもあんた、簡単な料理しか作れないじゃない。金目の煮つけなんかできるの? 料亭とかに出てくるやつじゃん」
「まあ見てなよ」
 モモ子は得意気に金目のパックを手にキッチンへと入った。香織は誠也と一緒に、様子を眺める。
 モモ子はやかんで湯を沸かし、お酒と砂糖、しょうゆを用意しながら、
「♪キン、キン、キンメ、キンダイーン。給料前はやめてよね~、財布に厳しい高級魚~。鯛ってつくけど鯛じゃない~。実は古代魚、深海魚~」
 といつものように適当な歌を口ずさんだ。
 まず、金目鯛のラップを外した。スーパーの切り身とはいえ、さすがは高級魚だ。皮目は鮮やかな赤で、プリっと弾力のありそうな白身が上品な雰囲気を醸し出していた。
 モモ子は金目をザルに乗せると、やかんを手に取って沸騰したお湯をさっとかけた。冷水にさらし、うろこや血合いをよく洗い、ペーパータオルで水気をふき取る。
「こうすると魚の臭みとか雑味が消えるんだよ。『霜降り』っていう技なんだ」
 香織が「へえ~」と感心していると、モモ子は料理酒二百CCと砂糖大さじ3杯をフライパンに入れ、火にかける。
勢いよく泡が出て煮立ってくると、菜箸で金目鯛の切り身を取って、重ならないように丁寧にフライパンの中に並べた。弱~中火に火力を調節し、一、二分してから、しょうゆ大さじ四杯を全体にかけるように加える。
 金目に薄茶色く色味がかかり、早くも甘くて香ばしい香りが漂ってきた。煮汁に浸かりながら身が小刻みに揺れ、火が通って皮目が淡くつややかになっていく。
 モモ子はアルミホイルで落し蓋をして、ポンと手を叩く。
「さあ、これで五、六分くらい待つよ。その間にっと……」
 冷蔵庫から大家さんが持ってきてくれた三つ葉を取り出し、水で洗い始めた。まだ採れたてだから、青々としてみずみずしい。さらに盛り付けのための白い皿を棚から取り出して、並べはじめる。
 まるで舞でも舞っているかのような、流れるような一連の動きだ。いつものことだが、魚料理となるとモモ子は本当に手際がいい。香織はつくづく感心してしまう。
でも、本当にこんな簡単な工程でおいしく作れるんだろうか?
すると、頃合いを見て、モモ子がアルミの落し蓋を取った。
 きれいな飴色をまとい、照りも鮮やかな金目の煮つけが香織の目に飛び込んできた。ふっくらとして柔らかそうな身は、脂がキラキラと光っている。
 香織は「うそ~」と声を漏らしてしまい、誠也も信じられないといった様子でポカンと口を開けた。
 続けてモモ子はスプーンでたれをかけまわしながら、一分ほど煮た。煮つけを並べた皿に盛りつける。仕上げに、モモ子は三つ葉を一つまみのせ、彩りも豊かになった。
「金目の煮つけ、完成ー!」
 香織はできあがった料理をじっと眺めた。いつものように、頭の中で作り方をおさらいしてみる。

① 金目鯛の切り身を霜降りする。
② フライパンに料理酒と砂糖を入れて中火にかけ、煮立ったら金目を並べる。
③ 弱~中火で一、二分火にかけてから、しょうゆを加える。アルミの落し蓋をして、五、六分 煮る。
④ たれをかけまわしながら一分ほど煮て、皿に盛る。

 相変わらず簡単な手順だが、とてもおいしそうだ。香織は期待に胸が膨らん
だ。

 香織とモモ子は「いただきまーす!」と元気よく声を上げ、誠也も合掌してぺこりとお辞儀をした。
 香織は金目の煮つけに箸を入れる。身がとても柔らかく、力を入れなくてもほぐすことできた。見た感じ、中までしっかりと火が通っており、短時間しか調理していないのに、本当にしっかりとした煮つけとなっている。
 箸で取った身から飴色の汁が滴る。香織は、ご飯の上で一度ワンバウンドをし、口の中へと運んだ。すると、稲妻に撃たれたかのような衝撃が走った。
「んー!? 美味しすぎるー!」
 ふっくらとした身は少し噛んだだけで、ほろりと溶けていき、味もしっかりとしみ込んでいる。濃厚な煮汁と金目の脂の上品な甘さが口の中に広がる。砂糖としょうゆ、お酒だけでこんなにも濃厚で深いコクがでるものだろうか、と香織は驚嘆してしまう。
 すかさずご飯を頬張ると、甘辛い煮つけの味と白いお米が口の中で素晴らしいハーモニーを奏でている。ビールにも合いそうだ。お店で出しても、全く遜色のない煮魚である。
「おいしいニャ~! 我ながら良くできたニャ~!」
 モモ子は満足そうにヒゲを立てた。
「最高ニャ~! モモ子! あんたさすがニャ~!」
 香織もつられて、語尾に『ニャ~』がついてしまう。
 モモ子はニッコリと微笑む。
「ありがとニャ~。で、誠也くん、どう?」
 ふと誠也を見ると、口をもぐもぐと動かしながら答えない。ゆっくりと噛んでから、ごくりと飲み込むと、一点を見つめたまま黙った。
 しんと静まり返る。冷蔵庫のブーンというだけ音が響いた。
 誠也はもう、箸が止まってしまっていて、モモ子が不安げな顔で「お口に合わなかったかな……?」と聞いた。
 誠也はそれでも無言のままだ。
 やっぱり、本場のお婆ちゃんの味には、遠くおよばなかったのだろうか……。モモ子の料理は確かに最高だった。けど、何かが足りなかったのかもしれない。材料なのか、手間なのかはわからないけど、誠也を元気づけるまでにはいたらなかったみたいだ。残念だけど、あきらめるしかないか……。
その時、誠也の頬を涙が一筋流れた。
「……め、めちゃくちゃ美味しいです。お婆ちゃんの味とは少し違うけど、これはこれで、素晴らしいと思います」
「ホント!?」
 モモ子が前のめりになって聞く。
「はい……なんか、下田にいた時のことを思い出しちゃいました。小学生の時に上履き隠されて、お婆ちゃんに慰めてもらったこととか。中学の手芸部で部長に選ばれたけど、うまく部員をまとめられなくて先生に怒られた時……高校でもいろいろあったなあ……その度にお婆ちゃんが、金目の煮つけを作ってくれて……」
 誠也はボロボロと大粒の涙をこぼしながら語った。しかし、微笑みを浮かべており、頬に少し赤みがさしている。心穏やかになった様子が見てとれた。
 誠也は立ち上がると、礼儀正しくお辞儀をした。
「モモ子さん、ありがとうございます」
「いいの、いいのー。でも誠也くん、少し元気が出てきたみたいでよかったよ。ここんところ、落ち込みすぎて肌も荒れてるしね」
「え!? やっぱりそうですか? 参ったなー。しっかりローラーやらないと」
 香織は思わず吹き出し、いつもの誠也が戻ってきたことにホッとした。
「ほら、誠也。どんどん食べなよ、冷めちゃうよ」
 香織が言うと、誠也はまた煮つけをほおばり、「おいしいー」と笑顔で食べる。
 いつものように笑いと幸福感に溢れた楽しい晩餐となった。

 後日、誠也は復活した。もう少し、こっちでがんばってみることにしたのだ。会社の上司も誠也には強く当たり過ぎたことを反省していたようで、もうあまり怒鳴られたりはしなくなったようだ。ちなみに、『美肌菌』を増やすために、毎朝顔は水で洗っている。
 いつもの誠也に戻り、安心していた香織にモモ子が一枚のメモをよこした。『せいきゅうしょ きんめだいのお金 1800円』と記してあった。マジックでちょろちょろと書かれた汚い字だった。
「え? 何これ?」と香織が聞くと、「見れば分かるでしょ。請求書だよ」とモモ子は答えた。
「……何であたしが全部出さなきゃいけないの? せめて割り勘でしょ」
 香織は異議を申し立てた。すると、
「だって、作ったのは私だよ。手間考えると、香織ちゃんが払うのが当然だと思う」
 モモ子は突っぱねた。
 猫は小ずるい、と香織は思った。






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