第1話「タラとあさりのアクアパッツァ」

文字数 12,258文字

 京浜東北線の北浦和駅からバスで十分ほど揺られ、細く入り組んだ道を少し入ったところに、香織の住むシェアハウスがある。築三十五年の昭和の雰囲気が漂う一軒家だ。
 駅前で用事を済ませた香織が帰ってきて、居間に入ると、モモ子がキッチンで料理をしていた。
 軽やかな包丁の動きで、まぐろの赤身をぶつ切りにしていた。つややかな身は、旨味がしっかりとしていそうだ。
 まぐろをボウルに入れると、次はアボカド。包丁で縦にぐるっと一周切り込みを入れた。両手で実をねじり、きれいに半分に割った。黄緑色の熟した果肉は、とろりと柔らかそう。
 香織はモモ子の流れるような手さばきを見て、感心してしまった。同居を始めてまだ一か月ほどしかたっていないが、こんなに料理ができるとは知らなかった。
 ちなみにモモ子は猫である。
 二本足で立って、身長は百六十センチくらい。全身が白、黒、茶の三色の毛でおおわれていて、頭にはピンと立った耳、頬からは長いひげ。ピンクのエプロンをつけて、スカートの後ろに開けられた穴から、長い尻尾が伸びている。くりっとした大きい瞳は、澄んでいてかわいらしい。人間と同じように喋ることもできる。
「♪マグロ~、マグロ~、ラブリーマグロ~。アボガドと仲良く、ポキ、ポキ丼~」
 モモ子は鼻歌を歌いながら、まぐろの入っているボウルにダイスカットしたアボカドを加えた。続けて、しょうゆとごま油を大さじ一杯ずつとレモン汁を少々かけて、全体をスプーンでサッとあえる。
「ポキ丼て、ハワイ料理の?」
 香織は身を乗り出して聞いた。
「そうそう。なんかさ~、三月になっても、まだ暖かくならないじゃん? 南国の気分を味わいたくなってさ」
 モモ子らしい発想だな、と香織は思った。寒くなるといつも、南の島で寝ころんで過ごしたいと言うからだ。
 モモ子と一緒に暮らし始めたのは最近だが、付き合いは五年になる。友達の紹介で知り合った。お互い彼氏もいないので、よく飲み歩くうちに気心が知れるようになった。
 ルームシェアを始めたきっかけは、香織が実家の都合でどうしても家を出なくてはならなくなったからだ。アパートを探していたところ、家賃の安さに加えて大家さんが若いイケメンということで、このシェアハウスに心惹かれた。しかし、一人で入るのは寂しくて気が引けた。悩んでいる時、モモ子に一緒に入らないか誘ってみた。モモ子はちょうどアパートの契約が切れる時で、あっさりとOKしてくれたのだ。
「♪アロハ~、マグロ~。ワイキキ、マグロ~」
 モモ子はフラダンスのように腰を振って、丼にご飯を盛った。タレのからまったまぐろとアボカドを上に乗せる。赤と黄緑のコントラストが鮮やかだ。
「美味しそうですね」
 男性の声がして、香織がふと振り返ると、誠也が美顔ローラーで頬をマッサージしながら、立っていた。
 灰色のスウェットにジーパンという地味な服装で、色白のもやしっ子。垂れ目で、鼻は低くて小さく、別に美形でも何でもない顔なのに、丹念にローラーを転がしている。
 誠也はもう一人の同居人だ。
誠也は全くの他人で、一週間遅れで入ってきた。男性も一緒に一つ屋根の下で暮らすというのは最初少し気が引けたが、誠也はナヨナヨして女子っぽいので香織もモモ子もすぐに気にならなくなった。二階に三部屋あり、それぞれの寝室となっている。
誠也も入居を決めた理由が、大家さんがイケメンだったからだそうだ。あまり大きな声では言えないが、どうやら誠也はそっち系らしい。深くは聞かないが。
「ごめんね~、誠也くん。私の分しかないんだ。今度作ってあげるね」
言いながらモモ子は丼に白ごまをかけ、
「ポキ丼、完成~!」
と手に取って、キッチンに面した居間のテーブル席に移動した。
居間は十畳ほどの広さで、隣の和室と一体となっており、真っ赤な皮のソファが異様な存在感を放っている。フローリングの床を歩くと、一部がミシミシと鳴り、補修工事をしないで大丈夫だろうか、と香織はいつも心配になってしまう。
香織はモモ子の隣の席に座った。指で眼鏡のフレームの位置を上げ、ポキ丼をじっと見つめた。
彩りもきれいで、ウクレレのハワイアンミュージックでも聞こえてきそうな雰囲気だ。カフェで出てきてもおかしくない。
その割には、ずいぶんとお手軽に作れていた気がした。
香織は手順を頭の中で思い出してみる。

①まぐろの刺身をぶつ切りにする。
②アボガドの皮をむき、ダイスカットする。
③しょうゆとごま油を大さじ一杯、レモン汁  を少々をかけてあえる。
④ご飯の上に盛って、白ごまをかける。

 以上で完成だった。香織は全く料理をしないのだが、自分でも作れそうだと感じた。
 モモ子はスプーンですくって、ポキ丼を一口頬張った。
 すると、恍惚の表情を浮かべて、
「ん~! 美味しいニャ~! 最高ニャ~!」
 と叫んだ。モモ子は気分がよくなると、語尾に『ニャ~』を付けるのだ。
 香織は先ほどお昼ご飯を食べたのだが、モモ子が惜しそうに食べているのを見て、食欲をそそられてしまう。
「ねえ、一口ちょうだい」
「OKニャ~」
 モモ子が丼とスプーンを差し出した。香織は受け取って、一口食べる。
 まぐろとアボガドが口の中で溶け合い、滑らかな舌触りだ。強い風味のごま油が、まぐろの旨味を引き立てている。しかし、レモン汁の爽やかさのおかげでくどくならず、絶妙なバランス。ふっくらとしたご飯と具が混ざり合って、噛むほどに優しい甘みが広がった。
 香織は美味しくて幸せな気分になってくると、
「最高ニャ~、たまんないニャ~」
 思わず、モモ子みたいに語尾に『ニャ~』が付いてしまった。
「香織さんが猫になった」
 誠也が笑いながら言った。
「いや~、なんかモモ子につられちゃって」
 香織が頭を掻きながら、モモ子に丼を返した。
 モモ子はヒゲを立てて二カッと笑みを浮かべ、またもくもくと食べ始めた。
 誠也が羨ましそうに見て呟く。
「ボクも食べてみたいなあ」
「ごめん、もうない」
 モモ子は最後の一口を食べてしまった。
「え、そんなあ……!」
 誠也はショックを受けた様子で、少し目が潤んだ。
 この子は二十二歳になるというのに、繊細過ぎて、ちょっとのことで傷ついてしまうのだ。幼い女の子でも、もっと心が強いだろう……。この厳しい世の中をやっていけるのだろうか、と香織はあきれてしまう。
 満足感にひたっているモモ子は、誠也が悲しんでいることに気が付いていないようで、膨れた自分のお腹をポンポン叩いていた。
「モモ子、料理が上手だったんだね」
 香織が感心して言った。
「まあね。でも、たまーにしかやらないよ、気分が乗った時だけね」
「ほかにどんなのができるの?」
「うーん、どんなのって言われても。けっこう、その場の思い付きだったりするからなあ。まあでも、魚料理だけだよ、魚が好きだから。あと簡単にできるやつね。私、面倒なの嫌いだし」
 モモ子がティッシュで口の周りを拭き、丸めてゴミ箱に投げた。
 その時、香織はゴミ箱から出ているプラスチックトレーが目に入った。
「あれ?」
 香織は近づいて、プラスチックトレーを取り出してみた。透明なふたに『香織』とマジックで大きく書いてあった。晩酌好きな香織が、つまみに買っておいたまぐろのお刺身だ。
「モモ子! ポキ丼にあたしのお刺身使ったの!?」
「え……?」
 モモ子は一瞬、ハッとしたが、首をかしげた。
「なんのこと?」
 香織は冷蔵庫を開ける。お刺身の姿はどこにもない。
「やっぱ使ったでしょ!?」
 香織はトレイをモモ子の目の前に持っていって見せる。
 モモ子がよく人のものを勝手に食べてしまうので、対策として大きく自分の名前を書いていたのだ。
 モモ子は苦笑いを浮かべながら、頭をかいた。
「……香織ちゃんのだったんだ。気がつかなかったなあ」
 まだとぼけようとするとは……。香織は怒りがこみあげてきた。
「何でそんな泥棒みたいなことするの!?」
「人聞き悪いなー。香織ちゃんだって、一口食べたじゃん!」
「あんた、言ってることむちゃくちゃだよ?」
 言い合っていると、誠也も口を開いた。
「そういえば、ボクもこの前、カップラーメン盗まれましたよ。あと、買ったばかりのゲーム機も持っていかれました」
「ホントに? 誠也も怒ったほうがいいって」
「はあ……でも、喧嘩とか苦手ですし、我慢できないことでもないので……」
「誠也くんて、優しいよねー。感心しちゃう」
 モモ子が腕を組んで何度も頷いた。
「これは優しいんじゃなくて、気が弱いって言うの!」
 香織がピシャリと突っ込む。
 気が弱いとはっきり言われ、誠也はショックを受けた様子で、少し目が潤んだ。
 香織は誠也のことは放っておき、モモ子に鋭い視線を投げた。
 モモ子は人の物を勝手に取るだけでなく、ゴミ捨てや掃除を頼んでも、全然やってくれない。もう長い付き合いだから大体の性格は分かっているが、ルームシェア生活を送るにあたって、しっかりとルールを決めないといけない。香織は確信した。
「よし! 話し合おう!」
 香織はパン!と手を叩いた。

 三人で話し合いが行われた。香織と誠也はテーブル席に着いており、モモ子はソファに腰かけて、袋入りのにぼしをかじっている。
「あたし、共同生活のルールを考えてみたの」
 香織は手元のホワイトボードにマジックで条文を書いて、二人に見せた。
 ・ルール1 人のものを勝手に取らない。
 ・ルール2 プライバシーを侵害しない。
 ・ルール3 恋人は連れ込まない。
 ・ルール4 家賃や生活費は滞納しない。
 ・ルール5 当番はしっかりと守る。
「最低限、これを守れば、それぞれが心穏やかに暮らせると思うんだけど、どうかな?」
 香織は問いかけた。
「いいんじゃないでしょうか。とても常識的な決まりだと思いますし。ボクもみなさんとは、仲良く平和にやっていきたいので」
 誠也がパックのジュースを飲みながら答える。アサイーの果汁が肌にいいらしく、誠也は毎日欠かさない。美顔ローラーといい、誠也は美容にかなりこだわっているようだ。
 それはさておき、誠也は物分かりがいいので、こういう時にしっかりと賛成してくれるから助かる。
 すると、モモ子がふてくされた様子で、
「異議あり―」
 と挙手した。
「モモ子、何が気に食わないの?」
「だってー、規則に縛られるのってさ、なんか冷たいっていうか、人間味がないっていうか……人のものを勝手に食べたり使ったりできるくらいが、温かい人間関係なんじゃないの? あと私、宵越しの金は持たないタイプだから、家賃の支払いは保証できない」
「あんたねえ、何訳のわからないこと言ってるのよ」
「誠也くんは、理解できるよね?」
 モモ子が同意を求めるように聞く。
「うーん……すいません、ちょっとわかりません」
「つれないなー」
「じゃあ、多数決で決めるよ」
 香織が切り出す。
「えー! それじゃ私が負けるの目に見えてるじゃん!」
 モモ子が立ち上がって叫んだ。
「しょうがないでしょ、民主主義の世の中なんだから。はい、このルールに賛成の人」
 香織が間髪入れずに表決を取ると、香織と誠也が手を上げた。
「反対の人」
「はーい」
 モモ子が両手と尻尾を上げた。
「ほら見て、三票。よって、否決!」
 モモ子があんまりバカなことを言い出すので、香織はあきれて言葉を失った
この子はいつもこうだ。子供みたいな屁理屈で、駄々をこねまくる。これでちゃんと働いているというのだから驚きだ。ラベルの印刷会社で業事務をしているというが、まともに務まっているのだろうか?
 香織はモモ子の意見を無視し、
「で、ルール5なんだけど。きちんと当番を決めた方がいいと思うんだよね。ゴミ出しとか買い物とか、一週間交代で。今週はこんな感じで、どうかな」
 ホワイトボードのあいている場所に、『今週の当番』と書き込み、『掃除当番・香織 買い物当番・モモ子 ゴミ出し・誠也』とした。
 「ボクは全然大丈夫です」と誠也が答え、「買い物かあ。面倒くさいなー」とモモ子が口を尖らせた。
「ティッシュとか必需品を買うだけだから。ドラッグストアもすぐそこにあるんだし。掃除当番に比べたら楽でしょ」
 香織が強く言うと、モモ子は不愉快そうに両耳を下げてため息をついた。

 次の日。香織は職場のさいたま市中央図書館で、書架整理を行っていた。大量の返却本を棚に戻していく。立地が駅前ということもあり、利用客が多くて、とても忙しい。
次から次へと返却された本がラックで運ばれてくるが、モモ子に伝えたいことがあったので、何とか作業の合間を見て携帯でメールを打った。
 『今朝、トイレットペーパーが切れてた。悪いんだけど、仕事の帰りに、買っておいて! モモ子当番だからさ。お願い!』と送る。
 一時間ぐらいして、メールの着信音が鳴り、受信トレイを開くと、モモ子から『あいよ』と一言だけの返事。
仕事中とはいえ、もうちょっと気の利いた文章は書けないのだろうか。
 夜になり、香織は仕事を終えて、図書館を出た。花冷えで風も強く、マフラーを巻きなおす。
 電車に乗り、隣の北浦和駅で降りて駅前のスクランブル交差点を抜け、スーパーの前の停留所からバスに乗った。
家に着いた頃には十九時を回っていた。玄関にはモモ子と誠也の靴があり、二人が先に帰ってきていることがわかる。香織は居間へと上がっていくと、テーブルに中身の詰まった大きなビニール袋が置いてあった。
 よかった、買っておいてくれたんだ、と香織は一瞬思った。
 が、よく見ると何か違う。嫌な予感がした。近づいてみると、それはトイレットペーペーではなく、ビニールに入った白いクッションだった。
「何これ?」
 香織は眉をひそめて呟いた。
 「香織ちゃん、おかえりー」と声がして、香織がふと視線を向けると、モモ子がキッチンに立って、コップで牛乳を飲んでいた。
「あ、それ、いいでしょ?」
 モモ子は近づいてきて、クッションを袋から出し、手に取って頬ずりしたり、揉んだりする。
「帰りに寄った店で買っちゃったの! すごく安くてさ。手触りも気持ちいいし。そこのソファで寝る時、枕にしようと思って」
「トイレットペーパーは?」
 香織は低い声音で聞いた。
 モモ子はハッとして、
「忘れてた……」
 ペロリと舌を出す。
  香織は怒りがこみ上げてきた。
「あのさあ、ルール守ってもらわないと困るんだけど? ちゃんとやってよ、何でこんなもの買ってくんの!」
「ごめんごめん。でも、ソファで気持ちよく寝ることは、私にとって超重要なことなんだよ」
 出た、よく分からない理屈。それでこっちが、納得するとでも思っているのだろうか。
「今、トイレットペーパー買ってきて! まだお店やってるから」
「えー、今日寒いから、明日行くよ」
「もう全部切らしてるんだって! どうすんの、トイレ入れないじゃん!」
 いつのまにか二階から下りてきていた誠也が間に入って、「喧嘩はやめてください!」と言っているのがわかるが、香織は誠也のことなど眼中に入らずに「ねえ、どうすんの?」とモモ子に詰め寄る。
すると、香織の言葉に嫌気がさしてきたようで、モモ子が反撃に出てきた。
「だったら香織ちゃんが買ってくれば?」
「は? だったらって、何? 何であたしがトイレットペーパーを買いに行かなきゃならないのよ?」
次第に言い合いは「買ってこい」「いや、そっちが買ってこい」と言葉をぶつけ合うだけの、水掛け論、いや、単なる子供の口げんかのようになってしまい、香織は怒りに情けなさも混じってきた。
 猫なんていう生き物は全く自分勝手でマイペースで、人のことなんか馬鹿にしていて、本当に頭にくる。
怒りは積もり積もって……プチン、と何かキレる音が香織の頭の中で響いた。
「この役立たず! バカ猫!」
 思わず怒鳴ってしまった。
怒鳴ってから、ちょっとまずかったかなと思った。もう、ただ相手を傷つけるためだけの言葉の暴力だ。
 モモ子は目をまん丸くして、唖然としている。
 しばらくの沈黙が流れ……モモ子がぽつりと呟いた。
「香織ちゃん、今のひどいよ」
 次第にモモ子は体の毛が逆立ち、フーッ、フーッ、と威嚇するようにうなり、
「こんな家出てってやるー!」
 と叫んで、居間を飛び出した。
「あっ、モモ子んさん!」
 誠也が後を追おうとしたが、ガチャン! とドアの閉まる音がして、モモ子はもう家の外へ出て行ってしまっていた。
「すぐ戻って来るよ」
 香織が誠也に声をかける。
ちょっと言いすぎたが、時間が経てばコロッと忘れるだろう。それが猫だ。

 しかし、数時間経っても、モモ子は帰らなかった。香織と誠也はモモ子を探しに外へ出た。冷たい風が頬に突き刺さる。仕事から帰った時より、寒さが厳しかった。モモ子は上着を持たずに出ていったが、猫は寒さに弱いはずだ。風邪を引いてしまうのではないか、大丈夫だろうかと心配になる。
 それにしても、いけないことをしてしまった。
 香織はカッとなると、ついつい強く言いすぎて、相手を傷つけてしまうところがある。それが原因で縁が切れてしまった人もたくさんおり、三十を過ぎてからは、あやまちを犯さないようにと気をつけていたのに、あっさりやらかしてしまった。人は簡単には変われないものだ。
 香織は近くのコンビニやファミレスを回ったが、モモ子の姿はなかった。
 通りを歩いて進みながら、「どこ行っちゃったのかな」と香織が言うと、誠也が思いつめた様子で、「モモ子さん、無事でしょうか……?」と呟いた。
「最近は物騒ですし。変な事件に巻き込まれてるとか……もしくは交通事故に遭ってるとか……」
「ちょっと……やめてよ。縁起でもないこと言わないでくれる?」
 と否定したが、香織も不安である。そういう可能性も、なくはない。この辺は田舎だから夜になると相当暗いし、数週間前にも二十代の女性が痴漢の被害に遭ったという話を大家さんから聞いた。
 ああ、何で自分はあそこまで腹を立ててしまったのだろう……。大人げなかった。慣れない共同生活で、ストレスが溜まっていたせいだ。
香織は心の中で自分を責めたり、言い訳したりを繰り返した。
 モモ子の身に何かあったら、一体どうしたらいいのだろう……。
「ところで香織さん、何でそんなもの持ってるんですか?」
 香織はモモ子のコートと一緒に抱えている寝間着を見て、質問してきた。
「上着はいいとして、どうしてモモ子さんのパジャマなんか……」
「ああ、これね。猫って、迷子になった時とか、その猫の匂いのついたアイテムを持って探すといいんだって。自分の匂いに引き寄せられて、出てきたりするみたいよ。このパジャマ、全然洗濯してないから、匂いが染みついてて」
誠也が「へえ~、そうなんですか」と答えたその時、前方の電信柱の裏から、何者かがひょこっと顔を出した。
「あれ……!?」
 香織は目を凝らしてよく見ると、その影は、腰のあたりから尻尾が伸びていて、ゆらりと揺れた。
 大きな猫が二本足で立っていた。
 香織が「モモ子!」と叫んで駆け寄ると、寒さに震える巨大猫は、大きなくしゃみを一発。「うー……寒すぎ……」と白い息を吐きながら声を漏らし、鼻水が大量に垂れた。
「大丈夫!? ほらコート着て」
 香織が急いで手にしているモモ子のコートを羽織らせた。
「ありがとう、香織ちゃん」
 モモ子は震えながら、鼻水をすする。
「あんた、どこ行ってたの?」
「この先にある漫画喫茶にいたんだ。でも財布に小銭しか入ってなかったから、一時間くらいしかいられなくて。後はフラフラしてたの。そしたら、私のパジャマの匂いがして……」
「そうだったんだ。まあとにかく、無事でよかったよ」
「ホントですね。心配したんですよ、モモ子さん……うぅ」
 誠也もホッとして、べそをかいている。
「いやだ、誠也くん、大げさだなあ」
 モモ子は誠也の肩をポンと叩いた。
 香織は安心して、体からへなへなと力が抜けてきた。
「モモ子、さっきはごめんね」
「え……?」
「あたし、酷いこと言っちゃって」
 モモ子は少し黙っていたが、
「ううん、いいんだよ、香織ちゃん。こっちこそごめん。みんなに迷惑かけちゃったよね。私、猫だからホント身勝手で……。いつも周りの人怒らせてばっかりで……。てゆーか、いろいろ困らせることも多いと思うけど、これからもよろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げた。
 香織はふと笑みがこぼれた。
 許してくれてよかった。モモ子はいつもいい加減なことばかりしているけど、こういう素直で優しいところがあるから憎めない。
「こちらこそお願いします。楽しく暮らしましょう」
 香織もお辞儀をし、皆で笑い合った。すると、モモ子の腹の虫が大きく鳴った。
「お腹減った~。そうだ、お詫びのしるしに今日は私が晩御飯を作るよ」

 食事は基本、それぞれ別に食べている。調味料と、大家さんがたまに持ってくる野菜は勝手に使っていいことになっている。しかし、香織と誠也は自炊をするようなタイプではないので、いつもコンビニのお弁当などで済ませている。
 モモ子が料理をするというのは、前に初めて知ったのだが、ポキ丼はとても美味しくて、印象に残っている。一体、何を作ってくれるのだろう。香織は楽しみになってきた。
 モモ子は近くの深夜まで営業しているスーパーへ自転車をとばし、ビニール袋を下げて帰ってきた。キッチンに入り、買ってきたタラの切り身とあさり、プチトマト、フランスパンを出した。
「二人には寒い思いさせちゃったからさ、温かいものにするね。タラはタンパク質が豊富だから、体が温まるよ。タンパク質は、体の中で熱をたくさん生み出すの。冷え性の人も、しっかりとるとよくなるんだよ」
「へえ~、そうなんですか」
 誠也が感心して呟く。
 モモ子はピンクのエプロンをつけた。
「アクアパッツァを作るね」
 香織はきょとんとしてしまった。
 アクアパッツァは、いろいろな魚や貝を煮込む料理のはず……。前にレストランで食べた時、鯛やほたてやエビがたくさん入っていた。仕込みも大変そうなメニューだ。これだけの食材で、作れるのだろうか? 味気なくなってしまわないのだろうか?
 モモ子はタラの切り身をパックから取り出し、
「♪タラタラタラ~、三枚で三百六十円~、安いにゃあ~、嬉しいにゃあ~」
 と歌い始めた。
 香織は誠也と一緒に、その様子を少し離れた所から眺める。
 モモ子はプチトマトとあさりを用意した。
「♪あさりさりさり~、ジャリジャリは嫌にゃあ~、砂を出せ~」
 ボールにポットでお湯を注ぎ、あさりをぶっこむ。
香織は驚いて、「ちょっと!? 何やってるの?」と慌てて止めようとした。しかし、モモ子は平然と答える。
「あさりの砂抜きだよ」
「え……?」
 香織は言葉を失った。どういうこと? 砂抜きっていうのは、普通、塩水でやるのではないの? 料理をしたことなくても、それくらいは知っている。
「お湯でいいんですか?」と誠也も首をかしげて聞く。
 するとモモ子は、チッチッチと舌を鳴らして、人指し指を振った。
「このやり方だと、五分で砂が抜けるんだよ」
「ホントに!?」
 香織は驚きのあまり声を上げた。
「高い温度にビックリして、あさりは身を守ろうとするの。そうすると、水を思いっきり吸って、身を殻から押し出してくるんだよ。ほらね」
 見る見るうちに、貝が割れて、中身が顔を出した。
「五十度以上の熱湯でやると、貝の出汁が出ちゃうから要注意。ちなみに、この砂抜きの方法は『五十度洗い』って言われてるんだよ。最近、流行ってるの」
 香織は感心して「へえ~」とうなってしまった。誠也も「信じられない」と目をパチクリさせている。
 少し冷めてきたところを見計らって、モモ子はあさりを揉み洗いした。続けてタラの身に塩コショウをふった。プチトマトを包丁で半分に切り、にんにく一かけらを包丁の腹でつぶす。
 香織はモモ子の料理する姿に見入ってしまった。とてもテキパキとしていて、流れるような作業。動きに無駄がない。目つきも凛としていて、本当にモモ子なのだろうかと目を疑うほどだ。
 モモ子はフライパンにオリーブオイルを熱し、にんにくを炒めた。そしてタラの身を皮目から焼いていく。油が弾けるが響き、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
 タラに火が通ったところで、プチトマトとあさりを入れ、水を計量カップ半分ほど注ぐ。更に加えるのは料理酒。
「ホントは白ワインがいいんだけどね。私さあ、面倒くさがりだから、あんまり手の込んだ料理はしないんだよ」
 フライパンの蓋をして煮ること五分。蓋を取ると、貝が開いた瑞々しいあさりの身と、きつね色のタラの身が顔を出した。火が通ってぽてっと柔らかくなったプチトマトが、黄金色のスープに浸ってふつふつと煮立っていた。
 モモ子がスプーンで一口味見する。
「よし、最後は味を調えてと……」
 塩コショウをふり、最後にパセリを加えると、緑色がアクセントとなり、彩りも豊かなイタリア風の魚の煮込みスープとなった。
「タラとあさりのアクアパッツァ! 完成!」
 モモ子が自分で拍手をした。
 ポキ丼と同様、簡単に作れたわりに、見栄えも良く、オシャレな料理だ。
 香織は料理の手順を思い出してみる。

 ①あさりを砂抜きし、タラに塩コショウを  ふる。にんにくをつぶす。
 ②フライパンでオリーブオイルとにんにく  をに火をかけ、タラを焼く。
 ③あさり、プチトマトを入れて、五分煮る。
 ④塩、コショウで味をととのえて、パセリ  をふる。

 以上で完成だった。材料も少なく、大まかに分けると四つの工程。これなら自分にも作れそうだと、香織は感じた。
 ただ、味の方はどうなのだろうか? 不安を少々感じながら、テーブル席に着いた。
 皆で合掌して声を合わせる。
「いただきまーす!」
 香織はまず、タラから食べてみようと、スープをたっぷりとつけてフォークに白身を乗せた。黄金色のスープを纏い、つややかなタラの身は、見ているだけで心が弾み、唾液が溢れてくる。大きく口を開けて、タラを頬張った。
「ん! めちゃくちゃ美味しい!」
 ぷりぷりした柔らかい白身は、噛むとあっさりとしていながらジューシー。ニンニクのきいたスープが絡まっていて、二種類しか魚介の具を使っていないのに、出汁がしっかりと出ていて深いコクを醸し出している。
 次はあさり。肌色でふっくらとしている身を眺めながら、本当に五分で砂出しができているのだろうかと、一抹の不安を抱きながらも口へと運んでみる。心地いい歯ごたえで、ジャリという嫌な感じは一切しない。噛めば噛むほど溢れてくる旨味。思わずもう一度「美味しい!」と大きな声が漏れてしまう。
プチトマトは柔らかく、口の中で崩れて溶ける。と、酸味が口の中に広がって、また一味変化をつけて、飽きさせない
スプーンでスープをすする。余計な手間を加えず、シンプルに作られたスープは濃厚で、ストレートに、これでもかと旨味が凝縮されており、王道の美味しさを感じさせる。一口、二口と胃へ流し込むと、じんわりと体も温まってきた。
はじめは、タラとあさりだけでアクアパッツァができるのか心配だったが、全く問題なかった。十分に深い味わいで、満足できる。
 ふと見ると、誠也も恍惚の表情を浮かべている。
「ほっぺたが落ちて、取れちゃいそうです!」
 モモ子は、猫舌で、ハフハフと息を漏らしながら熱そうに食べていたが、満足そうに頷いた。幸せそうにゴロゴロとのどを鳴らす。
「上出来ニャ~! たまらないニャ~! 二人ともパンにつけてごらん。また絶品ニャ~」
 香織はかごに入ったパンを手に取り、言われた通り食べてみる。
 香ばしいパンにスープが染みて、噛むほどに小麦の風味と魚介の味わいが混ざり合い、天にも昇る気持ちになる。
 香織は思わずモモ子につられて、
「いくらでも食べられちゃうニャ~!」
 と、また語尾に『ニャ~』がついてしまった。
 誠也も同じように喋る。
「最高ですニャ~! 温まりますニャ~!」
 みんなで笑いながら、楽しい一時となった。
 食事が落ち着くと、誠也が目に涙をにじませた。
「二人が仲直りできて、こんなに美味しい料理まで食べられて、ボクは一生忘れられない日になりましたよ」
「大げさだな~、誠也くん。ほら鼻水」
 モモ子は誠也にティッシュを差し出した。
 香織も笑みがこぼれる。
 本当に大満足の料理だった。簡単だけど見栄えもしっかりして、味も素晴らしい。もし、自分がアクアパッツァを作ったとしたら、まずあさりの砂抜きで時間がかかって挫折しただろう。材料をいろいろ入れて、味をまとめることができなかっただろう。
このアクアパッツァは、猫だけに面倒くさがりで、料理に手をかけたくないけど、魚を美味しく食べたい。そんなモモ子ならではのレシピだ。
 香織は胃袋を完全に掴まれてしまい、モモ子の魚料理の虜になってしまった。
ほかにどんな料理のレパートリーがあるのだろうか? 今日はイタリアンだったが、和食や中華なんかも作れるのだろうか? こんなに美味しいのなら、絶対に食べてみたい! 興味と欲望が溢れてきて、モモ子のことをじっと見つめてしまった。

 翌朝、香織は目が覚めると、結局トイレットペーパーを買っていなかったことに気付いた。モモ子を起こそうとしたが爆睡していたので、コンビニへと急ぐはめになった。
 寝ぐせがついた髪を振り乱し、大急ぎで自転車をこぐ。
 しかし、昨晩作ってくれたアクアパッツァを思い出し、全然怒る気にはならなかった。
 まだお腹がじんわりと温かい気がした。
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