第2話「焼きサバサンド」

文字数 13,145文字

 居間で掃除をしていた香織は、何やら焦げたような臭いを感じた。見ると、掃除機が煙を吹いていた。
「え!? うそ!?」
 香織は慌ててスイッチを押して電源を切るが、煙はおさまらない。それどころか、どんどん勢いを増してくる。
「ちょっとやだ! どうなってんの!?」
 香織はテンパってしまい、どうしたらいいかわからなかった。
 背後から「離れた方がいいですよ!」と声がした。視線を向けると、美顔ローラーを手にした誠也が扉の前に立っていた。状況を見て、誠也も慌てた様子だ。
「ば、爆発するかもしれませんよ!?」
「ええ!?」
 掃除機が爆発するなんて、あまり聞いたことがない。しかし、いざ黒い煙を吐く掃除機を目の当たりにすると、一気に不安が高まる。掃除機は香織が実家から持ってきた二十年近く使っている超おんぼろだ。爆発するなんてことがあっても、おかしくはないかもしれない。香織は急いで掃除機から距離を取ろうとした。
しかし、ふと色々な考えが頭を巡り、立ち止まった。
――もし火事になったら、どうしよう? 火災保険とかって、入っているんだっけ? たくさんのお金がかかるのは困る!
香織は不意に、庭に面した大きな窓を開け放った。掃除機のコンセントを引き抜くと、本体を掴んで勢いよく外へと投げた。
 掃除機は庭の真ん中に転がり、香織と誠也は床に身を伏せる。
 機体から出る煙が、五月の穏やかな風に揺れた。
香織たちが見守っていると、しだいに煙はおさまってきて、最後には消えた。
「大丈夫……かな?」
「大丈夫……みたいですね」
 香織と誠也が胸をなでおろしていると、
「ドカーン!」
 香織と誠也は絶叫して飛び上がった。
 振り返ると、いつからいたのかモモ子の姿があった。「ドカーン!」と大きな声を出したのは、モモ子だ。二本足で立ち、身長は百六十センチくらい。体は白、黒、茶の毛で覆われており、薄手の黄色いニットとデニム地のワイドパンツを着ている。パンツの腰の部分には、小さく穴があけられており、そこから長い尻尾が伸びている。巨大な猫は目を輝かせて、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「モモ子! びっくりするじゃない!」
香織はカッとなって怒鳴った。誠也は放心状態で目を潤ませ、鼻水を垂らしている。
 「ごめんごめん」と謝るモモ子だが、ケラケラと笑って全然悪びれている様子はない。こういう時、猫はホントに憎たらしい。
 モモ子は庭先に転がった掃除機を見て、
「あー、とうとうぶっ壊れちゃったか……南無南無」
 と手を合わせた。
「まあ、寿命だよね」
 香織が腰に手を当てて、溜息をついた。
「てことは……これで、ゆっくり昼寝できる! 掃除機の音がうるさくて、私、いっつも眠れないんだもん」
 モモ子は嬉しそうに手を叩いた。手の平は肉球なので、パン!という良い音ではなく、ポフッという気の抜けた音がした。
 モモ子はソファの上に寝ころび、気持ちよさそうに伸びをした。
「おやすみー」
「ちょっと! モモ子、寝てる場合じゃないでしょ?」
 香織は横になったモモ子の腕をつかんで、無理やり起こした。
「すぐ新しいの買いにいくよ」
「えー、何で?」
 モモ子は口をとがらせた。
「だって、ないと困るでしょ。あんたの毛も抜ける時期なんだし。家の中がすぐ汚くなるんだから。ねえ、誠也もそう思うでしょ?」
「そうですね。大きな掃除機がないと不便だと思います。ボクの持ってるハンドクリーナーじゃ居間をきれいにするのは手に余りますし、モモ子さんはそもそも掃除する道具を何も持ってないですし」
 するとモモ子が首を横に振った。
「いやいや、もうこの際、掃除しないっていうことでいいんじゃない?」
「はあ?」と香織は眉をひそめる。
「家の中きれいにしてあるとなんか落ち着かなくてさ。電気代だってバカにならないし。年末の大掃除だけすれば十分だと思うよ」
「……あんた、それ本気で言ってんの?」
「ねえ、誠也君もそう思わない?」
 モモ子は誠也を味方に付けようと、上目遣いで同意を求めた。
「うーん……さすがにその意見には賛成できないです」
 誠也は口ごもりながら言った。
「ノリ悪いなあ……」とモモ子はヒゲを垂らして嘆息を漏らす。
「ほら、電気店に行くよ!」
 香織はモモ子を急かすように手を叩いた。

 電気店へと向かった香織たちは、十分ほどバスに揺られた。さいたま新都心の駅前で降りると、すぐ目の前に家電量販店。隣には大型デパートがあり、春の温かい陽気を浴びながら、たくさんの人が行き交っていた。
 香織たちは店内へ入り、エスカレーターで三階へと上がった。掃除機コーナーへ来ると、視界に広がる光景に目を丸くした。スティック型やキャニスター型の掃除機が何十も、所せましと並んでいる。しかも、どれもカラフルでオシャレ。スタイリッシュなデザインで、インテリアとして使えそうなものまである。
 今、掃除機の世界はこんなことになっているのか……。
 売り場の華々しい雰囲気に香織は息を飲んでしまった。
「これだけあると、どれを買っていいのか迷いますね……」
 誠也も圧倒された様子で呟いた。
「そうだねえ」と香織は答えた。
 売り場に来るまでは、どうせ買うならいいものにしようと意見がまとまっていた。なるべく性能の高いものを選びたい。
 ふと香織が振り返ると、モモ子の姿がない。「あれ?」と見回すと、ロボット掃除機のデモンストレーションスペースの中にいた。動くロボット掃除機にじゃれて、「ニャ! ニャ!」と猫パンチを繰り出している。周りのお客が迷惑そうに見ていた。
「何やってんの! 遊んでる場合じゃないでしょ!」
 香織はモモ子の元へ駆け寄った。周りの人に「すいません」と頭を下げ、モモ子の腕を掴んで引き戻した。
「ニャ~、もっと遊びたい~」とだだをこねるモモ子を連れて、香織はそのままサイクロン式のクリーナーが並ぶ場所へ来た。テレビのCMなどで、吸引力抜群だと見たことがある。買うならこういう掃除機がいいと香織は考えていたのだ。
 一番手前のキャニスタータイプが目に入った。赤とグレーのツートンカラーで、コンパクトなボディ。見た目もかわいい。
 男性の店員がすっと近づいて来て、「こちら人気の商品となっております」と説明を始めた。香織は一生懸命耳を傾ける。
「軽くて吸引力も素晴らしいんです。そのくせ音も静かですし。今売り出されている中で一番高性能だと思いますよ」
 店員さんは、自信満々で言った。
 実際、お試しスペースで使ってみたが、パフォーマンスの高さに香織は驚愕し、惚れこんでしまった。誠也も気に入ったようで、モモ子も納得した様子だった。
 「これいくらですか?」と香織は店員さんに聞いた。
「七万五千円です」
「ええ!?」
 香織は絶叫してしまった。
「そ、掃除機ってそんなにするんですか……?」
 誠也も口をポカンと開けている。
 モモ子は尻尾の毛が逆立って太くなっていた。猫が驚いた時に見せるリアクションだ。ちなみに、尻尾をピンと立てていると嬉しくて、左右に激しく振ると怒っている。尻尾を見れば気持ちがわかるのだ。
 それはさておき、香織は頭を抱えてしまった。一人、二万五千円の負担だ。所得の少ない身には、かなり苦しい。
「ぶっちゃけ、みんな出せる?」
 香織が切り出した。
「ボク、そんな大金絶対無理です……給料安いので……」
 誠也が泣きそうな声で呟いた。
「私も無理ー」
 モモ子は投げやりな感じだ。
 香織たちは話し合いになり、店員さんは重たい空気を察して離れていった。
「モモ子は正社員なんだし、余裕あるじゃない。給料そこそこ貰ってるんでしょ?」
「まあ、二十万くらいかな」
「じゃあ、生活費差し引いたって、貯金もできてるんだろうし」
「ううん、私、一円も貯めてないよ。それどころか、会社の友達にお金借りてるから」
「は? 何で?」
「何でって言われても……。普通に生活してたら、お金足りなくなっちゃって。たぶん、会社からしょっちゅうタクシー使って帰って来るのが、良くないのかな」
「あんたの会社、都内でしょ!? 一万以上かかるんじゃない?」
「でも、満員電車嫌いなんだよね。仕事で疲れてると、もういいやってなっちゃう」
「……なんてもったいない。もっとお金のありがたみをわかった方がいいと思うよ」
 香織は呆れて溜息をついた。
「そういう香織ちゃんは、月収いかほど?」
「え……あたしは、十五万くらい」
「図書館の仕事って、意外と安いんだね」
「司書っていったって、公務員と違って、民間で委託されてる業者だから。そんなもんよ。契約社員だし」
 香織とモモ子が、誠也は? という感じで視線を向ける。
 誠也は言いづらそうに小声で答えた。
「ボクは……十万ちょっとです。勤務時間を増やせば、もうちょっと稼げると思いますけど」
「老人介護の仕事もハードワークのわりには、時給安いよね」
 香織は同情の眼差しを送った。
「私たちって、貧乏だね」
 モモ子があっけらかんと言った。
 香織は悔しさと情けなさで、言葉が出なかった。誠也もしょんぼりとしてしまった。
 しばらく静まっていたが、香織は決意をして、パン!と手を叩いた。
「よし! あたしが貯金から五万出す!」
「え!? ホント、香織ちゃん!」
「大丈夫なんですか? 安い掃除機にしておいた方が……」
「だってさ、なんかこのままだと負けた気がして悔しいじゃん! それに、いい物を持つと人生が好転するって、図書館にある自己啓発本にも書いてあったし!」
「香織ちゃん、格好いいー」
 モモ子は尻尾をピンと立てた。
「ただ、残りはみんなで生活費を節約して、捻りだすからね! お金貯まったら、また買いに来よう!」

 次の日から、掃除機を買うための節約生活が始まった。
 といっても、一人八千円ちょっと切り詰めればいい計算になるので、そこまで難しくはないと香織は考えていた。
 香織は酒代を控え、モモ子はタクシーを使わないようにし、誠也は美容にお金をかけなければ、何とかいけそうだ。二週間後のみんなの給料日までにお金は溜まるだろう。
 香織は新しい掃除機で気持ちよく居間を掃除することを想像しながら、仕事からの帰り道を進んでいた。
 家の近所にある酒店にさしかかる。
 今日は通り過ぎようとしたのだが、ふと足が止まった。ちょっとだけのぞいていこうかな、と思い店内へと入った。
 個人経営の小さい店だが、店主が酒に詳しく、良い品がそろっている。
 日本酒のコーナーを眺めると、『おすすめ!』とポップが出ている品に視線が行った。
埼玉県の羽生市にある新しい酒蔵の銘柄だ。パイナップルのような香りと上品な甘みが特徴で、最近酒好きの間で話題になっている。手に入れるのが難しく、香織もほとんど見かけたことがない。七百二十ミリリットルで三千五百円だ。結構高い。
 香織は眼鏡のフレーム位置を指で上げた。
 どうしよう? 買いたいけど、節約しないといけない。でも、このチャンスを逃すと、しばらく飲むことができないかもしれない。いやいや、我慢しなければ。掃除機を買えなくなってしまう。でも、でも……。
 しばらく悩んでいたが、酒瓶を一つ手に取ると、レジへと向かった。お金を払って、ビニール袋に入った酒を受け取る。
 結局、欲望に勝てなかった……。まあでも、頑張って食費を削れば、なんとかなるだろう。
 家に着き、居間に入ると、誠也がテーブル席に着いていた。誠也は香織の姿を見るなり、ハッとした表情で、何かを膝の上に隠した。
 香織は怪しいと感じ、近づいていく。
「ねえ、それ何?」
「え、な、何でもないですよ」
「ちょっと見せなさい」
 香織は誠也が隠している物を奪い取った。
 新品のフェイスマッサージだった。
「これは?」
「……新しいタイプが出たんで、今日買っちゃったんです」
「いくら?」
「……八千円です」
「は!? 何してんの! 節約は!?」
「す、すいません……」
「もう、冗談じゃないって! 掃除できなくなったら、どうすんの?」
 誠也は強く言われて、目に涙を浮かべた。しかし、香織が手に下げている酒の入ったビニール袋を見て、
「あれ? 香織さん、それは何ですか?」
 と聞いた。
「え、これ? これはその……まあ、その……」
 香織が言葉に詰まっていると、玄関の開く音がして、「ねえ~、誰かいる~?」とモモ子の声がした。
 香織と誠也が向かうと、玄関口にモモ子がいた。
 家に前にはタクシーが止まっている。
「今日仕事でめちゃくちゃ疲れてさ~。タクシー乗っちゃったんだ。お金足りないから、貸してくれない?」
 モモ子は舌をぺろっと出した。
 香織はあきれて肩を落とした。

 節約の開始早々、三人とも浪費してしまった。このままではまずい。話し合いをした結果、食費を大幅に削ろうということになった。それぞれ自炊しないので、食事はいつもコンビニ弁当や冷凍食品ばかりだ。一日千五百円ぐらいかかっている食費を一日五百円に抑えれば、二週間で三人合わせて約四万円浮かせることができる。またモモ子がタクシー代など無駄遣いしてしまうことを想定して、余裕をもたせてある。更に水道代、電気代も節約して、少しでも足しにしようということになった。シャワーを使える時間を五分間だけ、九時に消灯ということが決まった。
 節約二日目の夜、香織はスーパーで安売りのカップラーメンを大量に買ってきた。どれも一個百円ぐらいの値段だ。
 香織たちはテーブル席でカップ麺をすすった。
「ちょっと……寂しい食事ですね」
 誠也がぽつりと言った。
「ホントだよね~。味気ないよ」
 モモ子も両耳を下げて、不満そうだ。
「しょうがないでしょ。みんなお金使っちゃったんだから」
 香織はスープまで全部飲み干すと、キッチンへと向かい、ゴミ箱へ容器と割り箸を捨てた。
「あたし、先にシャワー浴びていい?」
 と聞くと、モモ子が「いいよ~」と答えた。誠也も「どうぞ」と返事をする。
 香織は浴室へと向かった。脱衣場でスマホのタイマーをセットして、洗濯機の上に置いた
ちなみに、同居人は浴槽を共有せず、シャワーだけにしている。みんな共同で使うのは嫌だからだ。
服を脱いだ香織はスマホのタイマーを五分間にセットした。スタートボタンをタップすると、急いで風呂場へと入った。
 シャワーの蛇口をひねってお湯を浴び、猛スピードでショートカットの頭を洗いはじめる。あまり強く掻くと、頭皮や髪が傷んでしまう。かといって、力を入れないと汚れが落ちない。力加減が難しい。頭を洗い流すのは後回しにして、続けて体を洗いはじめた。あまりに高速でスポンジを使って体をこするので、腕が痛くなってくる。何とか一通り洗い終え、一気にシャワーで全身を洗い流した。
 跳ぶようにドアを開けて、スマホを確認すると、ちょうど五分でタイマーが鳴った。香織は若干、息が上がっていた。
香織にとって、いつもシャワータイムはくつろげるひと時だったのだが、五分という短い時間では目まぐるしくて仕方がない。
「これを毎日続けるのか……!」
 思わず声を漏らしてしまった。
 香織がタオルで頭を拭きながら居間に入ると、モモ子がソファでくつろいでいた。コーヒーフレッシュの容器を指で摘まんで持ち、中身をペロペロと舐めている。
「香織ちゃん、しっかり洗えた?」
「な、なんとかね……」
「私も入ろうかな」
 モモ子は廊下へ出て、浴室へと向かった。
 すると、一分もしないうちに、モモ子が戻って来た。
「どうしたの? シャンプーか何か忘れた?」
「ううん、やっぱり入るのやめたー」
「え!? 何で?」
「私さあ、もともとお湯とか浴びるの嫌いだし。もういっそのこといいかなって思って」
「えー、汚いってば……」
 モモ子は突っ込みに耳も傾けず、テーブルの入れ物からコーヒーフレッシュを一つ取ると、また蓋を開けて舐めはじめた。
 少し経って、誠也が二階から下りてきて、風呂場へと入っていった。
 しかし、五分経っても出てこない。それどころか、十分過ぎても出てこない。
 香織は首をひねって居間を出た。脱衣所のドアを少しだけ開け、風呂場に向かって叫ぶ。
「誠也! 時間過ぎてるよ! 約束守ってもらわなきゃ、困るんだけど!?」
「あ、すいません! もう出ます!」
 浴室から返事がした。その時、パシャ!という水音が響いた。
「あれ!? もしかしてあんた、湯船浸かってる?」
「あ、いや、これはその……!」
 浴室ドアの向こうで、誠也がテンパっているのが伝わってくる。
 モモ子は香織の後ろで、ケラケラと笑った。
「誠也くーん、ダメだよー。今、水道代節約中なんだから。これは何かペナルティだね」
「すいません……季節の変わり目で、お肌が荒れちゃって。お湯に入って、調子を整えたかったんです……」
「あんた、どんだけ女子なの!」
 香織はあきれて頭を掻いた。
 誠也がベソをかいて鼻を啜る音が響いた。
「ウケるー、かわいいー」
 モモ子は尻尾を立てて笑っていた。

 夜の九時になり、香織は寝室で布団に入った。夜はネットしたり、好きなテレビ番組を観たりして、くつろぎたいので、かなり苦労だ。誠也は早寝早起きは美肌に良いということで、文句を言わなかった。何でも、夜中の十時から二時の間は、成長ホルモンが分泌される「お肌のゴールデンタイム」という時間帯らしく、眠ることによって肌の新陳代謝が活発に行われるらしい。掃除機を買える頃には、さぞツルツルお肌になっていることだろう。
 香織は寝ていると、十二時くらいにはっと目が覚めた。変な物音が聞こえてきたからだ。虫の羽音のような、不気味な音……。どこから鳴ってくるのか、よくわからない。「うぅ…」とうなり声も混じっている気がする。
 ……何だろう。
 香織は気になって起き上がり、廊下へと出た。恐る恐る階段を下りていく。もしかすると、
……幽の霊?
そんな疑問が頭をよぎると、背筋が冷たくなった。
一階に来て、廊下の照明スイッチをつけようとしたが、居間のドアのガラス部分から、明かりが少し漏れていることに気付いた。奇妙な音も中から響いてくる。
 香織は居間のドアまで進んで、静かに、ゆっくりと開けた。
 すると、衝撃的な光景が目に入った。
 なんと、モモ子がソファに寝っ転がりながら、電動マッサージ機を腰に当てて、
「うううぅぅ~ん……にゃあぁぁ……」
 と、気持ち良さそうに声を上げていたのだ。虫の羽音のように聞こえたのはマッサー
ジ機の振動音、うなり声はモモ子の恍惚の声だった。
「あんた! 何してんのよ!」
 香織は声を荒げた。
「あ~、見つかっちゃった」
モモ子はマッサージ機のスイッチを止めた。
「ちゃんと節電守らないとダメじゃない!」
「だってさ、夜、退屈で仕方ないんだもん。そんなに早く寝られないしさ……。ストレス溜まって、なんか肩や腰が凝っちゃったんだよ。だからマッサージしてたの」
 見ると、テレビがついており、釣りの番組が流れていた。毎日二十四時間、延々と釣り番組を放送する釣り専門のチャンネルで、モモ子が大好きなチャンネルだ。
『サバの沖釣り!』というテロップが画面の隅にあり、あまり知られていないタレントらしき若い女性と色黒中年男性のプロ釣り師が船に乗って、海面に釣り糸を垂らしていた。
「あ、見て!」
 モモ子がテレビを指さした。
 若い女性の手にしている竿が、大きくしなった。引き上げると、サバが体を左右に激しく震わせながら、タモ網の中へと入った。
「脂乗ってて、おいしそう」
 モモ子は口の周りをぺろりと舐めた。
 香織は勢いよくテーブルの上のリモコンを取り、無言で電源ボタンを押した。

 節約生活は続いたが、案の定、モモ子がやらかした。帰宅にタクシーを使うどころか、会社の近くのビジネスホテルに泊まったのだ。一万円近い出費だ。香織は頭を悩ませたが、予想の範囲内だ。まだ何とかなると考えた。三人とも食費を一日五百円でしのいでいた。カップ麺だけでは飽きるので、たまにレトルトご飯に納豆をかけたり、トーストを食べたりして、日々を乗り切っていた。
 節約を始めて十日目。香織たちはいつものようにカップ麺の晩ごはんを食べようとしていた。
「いただきまーす」
 香織は割り箸を使って麺をすすり始めた。
 しかし、モモ子と誠也はラーメンに手をつけず、下を向いている。
「あれ、どうしたの二人とも。麺伸びちゃうよ?」
「香織ちゃん、私、カップラーメン飽きちゃった……」
「ボクもです」
「そんなこと言ったって、しょうがないでしょ? 我慢しなきゃ」
「でも、毎日だし。会社のお弁当もカップ麺なんて、ちょっとつらすぎる」
「せっかく早寝早起きで美肌効果が高いのに、こんな食事じゃ、栄養が偏って逆にお肌の調子が悪くなっちゃいます」
「お肌のためにやってる生活じゃないんだからね!」
 香織がテーブルを叩いた。
 誠也はビクっとして、「すいません……!」と頭を下げた。
 香織は語気を荒げる。
「味だって、醤油、味噌、塩で三種類もあるし。たまにトーストや納豆ご飯も食べてるじゃない」
「そうはいってもねえ……お腹もいっぱいにならなくて、フラフラするし」
 モモ子が尻尾をだらりと下げた。
「最近、仕事してても力が入らないんですよ」
 誠也は目から涙をこぼし、鼻水を啜った。
 モモ子と誠也の言う通り、エネルギー源をしっかりと摂れていないせいか、香織も元気がなくなっていた。体重も少し減ってしまった。
「人間らしい食生活がしたいなあ」
モモ子は遠い目をした。
「あんた猫だけどね……」
「そうだけど、生活自体は人間と同じだもん」
「うん、まあ、確かに」
 香織は困った様子で腕を組んだ。
「じゃあどうする? やっぱり安い掃除機買う?」 
「いや、例のやつがいいと思うんだよね。音が静かなら、香織ちゃんが掃除しても寝られるし」
「ここまで来たなら、お目当ての品を買いたいですよね」
 モモ子と誠也がうんうんと頷き合った。
「あんたたち……勝手なことばっかり言って……」
 香織は苛立って手に力が入り、割り箸が折れそうになった。
「とにかく、マシな食事がしたいの。ものすごく安くて、おいしくて、栄養もしっかり取れて……できればカフェとかで食べられるようなもの、何かないかなあ……」
 モモ子はボーっと天井を眺める。
「そんなのあるかっつーの」
香織はぶつぶつと文句を言った。
 するとモモ子は目を大きく見開いて、人差し指を立てた。
「そうだ。私、いいこと思いついた!」
 叫んで冷蔵庫へと向かい、扉を開けて中を確認した。
「レタスあるね、タマネギあるね。よし、ちょっとスーパー行ってくる!」

 十分後、モモ子はスーパーから戻って来た。そのままキッチンに入り、買ってきたものをビニール袋から出して香織と誠也に見せた。
二枚の半身のサバだった。包装用ラップに貼ってある値段のラベルに『180円』と印字されている。あとトマトが一つ。
「♪サバ、サバ、サバ~ 塩サバサバ~、安~いサバサバ~」
 モモ子は歌いながら手を洗うと、魚の身をまな板の上に乗せた。
「モモ子、何作るの?」
香織はきょとんとして聞いた。
「まあ見てて! 激安で激旨な魚料理をみんなで食べよう!」
「へえ~、楽しみ」と言って香織は見守る。どんなものを作るのか全く見当がつかなかったが、魚料理となればモモ子は素晴らしい力を発揮するのだ。
「モモ子さん、お願いします。節約地獄に救いの光を!」
 誠也は両手を組んでモモ子を拝んだ。
「任せといて!」
 モモ子は胸を張って答えると、冷蔵庫を開け、タマネギとレタスを取り出した。どちらも大家さんが畑で作ってわけてくれたものだ。
 モモ子はサバの身を魚焼きグリルに入れ、点火ボタンを押して中火に合わせる。
「塩サバだから、味付けとかしないで、そのまま焼けばいいだけ。で、今のうちに、野菜ちゃんと食パンちゃんを……」
 モモ子はタマネギをスライサーでスライスし、ボウルの水にさらした。レタスはちぎって皿にわける。続けて、トマトを薄切りにし、パンをトースターに入れた。
 モモ子はグリル皿を引き出し、焼け具合を見て、
「うん、いい感じ。身を五分焼いたら、今度は皮目を三分と……」
 サバの身を裏返して、同じく中火で焼いた。
 魚料理をする時のモモ子は、手際がいい。いつもはぐうたらしているのに、見違えるほどテキパキとした華麗な動き。目つきも凛として頼もしく、まるで別人のようだ。香織は見入ってしまった。
「♪パン、パン、パン、パンパパン、パンちゃん、スタンバっちゃお~」
 モモ子は歌いながらラップを広げて、トーストしたパンを上に乗せた。マヨネーズをたっぷりと塗り、タマネギとレタス、トマトを乗せ、プラスチック容器のレモン汁をふりかける。
 パンの準備が整ったところで、グリルの皿を引き出す。こんがりと焼き色のついたサバの身が顔を出した。香ばしい脂の香りが、キッチンに広がった。
ろくな食事をしてなかったせいか、魚の焼けた匂いをかいだだけで、口の中に唾が溢れてきた。
 ふと香織が脇を見ると、誠也も食欲をそそられているようで、目が爛々としている。
 モモ子はサバを三等分に切ると、スタンバイしていたパンに挟んで、ラップで包んだ。包丁を手に取り、ラップごと半分に切った。
「こうすると、サンドウィッチが崩れないで、きれいに切れるんだ」
 モモ子はできあがったサンドウィッチを皿に盛った。
「焼きサバサンド、完成!」
 
 テーブル席についた香織たちは、合掌して声を合わせた。
「いただきまーす」
 香織は焼きサバサンドにかぶりついた。一口、二口と噛んでいくと、ハッと目を見張る。
「モモ子、これメチャクチャおいしいよ!」
 サクッとした食感のパンと甘い脂の溢れるジューシーなサバが口の中で一体となり、驚くほどのボリューム感を生み出している。更にマヨネーズが絡まり、一層コクと旨味が加わった。ともするとしつこい味になりそうだが、トマトの酸味が合わさって絶妙なバランス。レタスとタマネギの爽やかさもアクセントとなっている。シャキシャキとした歯ごたえが、またたまらない。
 食べる前、サバの臭みが少しあるかもと気にしていたが、タマネギとレモン汁が完全に消してくれていた。
 モモ子は気分が高まり、尻尾をピンと立てた。
「おいしいニャ~! 我ながら上出来ニャ~!」
 香織も食べながら、
「最高ニャ~!」
 と、またつられて語尾に『ニャ~』がついてしまった。
 誠也も同じようにつられて、「おいしすぎますニャ~!」と幸せそうな顔をしている。
「みんなにも喜んでもらえて、良かったニャ~!」
 三人でニャ~、ニャ~言いながら食べ続けた。
 一つ食べ終えて、落ち着いた香織は、ふとモモ子に聞く。
「これっていくらで作れた計算になるの?」
「今回は大家さんにレタスとタマネギを貰ったけど、買ったとしても一人当たり、百円ちょっとかな。やっぱりサバって安いからね。私たち庶民の強い味方だよねえ」
 香織は驚きのあまり声を失ってしまった。
 これだけの満足感を得られる上に、見た目も彩り豊かで、一人百円ちょっととは……恐れ入った。
 モモ子は食べながら解説を続けた。
「今回はお金がなかったから、材料の分量をおさえてたけど、普段だったら、もっとボリューム多くていいと思うよ。 サバの半身も一人一切れ使うといいかな。簡単だし、また今度作ってあげるよ」
 モモ子の言う通り、とても簡単な工程だった。

① サバの身を中火で焼く。(身を五分、皮目を三分)
②パンをトースターで焼く。タマネギとトマトを薄切り、レタスをちぎる。
③トーストにマヨネーズを塗り、準備した野菜を乗せてレモン汁をふる。
④焼き上がったサバをパンで挟み、半分に切る。

 以上だ。香織はすぐに思い出すことができた。
 モモ子はもう食べ終えていて、ふうと息をついた。
「サバって、脂肪分が多いから、カロリー高いんだ。野菜も摂れて健康的だし、食べればエネルギーが沸いてくるよ」
「なるほど。安いし、力が出るから、サバの料理にしたんだね」
 香織は何度もうなずいた。
「まあ、前に釣り番組でサバを観て、食べたいなあって思ってたのが一番の理由なんだけどね」
 モモ子は肩をすくめて笑った。
「ボク、こんなサンドウィッチ初めて食べました。ハムとか卵じゃなくて、まさかサバを挟むなんて」
 誠也が感じ入っている様子で言った。
「焼きサバサンドは元々トルコの名物料理なの。最近じゃ、日本でも知られるようになって、カフェとかでも食べられるよ」
 モモ子の話を聞いて、香織は「へえ~」と驚いてしまった。確かに、焼きサバサンドはオシャレ度もある。用水路沿いの田んぼを臨む土地なのに、まるで都会のカフェにでもいるような気さえしてくる。
「ボク、久しぶりにおいしいもの食べられて、良かったです。これで節約生活を乗り切れますね」
 誠也の頬を涙が伝った。
「あんた、涙腺弱すぎ……ほら」と香織がティッシュを二、三枚取って渡し、「ありがとうございます」と誠也は涙を拭いて、鼻をかんだ。
それにしても、モモ子のレシピはホントにお手軽に作れる。魚料理は下ごしらえや調理が面倒だが、モモ子の作るメニューは手間がかからず、簡単にできるものばかりだ。それでもしっかりとおいしい。怠け者の猫が大好きな魚を料理すると、こういうレシピになるのだろう。香織は改めて感心してしまった。
「やっぱり、あんたの作る魚料理は最高だよ!」
 香織がモモ子の肩を叩いた。
「モモ子さんは天才です!」
 誠也も拍手しておだてた。
 サバサンドを食べ終えて、満足そうに細い目をしていたモモ子は、
「まあねえ、へへへ」
と謙遜もせずに、嬉しそうに笑った。

 サバサンドのおかげで節約生活を乗り切ることができて、香織たちはとうとうサイクロン式掃除機を購入した。家に荷物が届き、香織が居間のど真ん中に置いた。
 香織は手をこすり合わせて、「とうとうきたね~」と眺めた。モモ子も両耳をピンと立てて興味津々の様子で、誠也も満面の笑みだ。
香織はダンボールの箱を開けると、掃除機が顔を出した。喉から手が出るほど欲しかった、赤とグレーのキャニスター型だ。
 香織は本体に頬ずりをした。
 誠也は正座して、ホースを撫でた。
「香織さん、早速使ってみて下さい!」
「もちろん! 家の中、汚くなってるからね」
 節約期間中は、頑張って誠也のハンドクリーナーで居間を掃除していたのだが、やはり無理があり、ゴミやホコリがあちこちに残っていた。
香織はコードを伸ばしてコンセントにさしこむと、もったいぶるように間を溜めてから「えい!」と掃除機のスイッチを入れた。
キュイーンと静かな音を発し、本体の透けて見えるスクリューが回転した。さっとかけただけで、床のゴミを勢いよく吸っていく。ゴミが溜まる部分にモモ子の毛が瞬時に集まっていった。
「おーっ! 吸う吸う! しかも軽い!」
 香織は歓喜して叫んだ。
「すごいですねー!」と誠也もテンションが上がって手を叩いた。
「こんな掃除機がこの世にあったのかー!」
 香織は楽しくて、まるで子供のように大はしゃぎで掃除を繰り広げた。
「モモ子、ほら見てごらん!」
 と振り向いて声をかけると、モモ子はソファに横になりながら、
「掃除の最中でもゆっくり寝られると思ったけど、これじゃ香織ちゃんたちがうるさくて寝られないよ……」
 ぶつぶつ文句を言っていた。

 節約生活も終わると、香織たちは反動でぜいたくな食事をしてしまった。回転寿司にとんかつ、焼肉、スイーツビュッフェなど……。
 すると、また生活費を払えなくなり、節約地獄を余儀なくされた。
 でも、香織たちは平気だった。
 そう、モモ子のサバサンドがあったから。










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