6月(中)

文字数 3,109文字

 裏庭へと続く曲がり角で、燈子は足を止めた。
 そろり、と首だけを裏庭の方へと巡らせる。途端、わん! と子犬が一声吠えた。
「だっ」
 びくりとした拍子に、壁に頭をぶつけて燈子は呻いた。その横をいつもの少年の《記憶》が駆け抜けていく。当然のことながら犬の存在など歯牙にもかけないその様子に、いっそ羨望すら抱きつつ、燈子は頭を抱えた。
 一晩が明けた。昨日は寮生達がチラシを作り、それを近隣の交番や店舗などに貼って回る内に日が暮れた。その日の内に飼い主が見つからなかったため、寮の裏庭には未だに子犬が鎮座している。食堂の余りものの肉を提供されてご満悦の子犬は、誰かが通りがかる度、遊び相手が来たとばかりに尾をぶんぶんと振っている。
「くそう、心頭滅却……」
「何やってんの?」
 しゃがみ込んで頭を抱えたままの姿勢でぶつくさと呟いていた燈子は、頭上から振ってきた声に跳び上がった。
「え、ほんとに何やってんの」
「浹か……」
 はああ、と溜息を吐く燈子に、浹は呆れた様子を隠さない。
「子犬預かってるって光紀が言ってたから、様子見に来たんだけど」
 一応は、姉を心配したということらしい。燈子は無言で裏庭を指さした。
「へえ――」
 と、浹が姉の頭上から裏庭を覗き込む
「なんだ可愛いじゃん」
 その賛辞を耳ざとく聞き取って、また子犬がわんと鳴く。
「あんまり褒めると調子に乗るからやめとけ」
「何言ってんの? 子犬相手に」
「マジだって。あいつかなりあざといぞ」
 苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべた燈子に、浹が溜息を吐いた。
「ほんと何言ってんの。それにしても、あんなちっさいのでもだめかー。根深いね」
「……まあな」
 同じように溜息を返し、燈子は頷いた。

 燈子の犬嫌いが始まったのは、おそらく小学校高学年の頃だった、と思う。
 「おそらく」、「思う」とやたら曖昧なのは、その前後の記憶が曖昧だからだ。そのこともまた、いつまでも犬嫌いを克服できない要因のように思う。

 小学生の頃、燈子と浹は夏休みになると父方の祖母の家に半月ほど滞在するのが常だった。
 その年――11歳の夏も、二人は祖母の家にいた。いつもと違うのは、例年よりも滞在期間が長かったことだろう。その頃、両親の関係は既に破綻を迎え、何度も繰り返される話し合いの末に父と母はとうとう離婚に向けた本格的な協議を始めていた。それで、二人は夏休みが始まるとすぐに、隣県に住む祖母の家へと預けられたのだ。
 燈子も浹も、両親が離婚することは避けられないと知っていた。だから、離婚が成立した後、自分たちはどうなるのかという不安は抱えつつ、それでも普段通りの夏休みを過ごしていた。
 燈子と浹と、それからこの時期にだけ一緒に遊ぶ友達がひとり。フルネームは思い出せないが、同じ年頃の少女だったと記憶している。とても整った顔立ちの美少女だったのにどこかボーイッシュなイメージが残っているだけで、肝心の顔立ちはおろか、名前すら思い出せないのだけれど、その時期はいつも3人一緒だったということだけはうっすらと覚えている。



 犬嫌いの原因となる事件が起きたあの日も、

は3人連れだって遊びに出かけた。祖母が住んでいたのは郊外の長閑な地域で、山と田畑が少しずつ色合いの異なる緑色を折り重ねる様が美しかった。
 豊かな自然の中で、浹達は野山を駆けまわったり、川遊びをしたりしながら日々を過ごしていた。
 その日、浹達は大人には内緒で、山の中にある廃神社を探しに出かけた。
 その前日にたまたま一緒に遊んでいた地元の子どもたちから、廃神社にまつわる話を聞いたのだ。どこにあるのかも、本当にあるのかすら定かではない噂話で、そこに行った者は帰ってこないなどというお決まりの脅し文句までついていたが、子どもにとってはそれすらも魅力的な誘い文句だった。
 いつも遊んでいる川を上流の方へと遡り、橋を渡る。その向こうに、こんもりとした小山があった。その道なき道を上りながら廃神社を探していたとき、事件は起きた。
 茂みの陰から、一頭の犬が飛び出してきた。もとは白かったのだろう毛は茶色く泥まみれで、あちこち固く強ばっている。あばらが見えるほどに痩せたその犬は、尾をだらんと下げたまま、低い声でグルルルと唸った。
 唐突なその出現とその姿の双方に驚いて、浹達は足を止めた。本能的に危機を察知して、怯えた表情を浮かべた子供達に、犬は体勢を低くしながら歯をむき出す。半開きの口元からは、ダラダラとよだれが流れ落ちていた。
「……なんかまずそうだよ、戻ろう」
 そう言ったのは、浹でも燈子でもなく、一緒にいた

だった。
「背中を向けて走ったらだめだよ、追いかけてくるよ」
 浹はそう言って、燈子の腕を掴んだ。
「ゆっくり、後ろ向きに行こう。せーの」
 一歩、また一歩。犬から決して目を離さず、3人で手を繋ぎ合いながら後ずさる。幸い、まだ登り始めて間もない所だったおかげで、程なく山裾に辿り着いた。
 だが、開けた場所に出て気が抜けたころで、ガサガサという音と共に、先程の犬が再び現れた。さらに別の茂みからも、二頭の犬が顔を出す。
 完全に自分たちを獲物と捉えた、ギラギラとした目の光に、ヒッと誰かが喉を鳴らした。
 犬たちは体勢を低くして、今にも飛びかかりそうだ。
 その時、燈子が動いた。両手を掴む少年達の腕を振り払い、足下に落ちていた大きな枝を掴む。
「燈子ちゃん!」
「危ないよ!」
 浹達を背中に庇うようにして、燈子は枝を構えた。犬たちが、警戒の色を浮かべる。
「燈子、僕が」
「私お姉ちゃんだもん、私が守る」
 代わろうとした浹に、ぴしゃりと燈子は断言した。枝を構える腕も、仁王立ちの足下も、よく見れば全身がブルブルと震えている。
 ビリビリとした緊迫感の中、子供達は再びじりじりと後ろに下がり始めた。決して燈子を置き去りにしないように、浹と

は後ろから燈子の服を掴む。
 少しずつ、少しずつ。耳の奥で、鼓動がドクドクと音を立てていた。
 犬が近づこうとする度に、燈子が枝を振り上げて牽制する。それを繰り返しながら、数メートル交替した、その時。
 犬の一頭が跳び上がった。唐突なその動きに、燈子が固まる。
「燈子!」
「燈子ちゃん!」
 咄嗟に、掴んでいた服を思い切り引っぱる。その勢いで子供達は一斉にバランスを崩し、後ろへと転がった。

 バッシャーン!!

 水しぶきが跳ね上がる。転げ落ちたその先は、川の浅瀬だった。いつの間にか、川沿いにまで戻ってきていたらしい。その水音に、飛びかかりかけていた犬達がビクリと足を止めた。
 最初にそのことに気付いたのは、

だった。
「! あいつら水が怖いんだ!」
 そう言って、燈子と浹の腕を引いて川の中程へと進む。さほど深くなっていない辺りまで来たところで立ちどまると、犬たちの方を眺めた。
 先程までの勢いはどこへやら、犬たちは川の少し手前で足を止めていた。こちらを恨めしそうに見ながら、うろうろと歩き回り――やがて、諦めて山へと戻っていった。
「――はあぁぁ、こわかった」
 誰からともなく、そんな声が漏れた。
「燈子、大丈夫?」
「……だい、じょうぶ」
 だがそう答えた燈子の身体はがちがちに固まっていて、全然大丈夫じゃないじゃないかと浹は思った。
「もう帰ろう」
 橋の近くまで、川の浅瀬を通っていき、犬の気配がないのを確かめて、一気に橋を駆け抜けた。

 燈子が倒れたのは、そのまま家の近くまで戻って、今日はもう解散しようと話していた時だった。
 高熱を出した燈子は、そのまま丸三日眠り続け――起きたときには、その前後の記憶がすっかり抜け落ちていたのだった。
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