8月(上)

文字数 3,751文字

「燈子さーん」
 呼び声に、書類棚の整理をしていた燈子は顔を上げた。受付の窓ガラスの向こうで、木島永津子がこちらを覗き込んでいる。
 ちらりと時計に目をやると、そろそろ午前10時になろうという時刻だった。
「12時の特急取ってるんで、暑くなる前に行こうかと思って」
 燈子は立ち上がり、廊下に出る。玄関先では、今日から帰省する予定の永津子が靴を履いているところだ。見送りに来たらしい桐邑綾華と島本なずなもいる。
 8月に入り、期末試験が終わった直後から、寮生達は三々五々、帰省や旅行、短期留学などで寮を離れる。盆も間近に迫ったこの時期、寮に残っているのは、燈子以外にはこの三人だけだ。永津子がいなくなれば、残りはもう綾華となずなだけになる。
「いつものことながら、荷物、少なくないか?」
 永津子が肩に提げているのは、普段、通学の時に使っているものと同じやや大きめのトートバッグだ。
「まー、着替えなんかは実家に置きっぱのもあるんで。てか、ウチじゃほとんどジャージしか着ないっす」
「ふうん」
 他の寮生達が帰郷する時には大抵、スーツケースを転がしていくのが常だ。それと比べれば永津子の荷物は、いつ見ても少ない。実家とはいえ、2・3週間という旅程を考えると、ほとんど手ぶらに近い。
「えっちゃん、お土産忘れないでくださいよ!」
「はいよー」
 綾華の声に軽い口調で応じた永津子は、ふと表情を改めて綾華に視線を送った。
「てか、あーや、ほんとにいいの? うち、姉ちゃんが結婚したから部屋も余ってるよ」
 その声には、純粋に友人を心配する響きがある。
「だーいじょうぶ。今年はね、なーちゃんとバイトに励むのですよ」
 えへん、と胸を張って応じる綾華は、例年最後まで寮に残るのが常だ。昨年、一昨年と夏はほんの数日しか帰省しなかった。今年に至っては、予定すら聞いていない。
「そうそう。綾華先輩には、ウチのバイト先でがっぽり働いてもらいますから」
「おーい、本音が漏れてんぞ守銭奴」
「なんで綾の稼ぎ分まで計算に入れてんだ」
 思わずつっこんだ永津子と燈子に、なずなはくふふと笑う。こちらは限界までアルバイトの予定を詰め込んでいるらしい。その上さらに、帰省の予定のない綾華まで巻きこんで荒稼ぎするつもりのようだ。
「ふふふ、先輩なら集客力抜群。店長も紹介した私のバイト代に色をつけてくれるはず」
「皮算用じゃん」
「夢見がちなお年頃って奴か」
 含み笑いをするなずなに溜息を吐くと、永津子は肩のトートバッグを持ち直す。
「んじゃ、行ってきます」
 そう言うと、永津子は背を向けて玄関のガラス戸を開けた。途端に、外の熱気がもわりと屋内に攻め込んでくる。まだ午前中だというのに、既に気温は30度を超えていそうだ。
「うわ、あっつ」
「気をつけろよ」
 外へと足を踏み出しながら顔をしかめる永津子に、燈子は声を掛ける。それに「はーい」と応じて、永津子は炎天下へと出て行った。
「んじゃ、私らもそろそろ出ます?」
「なんだ、バイトか?」
「そうっす。昼前からシフト入ると、昼のまかないもらえるんで」
「まっかなーい! めっちゃ美味しんですよ!」
 例年、寮生のほとんどがいなくなる8月頭から9月にかけての1ヶ月は食事の提供が止まる。その代わり寮費は半額だ。厨房は自由に使えるから、それぞれが適当に食材を持ち寄ったり、惣菜を買ってきたりしながら過ごしているようだ。アルバイト先のまかないで乗り切る学生も多い。なずなはその最たるものだ。学費も生活費も自力で納めている彼女は、日頃からアルバイトに精を出している。まして長期休みともなれば、稼ぎ時とばかりに複数のアルバイトを掛け持ちするのが常だ。
「今年も寮閉じないんですよね」
「んー、どうせここにいるしなあ」
 一応、寮監にも盆前後に休みが与えられている。寮生がいない時期であることに加え、普段は週末であっても、なんだかんだと寮の管理業務があることから、この時期に有給休暇を取得することで、2週間ほどのまとまった休みが確保できることになっている。
 これまでの寮監は、それぞれ実家に帰省したり親族の元に行ったりと、数日間留守にすることも多かったらしい。その間は出入りを管理する者が不在になるため、寮自体が一時的に閉まることになる。
 燈子も、最初の年だけは慣例に則り、3日ほど寮を閉めた。だが、元々実家を出た身、特に帰省する先も旅行する予定もないままダラダラと過ごすだけの日々だった。それならば、と2年目以降は寮を閉じるのをやめて今に至る。
 ただし燈子も休暇中だということで、風呂や共有スペースの掃除などはその時に残っている寮生で回してもらう。少数で広い浴場の掃除をするのは大変なので、メンバーによっては近所の銭湯を使う事もあるが、逆に一人で浴場を貸し切れるのが贅沢でいいという者もいるのが面白いところだ。
「助かります。寮が閉まっちゃうと、帰省の交通費掛かるしバイトは入れなくなるし」
「そうそう、美味しいまかない食べられなくなっちゃうの困るんで!」
「欲望しかないじゃないか」
 守銭奴と大食いが口々に言うのに溜息を吐くと、燈子はぽん、と綾華の背中を軽く叩く。
「まあ一応、明日から休暇ってことにはなってる。昼間は出かけるかもしれんから、バイトやら行く時には帰宅時間知らせといてくれると助かる」
「はーい」
「綾はまかない食い過ぎるなよ。出禁になるぞ」
「あ、あいさ!」
 ぴっと敬礼の真似をする綾華に苦笑して、燈子は寮監室へと戻った。

 綾華となずながバイトへと出て行くと、寮内はしんと静まりかえった。今、この広い建物の中にいるのは、燈子一人だ。開いた窓から、蝉の合唱が絶え間なく聞こえてくる。セミは熱中症にならないのだろうかなどと、益体もないことをちらりと考えながら、燈子は手にしたファイルを捲る。
 廃寮まであと7ヶ月ほど。そろそろ書類や荷物の整理をしておかねばと、まずは寮監室に置かれたものから整理し始めたところだ。不要なものは処分し、個人情報が書かれたものは大学事務に確認の上、返却もしくはシュレッダーにかける。外から見える受付内にあるのは、この10年ほどの新しいものばかりだ。燈子が着任してからの新しいものは最後に残し、まずは古いものからチェックしては仕分けていく。最も多いのは業者などの出入りの記録だ。寮生の家族だけでなく、諸々の修理業者や配達員などが寮内に出入りした場合に時間と所属、氏名などを記載したものだ。
「これは不要、と」
 呟きつつ、ファイルから外した書類をシュレッダーに掛けていく。大学事務から貸し出してもらったものだ。一回に裁断できる枚数が少ない上、すぐに満杯になるので、正直少し面倒くさい。
 途中、昼食や小休憩を挟みつつ、書類棚の一角を整理し終えた頃にはすでに16時を回っていた。
「んー」
 ずっと屈んだ姿勢で作業をしていたせいで、背中が痛い。腕を頭上に伸ばすと、背中の骨がポキリと音を立てた。
「夕飯、どうするかねえ」
 空になったファイルを片付けながら呟く。綾華たちは夕飯もまかないをもらって帰ると言っていたなと思い起こしながら、居室の冷蔵庫の中身を思い出す。確か、冷凍チャーハンが残っていたはずだなどと考えていると、不意に受付の黒電話がなった。
「楓葉館です」
 この番号に掛けてくるのは大学か出入りの業者くらいのものだ。何の用事だろうかと思いながら出た通話相手は、しかしそのどちらでもなかった。
 『私、ハヤムラと申します。そちら、英藍女学院大学の学生寮でよろしいでしょうか』
 聞こえてきたのは、老年にさしかかっていそうな男性の声だ。少し警戒しながら応じる燈子に、男は慇懃に綾華の家の使用人だと説明し、綾華を出してほしいと言った。
「大変恐縮ですが、桐村さんの御家内の方であると確認が取れませんと、お繋ぎ致しかねます」
 時折、無関係の他人が家族を装って電話を掛けてくることもあるからだ。女子寮の特性上、寮生の身の安全を確保することは、寮監の最も重要な役割である。
 ただ、昨今は寮生もそれぞれスマートフォンを持っているから、寮生の関係者が寮に電話をしてくることはほとんどない。燈子は手近の棚に手を伸ばし、一冊のファイルを引き抜いた。
「もしお急ぎでしたら、私が伝言致しますが」
 話しながらぱらりと捲ったファイルには、現在の寮生達の個人情報が収められている。綾華の書類には確かに、連絡をする可能性のある人物として、家族に並んで「早村」という名が記されている。続柄は「使用人頭」だ。
 燈子の言葉に、電話の主は気分を害した風もなく『いえ』と答えた。その声音から感じ取れる雰囲気は確かに、温和な番頭――いや、執事か。
『では、早村から電話とお伝えください。なるべく早めにお電話くださいと』
「かしこまりました。では失礼致します」
 電話を切ると、燈子は小さく息を吐いた。
 早村という使用人頭がわざわざ寮に電話を掛けてきたのは、おそらく綾華のスマートフォンにかけても出ないからなのだろう。なんとなく、燈子は思う。綾華が帰省する予定を立てていないことと、おそらく無関係ではない。
「んー……」
 何となくもやもやする気分を打ち消すように、がしがしと頭を掻いて、燈子は唸った。
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