4月(上)

文字数 3,342文字

 差し出された掌に鍵を落とし込む。
「――これが、部屋の鍵。食事は朝食が7時から9時、夕食は18時から20時。食堂はそこの角を曲がったところです。入浴は19時から24時まで。門限は23時。点呼等はありませんが、それ以降は表の鍵が閉まります。以降は朝5時まで解錠しませんので、遅れないように」
 長きにわたって使い込まれた真鍮製の鍵を、新入寮生が緊張した面持ちで握りしめた。

 英藍女学院大学は、明治初期に宣教師によって創立された女学校を前身とした、由緒あるミッション系女子大である。前皇太后の母校であるとか、歌舞伎一門の娘が代々入学しているだとか、あの政治家の娘にあの文豪の孫と、錚々たる出身者の顔ぶれから、「清楚なお嬢様」の代名詞とさえ呼ばれるらしい。
 その無駄にネームバリューのある女子大のキャンパスから徒歩10分。山裾に近い閑静な住宅街――といえば聞こえが良いが、要は寂れたかつてのニュータウンの一角に、学生寮がある。
 木造3階建て、敷地面積はおよそ500坪。入居定員は70名。オートロックなどの近代的な設備はないが、寮監が常駐し学生達の日々の生活を公私にわたりサポートしている。特に、異性は親兄弟といえど、玄関からは一歩も中に入れないことが、保護者に対する最大の売りである。
 
 その寮で管理人を務める篠蕪燈子(しのぶとうこ)は、初々しい新入生の反応にも特に表情を動かすことなく――これでも平素に比べれば営業スマイルに近い筈だ、多分――続けた。
「外泊等の制限はありませんが、御家族から急な連絡があることもありますから、合宿などで不在にする場合はその旨を知らせておいて下さい――何か、ご質問は?」
 一通り説明を終えた燈子の問いに、連れ添っていた母親が手を挙げる。
「男性は中に踏み込めないと伺っていますが、たとえば主人――父親が訪問した場合は……」
「申し訳ありません。男性はご家族含め、玄関よりも内側には踏み込めない規則となっております。ただ、お嬢様の居住環境などご心配もおありでしょうから、入寮後5月の連休までは、事前に申請をしていただければご見学いただくことが可能です。ご希望でしたら、後ほど詳細な資料をお渡しいたしますのでお申し出ください」
 にこりと笑いかけると、何故だか母子揃って頬を染められた。

「あー、疲れた……」
 最後の入寮者と彼女に付き添ってきた保護者を送り出し、燈子は溜息を吐いた。
 入学式を控え、ここ二日ほどに新入生の入寮が集中したせいで妙な気疲れをしたようだ。例年の事ながら、笑顔を貼り付けて保護者対応を続けるのは、なかなかに精神が削られる作業だ。
 それでもこれで今年度の新入寮生総勢15名の受け入れは完了したから、これで少しは休めるだろう。ただ、次には寮生間のトラブルやホームシック等々の問題が発生しやすくなる時期がやって来る。今年の新入寮生が落ち着いたタイプである事を心から祈らずにはいられない。
「もう5時か……」
 間もなく夕飯時だ。そろそろ食堂に行って調理師達の手伝いをしなくては。風呂は当番が掃除と湯張りをしているはずだから後で確認すれば良いとして――とこの後の予定を組み立てながら、書類の確認をする。
 入寮の手続きを終えたとはいえ、明日に入学式を控えた新入生達の多くが今夜は両親とともに過ごす。夕食後に帰寮する者が3名、そのまま両親と宿に泊まる者が8名。つまり、今日の所はほとんどいつものメンバーしかいないことになる。まあ、トラブルは起こらないだろう。
「後もうちょい頑張るか……」
 終わったらゆっくりとくつろぐことにしようと、燈子は溜息を吐いて寮監室を後にした。

 食堂に向かって廊下を進むと、その手前の集会室に寮生が集まっていた。
「あ、とーこさん!」
 手を振るのは、寮長の木島永津子だ。
「どうした?」
「あー! 燈子さんスカートはいてる!」
 永津子の向かいに座る島本なずなが、歩み寄る燈子の姿を見て声を上げた。
「ん? ああ」
 自分の姿を見下ろして、燈子は小さく溜息を吐いた。今日は薄手のブラウスに七分丈のタイトスカートだ。普段の出で立ちと比べると、大分フォーマルかつ女性的な装いと言える。
「この時期は毎年そうですよね」
 と、和久井咲良(さくら)が言うのに頷いてみせる。
「一度、男だと思われてクレームがきたことがあったんでな」
 燈子は170㎝を越える長身の上、女性としては骨張った体型で声も低い。そのせいで、中性的な服装をしていると男性に間違われることが多い。いやむしろ、9割9分9厘男性だと思われる。この寮で務めるようになって最初の新学期、普段通りのパンツスタイルで入寮生と保護者を迎えた際にも、寮監が男性だなんて、と激高されて対応に苦慮したのだ。それ以来、初対面の保護者と入寮生に対応する時にはスカートを穿くようになった。正直あまり気は進まないが、業務を円滑に進めるためには仕方ない。
「で、何してる?」
「新歓の打ち合わせっす」
「ああ……」
 五月の連休明けに例年実施する新入寮生の歓迎会の企画を立てているところらしい。
「今年はいつもと違うことしたいねって言ってんですけど、何がいいと思います?」
 例年、歓迎会は集会室でゲームなどをしながら親睦を深めるのが慣例だ。
「3回目にもなると、新鮮味もね」
 そう言って頷きあう新3年生達に、燈子は苦笑する。
「おまえらだけだろ、それ」
 今ここにいるメンバーは、もはや寮の主と呼べるほど寮に居着いている面子だ。大抵の入寮生が、あまりに古い設備に辟易して一年以内に退寮するのに対し、順調に3年目に突入している永津子や咲良が特殊なのだ。
「そういや、綾はどこ行った?」
 もう一人の3年生、桐邑綾華の姿が見えないことに気付いて、燈子はちらりと辺りに視線を巡らせる。
「あーやはお腹空いたって」
「ああ……」
 綾華はとにかく食に対する熱意が尋常ではない。先日も、迷い込んだタヌキを捕獲して食べようとしていたくらいだ。きっと食堂で、食事の開始時間になるのを待ちかねているのだろう。調理師達の邪魔にならないうちに捕獲しておいた方が良さそうだ。
「んじゃ、食事の支度してくるか。今日は新入寮生が4人だけ残ってるから、時間になったら声かけてやって」
「はーい。あーやいたら、こっちに戻ってくるように言ってください」
「はいよ」
 ひらりと手を振り、燈子は集会室を後にした。

 案の定、食堂では綾華が今か今かと調理師達の動きを見守っていた。カウンターにがぶり寄りで厨房を見つめるその背中で、激しく揺れる尾が見えそうなくらいだ。
「綾。寮長達が呼んでたぞ。新歓の企画を立てるんだろ」
 声を掛けると、綾華がこちらを振り返る。もう丸3年、ほぼ毎日顔をつきあわせているが、何度見てもはっとするような美少女ぶりだ――口さえ開かなければ。
「燈子さん、新歓、ビュッフェにしましょ」
「……何を言い出した?」
「料理と、デザート。沢山作って、ビュッフェ」
 ひと言ひと言区切るようにして綾華が言う。なぜ片言なのかはよく分からない。
「却下」
「なんでー」
「予算がない」
「自分たちで持ち寄りにするからー。自分たちで作るからー」
「食中毒が出たら困るだろ」
「えー……」
 口を尖らせてブーイングをする――本当にブーブーと言っている――綾華の相手をしながら、燈子はテキパキと寮生用の食器やトレイを並べた。食事の開始時間以降は、来た者から順にカウンターで配膳を受ける形式だ。
「いつもよりいくらか多く作って並べるくらいならできるよ」
 助け船を出したのは、ベテラン調理師の田中だ。その声に、ばっと綾華が厨房を振り返り、キラキラとした何かを振りまきながら田中を見つめた。
「田中さん大好き!」
「……甘やかしたらだめですよ」
「まあまあ。5、6年前にも一度、やったことがあるから、多分大丈夫だよ。予算にもよるけどね」
 それは初耳だ。まだ燈子が着任する前の話だから、あとで記録を探しておこう。
「やった!」
 手を叩いて喜ぶ綾華に、燈子は溜息を吐いた。
「まだ本決まりじゃないぞ。集会室行って、他の連中と話し合ってこい」
「あいさ!」
 ぴょこんと敬礼をすると、くるりと踵を返して駆けだしていく綾華を見送り、燈子は田中と目を見交わして苦笑を漏らした。
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