4月(中)

文字数 3,758文字

入学式も無事に終わり、本格的に大学のカリキュラムが動き始めて1週間あまり。最初の数日こそ、あまりにも古い設備を目の当たりにして、今は本当に21世紀かと戦々恐々としていた新入生達だったが、順応性の高い者から徐々に慣れ始めているようだ。まだ数名、緊張した様子の新入生もいるものの、概ね問題は起きていない様子だ――多分。おそらく。そう願いたい。
「あーくっそ、(あっつ)っ」
 額から流れる汗を拭いながら呟いた瞬間、くしゃみが漏れる。あー、と低い声を発して、燈子は電動草刈り機のスイッチを落とした。上体を反らし腰を伸ばして、辺りを見渡す。ほんの数日の間にすっかり荒れ地と化した裏庭の様相に、溜息が漏れた。
「……これだから春は」
 ぼやく声に、再び電源を入れ直した電動草刈り機の唸りが、ぶおんぶおんと被る。新入生の受付とその後の対応に追われ、ほんの数日庭の手入れを怠っただけでこの有様だ。それでもまだ、合間に雨が降らなかっただけ、今回はまだマシな方だろうか。
 己の職責とは言え、無駄に広い敷地が恨めしい。ただひたすら、無心に草刈り機を駆り続けて早一時間あまり。ようやく裏庭の半分がさっぱりしたところだ。まだ半分――どころか、表側の手入れも残っていると思うと、それだけでうんざりする。
 しかしよくもまあ、これほどまでに繁茂するものだ。
 庭の一角には数本の桜がまさに見頃を迎えんとしているが、足下に背の高い草が伸び放題の状況では、風流よりもうらぶれた感が強い。
「よし、とっとと終わらせて休憩する……」
 新年度が始まったばかりのこの時期、日中に寮に残っている学生はほとんどいない。さっさと仕事を終わらせれば、多少の休憩時間は取れるはずだと、燈子は気合いを入れ直した。

 それに気付いたのは、裏庭の草刈りを終え、側面から表に向かって進んでいる時だった。
 ふと振り向いた視界の隅に人影が見えて、燈子は作業の手を止めた。
「ああ……、なんだ」
 さっぱりとした裏庭の桜の根元に若い女が一人、横座りしているのが視える。毎年、桜が満開になるこの頃になると、頻繁に現れる花見の《記憶》だ。服装から推定するに、二~三十年前の学生だろう。にこにこと桜を見上げるその表情は、彼女にとってその花見が温かな思い出だったことを何よりもよく伝えてくれる。
 さっきまでは視えなかったのは、やはり草が茂っていたせいだろうか。《記憶》の出現にも、どうやら風情の問題が関わっているらしい。
「花見、か」
 呟いて、燈子はくるりと踵を返す。この季節はいつも花粉が気になるから、あまりのんびりと花見をすることもできないのだが、たまにはいいかもしれないと思う。
 幸い、まだ数日は晴れ間が続く予報だし、どうにか草刈りも済んだことだし。
 何より――来年の春にはもう、ここには誰もいないのだ。
「……柄じゃないな」
 らしくない感傷に浸りかけた自分を揶揄するように、燈子は呟いた。けれど。
 この土地が来年以降、どうなるのかは知らないし、しがない寮監に過ぎない燈子には知る術もない。あの見事な桜も、もしかしたら切り倒されてしまうのかもしれないし、あるいは、そんな憂き目には遭わず、新しい用途となったこの土地で新たな《記憶》を上書きしていくのかもしれないけれど。
 とりあえず、自分たちの――この寮の最後の花見の《記憶》を、ここに刻んでみるのも一興だ。
 そんな気分になるのは、樹下に微笑む彼女の表情があまりに穏やかだからだろうか。ふ、と口元に微笑を刷き、燈子は再び草刈りに戻ろうとして――表から聞こえる騒がしい足音に手を止めた。
 バタバタと、やかましい足音はもはや疑うべくもない、寮長だ。いや、良く耳を澄ませば、音は複数だ。他にも誰かいるらしい。
「燈子さん、燈子さん! あ、いた!」
「何だよ騒々しい」
 角を回って顔を出したのは、案の定、寮長――永津子だった。その後ろから、綾華もついてくる。
「お花見していいですか! みんなで!」
「……どうした、いきなり」
 ほんのワンテンポ、反応が遅れた。永津子の発言が、たった今自分が考えていたこととあまりにもシンクロしていたせいだ。
「あーやと、咲良のお誕生日会サプライズしようって言ってて。ちょうど桜も咲いてるし、どうせなら新入生も誘ってやろうかって話になったんすよ」
「団子! 団子!」
「あーや、誕生日だからケーキだよ」
「ケーキ!!!!」
 ふしゅーと鼻息を荒くして、綾華が声を張り上げる。花より団子を地でいく奴がここにいた。
「構わんが、準備も片付けも自分たちでしろよ」
「やった! じゃあ明日の夜いいっすか」
「近隣にご迷惑にならないように、21時には撤収すること。食堂にも今日中にお伝えしておけよ。ああ、それからメンバーが確定したら一応報告」
 燈子の言葉に、うんうんと大きく首肯する永津子と綾華の動きがシンクロする。赤べこのようなその様子を、これが若さか、と燈子は苦笑交じりに眺めた。

 騒々しい突風のような二人が立ち去った裏庭には、一転して静かな空気が帰ってくる。
「――良かったな、お仲間ができそうだぞ」
 振り返った先、桜の根元に座る《記憶》に向かって燈子は小さく呟いた。来年の今頃にはきっと、彼女の他に、永津子や綾華、咲良たちの姿がここに現れるのだろう。その光景を想像して、燈子の口元に微笑が浮かぶ。
 それはきっと、ここで彼女たちが過ごした日々の証として、この場所に残り続けるはずだ。
 たとえ――誰一人、その光景を目にする者がいなくとも。
「……どうも今日はあれだな」
 なんだか感傷的になっている。花の盛りがそうさせるのだろうか。
 首を傾げつつ、残りの草刈りを進めようと気を取り直した。そこに、今度は燈子を背後から追い抜くようにして小さな影が走り過ぎる。
「――?」
 半ズボンを穿いた少年の背中が目の前にある。いつの間に入ってきたのだろう――と声を掛けようとして、燈子は動きを止めた。背後から近づく気配どころか、真横を通り過ぎる時も走り去っていく今この時も、一切の音がしないことに気付いたからだ。
「……《記憶》?」
 小さな呟きが漏れる。なぜ女子大の寮に、子どもの《記憶》が染みついているのだろうか。後ろ姿を見る限り、小学校の中学年から高学年くらいの年頃のようだ。Tシャツにハーフパンツという服装は、あまり時代を感じさせないオーソドックスなものである。
「そういや、前にも見かけたな……」
 あれは先月のことだっただろうか。今と同じような服装の子どもの姿を見かけて、注意しようと追いかけたことがある。あの時は、門の外に出た途端に見失ったのだったか。あれも《記憶》だったのなら、それもむべなるかな。
 過去の寮監の家族だろうか。あるいは女子寮に忍び込んで遊んでいた子どもの思い出なのか。
「んー、まあいいか」
 若干、どこか心に引っかかるものを覚えつつも、燈子は頷いた。知りようのない事柄について思いを巡らせてもどうにもなるまい。それよりも、不定期にあらわれる子どもの《記憶》が存在することだけ、心に留めておけばいい。遭遇率が上がれば、自然と出現するタイミングも分かるだろう。
 そうのんびりと考えながら、角を曲がる。前庭にさしかかったところで、門柱に人影が差した。
「とーおこ」
「浹?」
 顔を出したのは、実弟の(とおる)だ。
「どうした?」
「花見のお誘いに」
「……おまえもか」
 なんだか今日はやけに花見づいている日だ、などと思いながら漏れた言葉に、浹が不思議そうに首を傾げる。
「さっきも、寮長達が裏庭の桜のところで花見をしたいとか言い出してさ」
 その直前には、自分も同じ事を思っていたとは言わない。そんなのは自分の柄ではないから。
「ああ、あの桜も立派だよね。ならそっちの企画に相乗りさせてもらおうかな」
「却下。私を失業させる気か」
「大丈夫でしょ。バレたってどうせあと1年なんだから。わざわざ数ヶ月だけ新しい人を雇うのも手間だし、そのくらいならそのまま燈子に続投させるって」
「そういう問題じゃない」
 からからと笑う浹に嘆息して、燈子は額に手を当てた。母親の胎内から一緒に育ってきた双子の弟だが、基本的な性格は対照的だ。細かいことは気にせずおおらかな――言い方を変えれば自由人の――浹に対し、燈子はどちらかと言えば融通の利かない質だという自覚がある。そんな姉を横目で見ながら、浹は首を傾げた。
「んーそう? ま、俺だけならともかく、光紀も来るとさすがに場が荒れそうだしやめとくかー」
「……あいつも来るのかよ」
 思わず砂をかんだような声が出たが、浹が気にするはずもない。
「そりゃそうでしょ。むしろ、何で来ないと思うの」
 むう、と口を引き結んで視線を逸らす姉を眺め、片眉を上げる。この姉が答えない時は、大抵都合が悪い時と相場が決まっている。
「燈子は、気持ちをかき乱されるのが嫌なだけでしょ」
「……」
 浹とほとんど身長の変わらない姉の背中が、僅かに丸くなる。どうやら自覚はあるらしいと、浹は燈子には気取られないように、うっすらと口角を上げた。
「ま、燈子も燈子だけど、光紀も大概気が長いし? 俺は光紀の粘り勝ちに賭けるけどね」
 ふふんと鼻で笑う弟に、口惜しそうな気配を漂わせながらも、燈子は聞こえないふりで誤魔化した。
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