8月(中)

文字数 4,623文字

 ジジジジとアブラゼミの鳴く声で目が覚めた。
「あーうるっさいな、もう」
 どうやら壁の向こう側辺りに羽化したての個体がいるらしく、やたらと音が近い。短い生、一秒たりとも無駄にできないのは重々承知しているが、枕元で熱唱するのはやめてほしい。
 時計を見るとまだ5時半前だ。常よりも早く起きてしまったのは、窓から差し込む光の強さも原因のひとつかもしれない。カーテンの隙間から差し込む日差しは、まだ日が昇ったばかりとは思えないほどギラついている。今日も暑くなりそうだ。いや、既に暑い。
 仕方なく起き上がると、燈子はさっと身支度を調えて寮内へと向かった。
 静まりかえった寮内を回りながら、窓を開けて回る。まだ比較的気温の低いうちに、裏山から下りてくる冷気を取り込むためだ。
 この古びた寮でエアコンなどという小洒落たものがついているのは集会室だけだ。だがそれも、もはや天然記念物と呼びたくなるほどの年代物で、まだ動くことは動くものの、モーターの稼働音はうるさく、ほこり臭い上に今ひとつ涼しさも感じられない。半年に一度は燈子自身が掃除をしているが、奥にこびりついた埃やカビまでは落としきれず、衰えた冷却機能では昨今の温暖化には対応しきれない。それくらいなら、山に面した北側の窓を全部開放した方がまだましというものだ。
 今日からは休暇ということになってはいるが、自分の生活スペースを快適な温度に保つためにも、この作業は欠かせない。
「……」
 集会室の窓をすべて開けると、少し湿った冷たい空気がするりと流れ込んでくる。これで午前中一杯は涼しい状態を保てるはずだ。
 寮監室に戻るべく、踵を返す。集会室を出る手前で、燈子は奥の壁にちらりと視線を流した。壁際の椅子の上、片腕で膝を抱えるように座る影が、そこに視える。俯いた白い横顔に、真っ直ぐな黒髪が掛かって表情までは読み取れない。時々口元が動くのは、電話でもしているのだろうか。
 小さく溜息をついて、燈子はその《記憶》に背を向けた。

 時刻は8時。
 玄関前の掃き掃除やら洗濯やら、細々とした用事を済ませ、あり合わせの食材でのんびりと朝食をとってから、燈子は身支度を調えた。
 綾華となずなはまだ寝ているだろうか、と思いながら寮の廊下に顔を出すと、廊下の奥の方からかちゃかちゃと食器の鳴る音が聞こえてくる。どうやら、誰かが厨房を使っているらしい。
 果たして、厨房には二人共が揃っていた。備え付けのトースターが、チンと焼き上がりを知らせる。
「二人とも、早いな」
 声を掛けると、こちらを振り向いた綾華となずながそれぞれ朝の挨拶を口にする。
「9時からバイトあるんですよ」
 そう言いながら、なずなはインスタントのコーンスープに湯を注ぐ。
「今日は二件掛け持ちなんで」
 朝から昼過ぎまで駅前にあるショッピングモールのフードコートで、夕方からは居酒屋で働くらしい。徹底的にまかないで食いつなぐ気だ。
「なら、綾も一緒か?」
 視線を向けると、冷蔵庫から巨大なプリンを取り出しながら、綾華が首を振る。
「いーええ、私は昨日のお店だけなので、今日はお休みなのです」
「さすがにフードコートとか居酒屋に綾華先輩は危なすぎるんで」
「ああ……」
 意図するところを察して燈子は苦笑した。何分、綾華は黙ってさえいれば絵に描いたような美少女だ。不特定多数の客のやって来るフードコートや、酔客の多い居酒屋では、どんなのに絡まれるか分かったものではない。
「昨日の店はちょっと高級路線だし、女性客も多いんですよ。何より、店長が強い」
 なるほど、と燈子は内心で頷いた。しっかり者のなずならしく、綾華に斡旋するバイト先も厳選していたらしい。
「んー。で、綾。今日、何か予定は?」
 問いかけた燈子の視線に、綾華がパンを頬張る手を止める。
「……何もないんですよー。ロンリーウルフです」
「なんだそりゃ」
 意味の分からないひと言にツッコミを入れつつ、綾華の視線が軽く左右に揺れたことを、燈子は見逃しはしなかった。
「私も今日はこの後出かけるんだが、綾、なんなら着いてくるか?」
 燈子の言葉に、綾華が目をぱちりと瞬いた。
「良いんですか?」
「墓参りだから、面白みはないけどな。ついでに美味いもんでも食べて帰ろうかと」
「行きます!」
 『美味いもの』と聞いた瞬間、綾華がばっと手を挙げて立ち上がる。
「んじゃ、1時間後に出るから仕度できたら声かけてくれ」
「あいさー」
「なずなは、もし早めに帰ることがあれば綾に連絡してくれ」
「はーい」
 ひらりと手を振ると、燈子は寮監室に戻った。

 *

 たたん、たたん。
 眠気を誘うリズムを刻みながら、電車は山裾を迂回し、市境の川を渡る。
「私、こっちに来るの初めてです」
 外を眺めながら、綾華が弾んだ声で言う。
「ま、あんま若者向けの地域じゃないからな」
 大学のある学生街や市役所からほど近い繁華街とは異なり、川を越えたこちらはどちらかと言えば昔ながらの集落だ。窓の外には、田畑も広がっている。
「結構、こっちの方に住んでるって子も多いですけどねー」
「へえ」
 そういえば、以前、寮を出た学生もこちらの方で部屋を借りたと言っていたような気がする。
「何か美味しいものありますかね-」
 うきうきとした風情で言いながら、綾華はちらりと鞄に視線を落とす。一見、いつもと同じように振る舞いながらも、時折こうやって鞄を気にする素振りを見せる。おそらく、スマホを気にしているのだろうと燈子は口には出さず、そう思った。
 昨夜のうちに、綾華には早村という人物から電話があったと伝えてある。ほんの一瞬、表情を曇らせた彼女が、自宅に電話を掛けたのかどうかは知らないが――この様子だと、おそらく掛けてはいないのだろう。
「……」
 流れゆく車窓に目を向ける綾華の横顔をちらりと眺め、燈子はどうしたもんかと内心で呟いた。
 燈子の仕事は寮の管理だ。その職分には寮内で起きる寮生間のトラブルの調停や、個々の悩み相談も含まれる。
 けれど、寮生とその家族とが抱える問題に介入するのは、燈子の職分を超えるのではないだろうか。ただ寮生の家族に対する不満や悩みを聞くのと、積極的にその間に入るのとは、似ているようで違う。しがない寮監に、家庭の事情に口を出す権限はない。
 けれど、けれど――
 それでもつい、口を出してしまいそうになる自分を、燈子は迷いと共に自戒する。ここまで気になるのは、綾華が入寮した日から2年半、ほぼ毎日のように接してきたせいだ。情が湧いたといっても良い。
 だがそれ以上に――彼女の環境に自分自身を重ねてしまっているのだ。ここで綾華の家庭事情に口を出してしまえば、それは寮監の職分を一気に飛び越えて、燈子の私情を多分に含んでしまう。だからこそ、慎重になるべきだと燈子は自分を堅くかたく戒める。
 しかしそれでも。
 時折、鞄に目をやっては表情を曇らせる綾華に、燈子は急くようなもどかしさを抱いていた。

 *

 下り電車に揺られること、20分。
 着いたのは、大学や寮のある町から山を一つ越えた先にある隣の市だ。盆地に広がる小都市で、50年前にはベッドタウンとして栄えたが最近では高齢化が進み、人口の流出が深刻化しているという。ただしその分、家賃が抑えられるので、この辺りに部屋を借りている学生も少なくないらしい。
 駅前の商店街は、三分の一程にシャッターが降りていた。いつも寄る花屋が開店していることにほっとしながら仏花を一対買って、坂道を上っていく。まだ切り拓かれていない山裾にさしかかる辺りで、足下が石畳に変わった。間もなく、目的地の寺院に到着する合図だ。点在する小規模な寺はかつての塔頭寺院で、昔はこの辺りも本山の敷地内だったのだと聞いたことがある。
 通りを抜けると、立派な造りの山門が見えてくる。仁王像に見下ろされながら門を潜り、境内を斜めに突っ切るように進むと、右手に墓所の入口がある。
燈子(とーおこ)、こっち」
 水場の傍らに、見慣れた姿がある。燈子の姿を認めて手を振る浹に、燈子も手を挙げて応じた。
「桐邑さんも、いらっしゃい」
 綾華を連れていくことは事前に連絡していたから、驚くこともなく浹が声を掛ける。
「トールさん、お邪魔します」
「いらっしゃいって、おまえの家でもあるまいし」
「うちの墓じゃん」
 軽口を叩きながら、浹が寺務所で借りてきた手桶に水を汲む。満杯まで入れたそれを「よっこいせ」と持ち上げたし浹が、燈子と綾華を先導して歩き出した。さほど広くもない墓所だが、きっちりとした区画に墓石が立ち並んでいるせいで、燈子はいつ来ても目的地を見失うのだ。確か、ふたつめの辻を入って10基めだったはず。
 だが考えるまでもなく、目的地には既に目印が


「あ、みっちゃん」
 綾華の声に、墓石の前の落葉を拾い集めていた市村が顔を上げる。
「や、燈子(とぉこ)ちゃんに桐邑さん」
「なんでお前がいるんだよ」
「毎年いるでしょ」
 何を当たり前のことを、とでも言いたげに眉を上げる市村に、燈子は溜息を吐いた。そう、この男はなぜだか毎年この墓参りに参加するのだ。親族でもないくせに。
「うちのね、父方のお墓だよ」
 浹が綾華に説明をしているのを横目に、燈子は市村が拾い集めた落葉を持参したビニール袋へと入れていく。
「ん」
「ありがと」
 雑草を抜いていた市村の方へとビニールを差し出すと、ぽい、と抜いた草が放り込まれた。
「ちょっとトールさん、見ました今の」
「見た見た。なんであの人ら、墓の前でいちゃついてんだろーね」
「誰が!」
 がばっと背後を振り返り、噛みつくように燈子はがなった。いつも通りのただの作業分担が、どこをどう見たらそうなるのか。
「はいはい姉さん、墓前で騒がないの。ばーちゃんびっくりしちゃうでしょ」
 睨み付けたところで、しれっとした顔で混ぜ返される。
「大体、お前がだな」
「わーかってるわかってる、大丈夫、ココデミタコトハダレニモイワナイ。ね、桐邑さん」
「はいさ! なーちゃんにもえっちゃんにも内緒です!」
「そうじゃない!」
 反射的に返してから、燈子は溜息を吐いた。幼少期から、この弟には口で勝てたためしがない。これ以上は疲れるだけだ。
「花」
「はいよ」
 毎年のことなので、連携も慣れたものだ。墓前の掃除を手早く済ませると、花と線香を立て、代わる代わる手を合わせた。
「――じゃあ、行くか」
 最後に手を合わせた綾華が立ち上がるのを待って、燈子は言った。
「お昼、どうする?」
「はい! 美味しいものが良いです!」
「なら、少し歩くけど老舗の洋食屋さんがあるよ」
「いいですねえ」
 早くも昼食の相談を始めた浹と綾華のやりとりを聞きながら、歩き出す。
「――なんか、今日静かだね」
 隣から聞こえた声に、顔を上げる。
「桐邑さんがいるから?」
 少し揶揄うような表情を浮かべて、市村が言う。
「まー……なくもない」
 さすがに寮生の前で素をさらけ出しすぎるのは、大人としてどうかと思っているのは事実だ。そう答えると、ふうん、と市村が呟く。さては信じてないな、こいつ。
 じとりと軽く睨むように見上げると、市村はちらりと前を行く二人へと視線を向ける。それから、こちらに視線を戻して、軽く眉を上げて首を傾げた。
「……」
 その無言の問いに、燈子は肯定も否定も返さず、たださらりと視線を流す。意図が通じているのかも曖昧なまま。
 そんな彼女に、市村はふ、と口元に小さな笑みを刷いた。
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