3月(中)

文字数 4,198文字

 裏庭の倉庫から担いできた木材を足下に置くと、燈子は辺りを見渡した。
 タヌキが出入りした穴のちょうど外側に当たる場所だ。もはやタヌキの姿は影も形も見当たらないが、寮の背後に横たわる山から続く鬱蒼とした茂みを見れば、野生動物の一匹や二匹、降りてきてもおかしくはないと思えてくる。熊ではなかっただけ、まだましか。
 見上げると、ほのかに赤く染まった空をバックに、寮の建物が黒くそびえている。築年数不明の木造の建物は老朽化が激しく、壁や床に穴が空くのも日常茶飯事。あけすけに言って、ずばり、ボロい。
「そりゃあまあ、建て替えにもなるわな……」
 むしろ、よくここまで保ったものだと、自分の置かれた境遇すら忘れて感心すらしてしまう。
 この老朽化著しい学生寮に代わって、新しい学生寮を――もう少し街中に近いところに――建てることが決まったと聞いたのは、つい先月のことだ。新しい寮は鉄筋コンクリートの4階建て、各部屋にトイレと浴槽を備えたオートロック付きの建物なのだという。
 これまではあまりに古いこの建物に恐れをなして入寮を諦める学生も多く、寮をなんとかしてほしいという保護者の要望が相次いでいた。くわえて、この少子化時代に入学希望者を確保するには、地方出身者や留学生が安心して過ごすことのできる新しい寮が必要だということになったらしい。
 実際、21世紀にもなって風呂トイレは共同のみ、隙間風の吹きすさぶレトロ感あふれる建物に好んで住み着いている学生は、ほんの一握りだ。本来70名定員の寮に現在暮らしているのは、半分どころか三分の一の23名。それも入寮後1年以内にアパートを借りて退寮する者の方が圧倒的に多いので、年単位で継続的に住んでいる物好きは、両手の指で数えられる程度である。
「さあて……っと」
 持ってきた板を穴よりも少し大きめのサイズに切り出して、穴を塞ぐ。
 燈子は元々、こういう大工仕事が好きだった。子どもの頃から、よく木材を切ったり削ったりしては、いろいろなものをこしらえてきたし、高じては建築関係の仕事を希望するようになった。彼女がこの寮の寮監として採用された理由もそこにある。建築学科を卒業し、一応は電気工事関連の資格も取得しているから、壁や床の修繕だけでなく、電気関係の修理も――簡単なものに限られるが――できる。
 時折くしゃみをしながら――もはやマスクを取りに戻るのも面倒だ――手早く作業を終えると、燈子は立ち上がった。
 ものはついでだ。他にも修繕が必要な箇所を確認することに決める。木材を担ぎ直して裏の方から壁を確認し、すぐに直せそうな所は補修しながら外周を回っていくと、正面玄関前を通り過ぎた辺りで、視界に何か動くものが映った。
「?」
 タヌキが戻ってきたのかと目をやった先に、走り去る子どもの後ろ姿が見えた。
「子ども?」
 近所の子が紛れ込んだのだろうかと、燈子はその後ろ姿を追う。足早に建物の角を曲がると、半ズボンをはいた少年の足が、門柱の外に出て行く所だった。
「――」
 ゆっくりと門に歩み寄り、外を覗く。少年は既に走り去ったらしく、寮の前の道路に人影はない。
「……まぁ、いっか」
 敷地内で迷子にでもなられたら問題だが、外に出て行ったのならば今日の所は良いだろう。近くにいたら一言注意しようと思っていたが、いない者に注意はできない。また見かけたら声を掛けようと心を決め、燈子は踵を返した。

 その時。
「――燈子ちゃん」
 その声に、燈子は足を止め――ることなく歩き去ろうとした。が。
「とーぉーこーちゃん」
「!」
 ふわりと爽やかな香りが鼻腔をくすぐったかと思いきや、背後から耳元に囁かれ、ぞわりと背筋が粟立つ。
「何すんだ!」
「え、聞こえないのかなと思って」
 振り返ると、長身を屈めた男が嬉しそうに笑っていた。
「聞こえとるわ! 後ろから囁くな、変態!」
 唸るように睨み付ける視線の先で、招かれざる客こと市村光紀がふふ、と笑う。
「燈子ちゃんてば、耳弱いよね」
「うるっさいわ!」
 反射的に言い返したところで、燈子ははたと我に返る。いつの間にか、すっかり市村のペースに乗せられてしまっている。額に手を当て、ふうと溜息を吐く。
「……お前に構ってる場合じゃなかった」
 日が沈む前に、一通り外の壁を確認しておきたい。燈子がよっこいせと木材を抱えた時、今度は寮の方からバタバタと足音が聞こえる。これはやはり永津子だろう。
「あ、いた。燈子さーん!!」
 玄関口から外履き用のサンダルをつっかけて駆けてきたのは、やはり永津子だった。
「どうした?」
「ミヤ先輩の荷物が重すぎて動かせなくってさー。あ、みっちゃんやっほー」
 ひらひらと手を振った永津子に笑顔を返す市村は放っておくことにして、燈子は頷いた。
「んーわかった。玄関に出せば良いのか?」
「そうみたい。もうすぐ引っ越し屋さんが集荷に来るんだって」
「了解」
 とりあえず、壁の修繕チェックは後回しにすることにして、燈子は玄関へと向かう。
「手伝おうか?」
 後ろからついてきた市村の言葉に、燈子が反応を示すよりも早く永津子が応じた。
「みっちゃん入っていいんだったら、その方が良いかも。とにかくめっちゃ重い上に何個もあんだよね」
「…………本か」
 件の荷物の主は宮前恵麻といって、とにかく大量の蔵書を抱えていることで有名な4年生だ。彼女が2年の時、あまりにも本を貯め込んだ部屋の床が抜けかけたため、空き部屋を使う許可を出したところ、あっという間に自室の両隣を書庫に改造した強者である。そのミヤもとうとう明日で退寮することになり、ここ数日は荷造りに奔走していた。
「あいつ、あんだけ言ったのに」
 こうなることは予測できたから、本は小さな段ボールに小分けしろと数日前に忠告していたのだが。
「箱の数が増えると、追加料金が掛かるって言ってたよ」
「それで動かせなくなったら元も子もないだろうよ……」
 ぼやいている内に玄関先に辿り着いてしまい、燈子は背後を振り仰ぐ。「ん?」と目顔で応じる市村を胡乱げに眺めてから、燈子は溜息を吐いた。
「とりあえず見てくる。お前はそこから中に入るなよ」
「えー、みっちゃんに頼めば良いのにー」
「こいつ入れると、手続きが面倒なんだっつーの」
 歴代の寮監が記してきた管理マニュアルには、突発的に男手が必要になった場合の手続きも――正規のものから裏道まで――書かれてはいる。が、いずれにしろ不用意に男性を寮の敷地内に入れないのに、こしたことはない。
「でも5、6箱はあったよ?」
「……まじか」
 げんなりとした表情を浮かべ、燈子は頭を抱えた。寮生達と複数で運んでもなお腰を痛めそうだが、やむを得まい。
「――市村」
「ん?」
 ちゃり、と裏側にある寮監の居住スペースの鍵を投げると、燈子は担いでいた木材を押しつける。
「そこにいたら目立つから、裏に行っとけ。ついでにこれ持ってっといてくれ」
「んー、行ってらっしゃい」
 ひらひらと手を振る男をちらりと眺めると、燈子は永津子とともに寮内に戻った。

 件の荷物は、想定していた以上に重かった。
「どうすんだ、これ」
 いわゆるミカン箱サイズの段ボールは、二人がかりでようやく持ち上がる重さ――おそらく30キロを超えている――だった。その数、計6箱。
「どうしましょ」
「どうしましょじゃねえわ」
 荷物の主のあまりに危機感のない口調に思わずツッコミを入れてから、燈子はがしがしと頭を掻いた。
「一回解体して、玄関で詰め直すのがベストじゃないか?」
 燈子と二人がかりでなら、とりあえず持ち上がることは持ち上がる。ただし、その状態を維持できるのは燈子の方だけだ。重い荷物など持たない生活を送ってきた寮生達の方は、揃いも揃って腕がぷるぷると震えていて、これで階段を降りるのはあまりにも危険すぎる。かといって、燈子一人では到底持ち続けられない重さだ。
 一度荷を開いて、本を玄関先まで運び、運んだ先から再び箱詰めをする。それが最も安全かつ確実な方法だ。箱の中身を全部出さなくとも、半分ほど出せば一人でも持ち運べるようになるだろう。
「え、無理だって。5時に業者さん来ちゃうもん」
「あと15分か……」
 やってやれないことはないが、人手が足りない。ここにいるのは燈子にミヤ、永津子となずなの4人だけだ。かなりぎりぎりの攻防になる事は否めないだろう。
「業者さんにここまで取りに来てもらうのってだめですっけ?」
「書類さえ書いてもらえればいけるけどな」
 手続き上、寮内に入る業者の氏名と連絡先を残す必要があるものの、とりあえずの手間はそれだけだ。だが、分刻みで集荷の予定が入るこの時期は、時間のロスという点で業者の方から嫌がられることも多い。
「……仕方ない、か」
 溜息を吐くと、燈子は階下へと降りる。1階に着いてすぐ左手の扉を開けると、その向こうは寮監の居住スペースだ。
「――市村」
「ん。どう、運べそう?」
 パーティションで目隠しをしたその向こうから、市村が顔を覗かせる。
「いや、思った以上に重かった。寮生に持たせて階段降りるのは無理だわ」
「そっか。じゃあ手伝ったらいい?」
「……悪い」
 せめて弟の浹がいれば家族枠で通せるのだが、この際、四の五の言ってはいられまい。とはいえ普段は邪険に扱っている相手なのに、こんな時ばかり都合よく使うのは、あまりに虫が良すぎるというものだ。そんな自分にうんざりしながらも、燈子は視線を逸らすことはせず、正面から市村に視線を合わせて詫びる。その視線を受けて、市村はなぜか嬉しそうに破顔した。
「んー? 燈子ちゃんに貸しができるんなら、むしろ大歓迎?」
「……やっぱいらん。帰れ」
「まあまあ、そう言わずにー」
 軽口を叩きながら、廊下に出て階段を上る。
「あ、みっちゃんだ」
 市村の姿を認めたミヤがいつもよりも半音高い声を発した。長身で整った顔立ちの市村は、人当たりの良さも手伝って、寮生の人気も高い――だからこそ余計に、寮内に入れることには気を使うのだが。
「ん。これだね」
「頼む」
 言いながら、手前の段ボールに二人で手を掛ける。
「せーの――お、結構重いね」
 そう言いながらも、燈子の手元にかかる重みは先程よりもかなり少ない。力仕事とは無縁の研究畑の住人のくせにと、ほんの少しだけ悔しいような気がして、燈子はそんな自分をそっと戒めるように息を吐いた。
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