第1話 迷い人

文字数 1,933文字

「今日は売れ行きが良かったな。久々に岡場所にでも行ってみるか」
 棒手振りの魚屋の半吉は、上機嫌で独り言をつぶやきながら家路についていた。
 ちょうど、馬喰町を抜けようとしていた時だった。
「そこの魚屋」
 半吉が後ろを振り向くと、若侍が立っていた。二十歳くらいか。どことなく、あどけなさを残している。
「すいやせん。売り切れたんで」
 半吉は担いでいた天秤棒を降ろし、桶の蓋を開けて、中が空なのを見せた。
「魚が欲しい訳ではない」
「じゃ、なんですかい?」
「本所の柳原町へ行く道を教えて欲しい」
「それなら、そこの両国橋を渡って、南へ行きゃあ、堅川がありやすから、その川に沿って歩いて行ってくだせえ」
 半吉は両国橋の方を指差すと、若侍は一言礼を言い、歩いて行った。

 一旦、神田佐久間町の自分の長屋に戻った半吉は、両国にある回向院門前の岡場所へ向かった。神田川の河口に架かる柳橋を渡ると、あの若侍がキョロキョロしながら立っている。別れてから既に半刻(一時間)程経っていた。
「まだこんな所にいたんですかい。柳原町へは行かなかったんですかい?」
「先程の。江戸に来たのは初めてで……」
「何でえ、迷子になったんですかい」
「迷子ではない。藩邸に帰る道が分からなくなっただけです」
「それを迷子って言うんですぜ」
「……」
「アッシは両国橋を渡って、回向院前の岡場所へ行きやすから、そこまで一緒に行きやすか。どうしやす?」
 若侍は一瞬迷ったようだが、「頼みます」と言って軽く頭を下げた。
 半吉は若侍を連れて両国橋を渡る。町屋を抜け、回向院前で立ち止まった。
「この道を真っ直ぐ行きゃあ、堅川に架かる一ツ目之橋がありやすから、それを渡ってから左に曲がってくだせえ。川沿いに歩いて行けば、柳原町に着きやすぜ」
 半吉はそう言うと、踵を返した。歩き出そうとしたが、前に進まない。若侍に帯をつかまれていた。
「離してくだせえや。アッシは岡場所に行くんでやすから」
「頼む」
「何をですかい?」
「方向音痴なんです。無事に下屋敷へ行ける自信がありません。一緒に来てくれませんか」
 若侍は手を合わせた。
 泣き出しそうな若侍の顔を見た半吉は、ハァーと息を吐いた。
「仕様がねえな。柳原町のどこに行きゃ、いいんですかい?」
「鈴坂藩の下屋敷です」
「鈴坂藩? 聞いたことねえな。鈴坂藩ってどこにあるんでやす?」
「伊勢国です」
「伊勢ですかい。それで、その鈴坂藩の下屋敷ってえのは、大きいんですかい?」
「我が藩は一万石の小藩なのです。だから、下屋敷も小さい……」
 拓乃助は消え入りそうな声で答えた。
「それじゃ、見つけ難いな。近くに行きゃ、分かりやすか?」
「多分」
「頼りねえな。まあ、いいや。行きやすぜ」
 半吉が歩き出すと、若侍が慌てて続いた。
 若侍は歩きながら尋ねる。
「名前を聞いていませんでしたね。拙者は鈴岡藩士の柚岡拓乃助と申します。魚屋さんは?」
「アッシでやすか。アッシは神田佐久間町の魚屋の半吉でやす」
「半吉殿は棒手振りでしたね」
「殿は止めてくだせえや。背中がむず痒くならあ。呼び捨てにしてもらって構いやせんぜ」
「半吉さん、棒手振りなら、江戸の町に詳しいでしょうね」
「詳しいって程じゃねえですが、ある程度は知ってやすぜ」
「江戸に剣術道場は何軒有りますか?」
「大きいのから、小せえのまで有りやすから、かなりの数ですぜ」
 拓乃助は「そうですか」と言い、ため息をついた。
「剣術道場がどうかしたんでやすか?」
「兄を捜しています」
「兄さんのいる剣術道場を捜しているってことですかい? その道場は何て名なんで?」
「分かりません」
「えっ」
「兄は五年前、『剣の道を極める』との書置きを残して脱藩しました。風の噂で、江戸の剣術道場で修行をしてるらしいことを聞いたことはあるので、多分今も……」
「多分って。それじゃ、江戸中の剣術道場を捜し回っても、いねえかもしれねえじゃねえですかい」
「そうなんですが、手掛かりは剣術道場しかないのです。片っ端から剣術道場を当たってみるしかありません」
「難儀なことでやすね。兄さんは、自分のやりてえことをするために出て行ったんでやしょう。放って置きゃいいじゃねえですかい」
「事情があって、そういう訳にもいかないのです」
 拓乃助は深刻な表情をしてうつむいた。
 気軽に話し掛け難い雰囲気になり、二人の会話は途切れた。黙って進むうちに、柳原町に着いた。
「ここらが柳原町ですぜ。拓乃助さん、見覚えがありやすか?」
 拓乃助は大きな屋敷の門を指差した。
「あの門、あの門の先にある辻を曲がった先に我が藩の下屋敷があります。ここまで来たら、もう大丈夫です。半吉さん、お世話になりました」
 拓乃助は半吉に軽く礼をすると、走り去って行った。
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